疑ってみるシリーズpart2

疑ってみる。

長崎で生まれた私は、原爆投下の歴史と共に生きてきたと言っても過言じゃないと思う。
夏になると、小学生の宿題「夏休みの友」は、一日1ページずつ宿題をこなしていくと8月31日におわる計算で
8月6日のページは広島原爆のお話、8月9日は長崎原爆のお話、15日は終戦のお話。
それ以外にも、戦争についてのお話は年齢に合わせてよく記載されていたし
8月9日の登校日には必ず小中学校では平和集会があって、戦争映画をみんなで観たり、平和の歌をみんなで歌った
「裸足のゲン」は友達と回し読みしたし
公民館で開かれる子供向けの映画祭だって、子供心にも苦しくなるほどの、「戦争のお話」の映画がよく放映されていた。

怒り地蔵とか、片足鳥居とか、おむすびをもった少女の立ち姿とか、赤ちゃんを抱いたまま黒こげのお母さんとか、影だけが残った壁とか、とにかくどれだけでも口にできる。脳の中なのか目の裏になのか、焼きついているくらい、私にとっては自分の目で見てきたと錯覚してしまう程の当たり前の歴史の一部。

植民地とか、従軍慰安婦とか、捕虜とか、
日本人として目を背けたくなるような歴史も、
それはそれとして受け止めて、自分なりに消化して学んだつもりでいたけれど
世界にはこんなにも、偏見や差別があって
私自身も、その渦の中にいるのだと気づいたのはもっともっと後のことでした。

疑ってみる。というか
人生で二度目、深く考える機会を持ったのが高校生の時

どうしても英語をうまく喋れるようになりたくて
洋画や洋楽が好きで、字幕なしで映画を見れるようになりたくて
映画の中の俳優のように、カーペンターズのカレンのように流暢に英語が話せるようになりたくて

わがままを言って交換留学をさせてもらった時でした

アメリカの、メリーランド州の片田舎の公立高校に配置されて
日本人は二人、ドイツ人が一人、
日常生活で日本語を使うのは禁止。という環境の中
1年間学ばせてもらいました。

最初はどの授業もさっぱりわからなくて
だけど毎日がとても楽しくて充実していて
日本との友好の証に、庭にアメリカの国旗と、日本の国旗を用意して立てかけてくれるホストファミリー
敬虔なクリスチャンであるホストペアレンツの愛情と優しさと
ホストブラザーとシスターの可愛さとで
私の英会話力はぐんぐんと上がっていったように思います

日本の学校でいう2学期に、必須選択授業の中から、アメリカンヒストリーを選択
ミスタービーの現代史のクラスがとても楽しかったので、アメリカの歴史も学んでみるか、という軽い気持ちで選択したのだけれど
第二次世界大戦の話になると、私の中でだけかな、

空気がガラッと変わりました


すごく極端な教育(授業)ではなかったと思うのだけど、
核爆弾を日本に落としたのは当然で、あれがなければ戦争は終わっていなかった
アメリカは正義で、神の御加護があったから勝利をしたのだと
大きな声で先生が叫び、クラスのみんなは拍手をしたのです。

私は、もう、胸が裂けるような、燃えるような、なんとも言えない苦しい、悲しい悔しい気持ちになって
「no! God does not care only America or Japan.
God bless Japan too! God bless Japan too!」
一人で、泣きながら手をあげて、立ち上がって、訴えました。

みんなは私をなだめるように慰めてくれて、その日の授業は終わりました。

疑ってみる。
私が私として育った環境は、正しかったのか?
私が私として学んだその知識は、正しかったのか?間違っていたのか。

その時の話を私は、ホストファミリーには話せなかったような気がします。

その年の12月8日
「今日だけはごめんねあすか」と言って
ホストファザーは日本の国旗だけをおろしました。

真珠湾攻撃の日。

私は、罪を憎んで人を憎まずという精神を
このホストファザーからも深く学びました
日本の国旗が降ろされて、戦争について考える時間をもとうと話したのをきっかけに

その日から度々
元空軍のパイロットだったホストファザーと、寝る間を惜しんで戦争の話をするようになりました

ホストファザーは、たくさん本を持っていて
その本を持ち出して、私に丁寧に説明をしてくれて
アメリカの戦争の歴史がよく理解できるようになり

私は私で、同じ写真を観た記憶と、だけどその経緯や説明、理解が、彼の話や説明と違うことに気がついて
ネットから情報を引っ張ってきては
日本ではこんな風に記録があるよ、原爆資料館ではこんな風に書いてあった
こんな風に報道されてるよとホストファザーに伝えました

ホストファザーも私の拙い英語を一生懸命聞いて、理解しようとしてくれて、そして絶対私や、日本を否定することも、アメリカを否定することもせず、ただただ、どうしたら良かったのか?を、一緒に考え続けてくれたような気がします。

生まれた国や、育った環境や、その時々の立場で
同じ事柄が、こんなにも違ってとらえられたり、
こんなにも誤解を生んだりするんだねと
とことん学び、とことん対話をして、お互いを否定せずに理解し合う議論の大切さを
ホストファザーは私自身にそれを経験させることによって身につけさせてくれた

それは後に嬉しい報告へと繋がります

アメリカンヒストリーのその教室にいた同級生たち数人が、私の話を聞いてくれるようになりました。

それから、大学で日本語を選択してくれたり、日本の歴史を学んでくれたり
戦争について考えてくれたり
日本を訪れて、一緒に原爆資料館に足を運んでくれたり
核爆弾の投下は、肯定できるものではないと公の場で発言してくれたり
少ない人数だったとしても、国境を超えて、一人一人が自分自身の今までと、これからと、向き合えた

もちろん私自身も。

そして、私という一人の日本人の存在が、
彼らの今までの常識を「疑ってみる」きっかけになれていたのだとしたら
あの時たった一人立ち上がって、
「神様は差別しない。日本にだって神の御加護はある。」と、
叫んで良かったな、自分の意見を発言して良かったなと。

今でも時々、その気持ちを思い出します。


「疑ってみる」ことは悪いことじゃない。


写真は、20キロくらい増えて、70キロオーバーになっていた高校生の私と、親友のヘザー。自分が太ったかもしれないなんて、疑ってもなかった時。笑

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