見出し画像

読書記録:増谷文雄『新しい仏教のこころ わたしの仏教概論』

親鸞の伝記を読んで以来、仏教へのモヤモヤした疑問は増えるばかりで、何か知識を増やさねばならぬと概論を手に取った。

増谷文雄 著『新しい仏教のこころ わたしの仏教概論』(講談社現代新書)。浄土宗のお寺の家に生まれたものの、僧侶にはならず仏教学者となった著者。自身が仏教をどのように理解していったか、という道すじをもとに概論が組み立ててあり、とても読みやすかった。

私のなかのモヤモヤは上手く言語化できずにいたのだが、著者のおかげで輪郭をとらえることができた。モヤモヤは主に2点。①仏教の宗派は色々あるが見ている方向は一緒なのだろうか。②専修念仏の仕組みがしっくりきていない。

まず①について。これはブッダの役割を理解できていないからモヤモヤしているとわかった。仏教の信仰の対象は仏である。その仏をどのように信仰するか、という道筋をたてたのがブッダであって、学問の始祖のような立ち位置なのだ、ということを明確に認識してこなかった。

ブッダの後にあらゆる仏教者が、自らの考えを組み立てていくわけだけれども、それは全て「どのように仏や菩薩を信仰すべきか」という考えの違いであって、基本的には同じ方向を向いている。そういう根本的な理解をしないままに各論を学んでいたから理解できないことがあったのだろうと思う。

②専修念仏の仕組みがしっくりきていない、というのは著者も同じだったようだ。私は親鸞の長い伝記を読んだのに、なぜ念仏だけで往生できるのかが言葉で説明できないままであった。とにかく念仏すればいいらしい、というだけで納得するのは難しい。

著者はこの答えをキリスト教の新約聖書のなかの書簡から見出す。

わたしとしては、思わぬところで、思いもよらぬことばに出会った思いであった。信仰の成立のためには、内なる心において信ずることとともに、また、それがことばとなって外に表現されることが必要であるというのである。それは、口称念仏という課題をかかえてまわっておったわたしにとっては、天来の啓示にも似たる思いであった。

7章<1>口にいいあらわして救われる

なるほど、心でいくら信仰していても、それを外側に出す行為が必要で、その最も簡単な方法が念仏ということか。写経や座禅も同じ効果を持つが、念仏1度でも信仰していることを表出できればそれで済む。

なんだかものすごく腑に落ちた気がしたのだけれど、深く考えを巡らしていくうちにまたよくわからなくなってしまった。専修念仏を学ぼうとすると、子どもの時、親や先生に理由を説明してもらえないまま「とにかく言われた通りにやりなさい」と叱られたあの気分になることがある。もしかすると私の気質と合わないのかもしれない。

この本を読んでわかったのは、仏教について網羅的に理解するのは難しいということだ。著者も概論を書く難しさを語っている。上に書いたことも、理解不足だったり見当違いだったりするだろう。

まだまだ勉強しなければならない。そのうちに、私にフィットするような解釈や宗派に出会うこともあるだろうか。その瞬間を楽しみにしていこう。


以下、雑記です。
*****

夏はどうにも苦手です。

体調を大きく崩し、それが何とか治ったところでウイルスの標的となり、久しぶりに高熱を出しました。内科の先生もびっくりの溶連菌とコロナのダブル感染で、コロナウイルスの後遺症なのか、熱が下がって1週間以上経ってもいまだに咳をしています。

しかしながら器用なもので、大切な予定と予定の間で熱を出していたので、どれも欠席せずに何とか予定をすべてこなせています。7月はあっという間に過ぎ去りました。

友人の結婚式にも参加できました。
素敵な前菜、久しぶりのキャビア!

8月はお盆に夫の実家に帰省する以外は他に用事もないので、少しのんびりできそうです。部屋の隅に積んである物を片付けたり、目を逸らし続けている水回りを掃除したり、家の正常化に努めようと思います。

今回も読んでいただきありがとうございました!

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?