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続・時の流れに思うこと

先日、私は31歳の誕生日を迎えた。

30歳を大きな節目に感じていた私は、そこから1年もの時間が流れてしまったことに喜びはなく、どちらかといえば憂いに近い感情を抱いていた。

節目のことで言えば、2年前の春に7年連れ添った恋人と別れてしまったできごとは大きく、そこからの経過で時間の質量を測ろうとする頭がある。

29歳でそれまで描いていた未来が砂浜に書かれていたかのようにあっさりと霧消してしまって、自失の時が始まったからだろう。

20代最後と思っていた時間から30代最初の時間を終えて、私はこの新たに生まれたばかりの2年の時間が瞬く間であったことに驚く。

そして、未だに私の歩く道に灯りは見えていなく思う。


ひとり身を嘆くわけでも、センチになったわけでもないから、ここでこの話は方向を戻しておこう。

時間の概念について考えることが多く、その客観性と裏腹に個人の感情が染み付くから、特殊なものなのだろうと思う。

以前もそんな時間に関する思いを綴っていた。

「22世紀に生きることができない残念感」については今でも度々思っていて、飲みの席で肴にすることも多い。

たいていまだ幼い友人の子を羨んで、私にもそんな未来があったかもしれないと自虐に走ってしまうのだが。

この文章を書いてから2年が経った今でも、インターネットコミュニティで10代の少年たちとやり取りをする機会がある。

彼らはまだ、ドラえもんに会える可能性があるのだなあと、ぼんやりとした羨望を未だ持つばかりだ。


世代を意識するシーンには文化的要素が絡む場合がほとんどである。

ゲームはその筆頭で、私たちデジタルネイティブ世代が育つ上で時にコミュニケーションのツールにもなる、日常に根差した文化であった。

先日、私がかつて学生だった頃に遊んでいた2006年発売のゲームがフルリメイクして発売された。

めっきり家庭用ゲームをやらなくなって久しいが、遊びたいという溢れるような懐かしさに先行してやってきたのは、この初版からリメイクまでの間に横たわる「18年」という時間の重さだった。

単にその年月の長さに驚いたのではない。

私がかつて「はるか昔のこと」と感じた18年が、とても古びた印象などなく経過していたことに、衝撃を感じざるを得なかったのだ。

そして、この2006年という時代は、今を生きる中高生からすれば「はるか昔のこと」なのである。

私が2006年に生きていた時に思った1988年と、2024年を生きる者の2006年は同じだという事実に気づいて、たじろぐ自分を認めざるを得ないのであった。

もっとも、2006年時点で18年生きていなかった私と、2006年から18年生きた私では、時間のスケールが違っているのも当然であろう。

感覚は時間の経過と共にアップデートされるもので、過去として堆積していく時間には想いの乗った色が付いてしまうことを改めて知った。


振り返ってみると、時間のスケールというか、質量のようなものについては昔から考える機会を持っていた。

始まりは幼い頃、1分間が60秒と初めて聞いた時である。

「いーち、にー」と声を出して数えるお風呂場を思い浮かべ、そんなものかと実感なく理解した記憶が残っている。

ところが、10分間が600秒と教えられると、なんだか急に呆気なく感じてしまった。

息をしている間に2,3と過ぎていくものを、たった600重ねただけなのかと、感覚と現実のギャップが拭えなかったのだった。

1時間が3600秒だと言われると、もうそれは信じ難かった。

1時間はそんなに短いものではないと、感覚が先立って納得できない自分を強く感じた。

大人になった今では多少是正されているが、それは正しくは加齢に伴って単に時間の流れを早く感じるようになっただけなのだろう。

ただ、それでも未だに納得ができないのが1年という単位である。

正確には1年を重ねて考えた時と言えるだろうか。

つまり、1年365日ということにはさほど疑念を持っていないのだが、それが2年、10年と掛けられると、途端に違和感を覚えてしまうのだ。

2年間が730日、10年間が3650日と表されると、これっぽっちしかないのかという愕然とする思いを感じずにいられない。

100年間がわずか36500日しかないというのは、最早人間に与えられた時間の短さに儚さを感じてしまうほどである。

2024年現在から、2100年までの日数は27500日ほどだ。

ドラえもんがそう遠くないことを楽観的に思える一方で、自分に残された時間がこれよりも少ないものであろうことに、羨望よりも勝ってくるものが見えてきてしまう。


若さを主張していられるのが30代までとすると、私に残された時間は3000日と少々ということになる。

その間に新たな出会いをして、結婚をして、家庭を築いて…ということがあるのだろうか。

「案外、来年、再来年にあっさりなんてこともあるかもよ」

と、友人の励ましを聞いて、それが365日、730日と変換されると、そんな短い間に始まりからゴールまでの一連を終えられる気は到底しない。

まして生命の誕生に立ち会うことや、一国一城の主となることなど、とても非現実的に思えてしまう。

だが、そうした未来の有無や私の感覚に関わらず、この体も精神も老いていき、同様に朽ちていく人や事物との別れを経験していくのだろう。

いつまでもドラえもんなどと言っているのではなく、現実的な手近な未来を改めた視点で見つめろという声が聞こえてきそうだ。

自失の時は、ほんの僅かと感じる内に終わりを見せるのだろうか。

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