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書く習慣に救われた夜。あてもなく歩きたい夜もある。

なんとも言えない自己嫌悪に陥った日は、
夜道をあてもなく歩きたい気分になる。

ホント、いま思えばたいしたことないことなんだが、仕事で少しヤな気分になることがあった。自分の中での美学というとカッコよすぎるが、腑に落ちない部分があり、議論を交わしたが、思うような結論には至らなかった。

事後、脳内に流れていたのは、ライムスターの「B-BOYイズム」。

「♪ 決して譲れないぜ この美学 ナニモノにも媚びず己を磨く」

宇多丸さん、俺は譲っちまったよ...


夜道で気づいた

こんな気分のときには、誰もいない夜道が心地いい。車が走っていく音だけが過ぎ去っていき、たまにパトカーのサイレンがけたたましく近づいてきて、遠ざかっていく。

市街地から少し外れた場所にあるこの辺りには、物流倉庫があり、高架になっている歩道橋の上からは、煌々と光る倉庫のライトと、フォークリフトがせわしなく小回りをきかせながら動いているのが見える。

あぁ、こういう人たちの働きがあってこそ、ネットで注文したものが、いつの間にやら玄関に届くのだと思い、ありがたいものだなぁと、それを眺めていた。

気づけば、その光景に少しの感謝が湧いたからか、
すさんだ気持ちが、少しだけやわらいでいた。

怒りが自分のなかに湧いてきたとき

それと同時に、
誰かが言っていた言葉を、思い出した。

「怒りが湧いているときは、
 感謝を忘れているときだよ。」

たしかに、そうかもしれない。

日々のあたりまえのことへの
感謝を忘れて、

アタリマエノコトだと思い、
そこに怒りを感じ、その後、

怒りを感じた自分は未熟なんじゃないかと
恥じる感情から自己嫌悪に陥っていく。

感情が、そんなルートをたどっていたことに、
自分で気づくことで、気持ちが落ち着いてきた。

感情が文字として切り離される

こうして「書くこと」で、「感情」という目に見えないものが外に現れ、文字として自分から切り離されることで客観性を持つようになり、それを見て冷静になってくるのかもしれない。

そうか、だから、モーニングページは効果があるのかもしれない。

なんかのセラピーで、ひたすら紙に書き殴って捨てさせるというワークがあった気がする。それはたしかに効果があるだろうことを、今ここにつらつらと書き連ねることで実感している。

ぼーっと夜道を散歩しながら、10分ぐらいするとなんとなく書きたくなってきて、スマホのメモ帳に思いのままに書き始めた。書き終わる頃には、少し気持ちが落ち着いていた。だいたい30分ぐらい書いてたのかな。

書くハードルを下げていたからこそ

「書く習慣」を読んで、書く習慣ができつつあったからこそ、そして書くハードルが下がっていたからこそ、こんな取り留めのないことも、こうして書くようになった。

昔は、こんなことを書こうとは思わなかった。自分の中での、どうでもいい心の動きを書き出すなんて、しなかった。でも、書いているうちにわかってきた。

書くことは、自分に対してのメッセージングなのかもしれない、と。
自分が、自分にメッセージを送っている。

「大丈夫だよ」と人に言われることで励まされたりもするが、それ以上に自分が自分に対して、心から「ま、大丈夫だよ」と思ってあげられるようになることのほうが、すんごいパワフルに効いてくるんだろう。

そのためのツールが、書くこと。そして、なんでもないような、誰に読ませるわけでもないようなことを書くことで、何より自分が落ち着いてくる。

そして、もしかすると、今日のこんな文章を、どこかの誰かが読んで、なにかしら感じてくれたりすることもあるのかもしれない。

あ、ビールがなくなりました。良い夜を。おやすみ。

(30日チャレンジ、5日目、完)

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