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LGBTQというラベルや名前がないと《私》でいられないの?

個人のセクシュアリティは絶対的
その個人のもので、自由であるはずなのに
《このセクシュアリティはこうあるべき》
だとか《こうじゃないとだめ、おかしい》
みたいな謎の“ボーダーライン”的なのがある気がして。セクシュアリティってそういうものじゃないよな~って。
セクシュアリティがどうであれ
他人にあれこれ詮索される筋合いはないし
その個人の感覚や考え方、捉え方や在り方は
その個人のもので自由。
セクシュアリティは全人類に関係があることだけど、だからって全員が全員 絶対に
カテゴライズしなきゃいけない訳でも
決まった型にはめる(はまる)ものでもない。

あくまで《ひとりで孤独を抱え込まずに自分が心地良く生きるための選択の一つ》だからそこに決まりだとか、正解・不正解とかはない、と私は思っている。固定観念やマジョリティに振り回されず自分なりに、そして自由に生きるためのもので、その選択の一つに
セクシュアリティという形があるだけなのにその中でも決めつけやボーダーライン、カテゴライズがある…それってすごく変だし奇妙だなって。

私みたいに相手に性的欲求が向かない
性行欲が全然ない《アセクシュアル》だと
してもいつか誰かとSEXしたいなって時が
来たらすればいいし、したからってそのコミュニティから永久追放される訳じゃない。
役所でアセクシュアルの書類を申請するわけでも、誰かに許可を取らなきゃいけない訳でもない。個人的には
『私アセクシュアルなんだよね』って
名乗るというか明言すること自体、なんか
どうしても自分には合わないな~って思っているけど、名前があろうがなかろうが結局
私は私でひとりの人間で性別関係なく
どんな姿形でも名前があってもなくても
《その人自身》を受け入れるようなそんな
世の中であってほしいなって。

同性が好きな人が
『私は同性愛者です』って明言しなきゃ
恋愛しちゃいけない訳じゃないし
トランスジェンダーの人が
『私はトランスジェンダーです』って
明言しなきゃ異性の格好をしちゃいけない訳でもない。

自分なりに心地良く生きられるなら
何だっていいし、自由。
セクシュアリティに正しさや決まりやライン正解・不正解はない。
セクシュアリティが変わるのだって
季節が変わって衣替えするくらい自然で普通自分の感じ方や気持ちに名前やラベルを付けず、型に嵌めない・嵌まらないのだって自由そもそもセクシュアリティを選ぶかどうかも自分次第で《選ばない》のも素敵な選択の
一つだと私は思ってる。

そういう特に否定もせず
かと言って特別 肯定もせず
もちろん相手の事は尊重するし大切だけど
“程よく無関心”な世の中になったらいいなってぼんやり思う😎💙🌟