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雨の日は気が沈まないといけないと考えたのは誰だろう

テンポの遅くなったピアノが音を奏でる。明るかった登場人物が、気分を落とし始める。シリアスなシーンが流れ始める。

これらすべて、雨が関わっている。

決まりきったかのように、登場人物の気持ちを天気が察したかのように、それはそれは当然に雨雲がやってくる。海水の温度が上がり、蒸発し、それが大気で冷却されるだけの行為に人々の心は動かされてしまう。

こうだから、こういう気持ちだという文化的慣習が成立しているのもあるいみ厄介である。つまり、他人の気持ちはわからなくて当然だから、こういうときはこう感じているということにしておこうというのだ。

思うにこの国には、他人の気持ちを理解できる人間がとても少なく感じる。

殴った起き上がりこぼしに「起き上がれよ」と罵声を浴びせるこんな世の中だから

「これってどう思う?」とよく聞かれる。かくかくしかじかと答える。すると、求めてもいない賛美や、評価、相手の意見が返ってくる。いや、投げつけられてくる。要するに、相手がしてきたのは質問ではなく、自分をダシにしてさらに相手自身の話をするということだ。

起き上がりこぼしよろしく、起き上がって殴られるとわかっていても質問の返答をしてしまう。殴られるのがいやだから、黙っていると起き上がらずにいると、なんで起き上がらないんだよ、と相手はぼやく。

黙ろうが、返事をしようが、自分は相手に一方的に話されるためにいるんじゃないか、と思うときがある。つまり、コミュニケーション能力はもとめられていない。求められるのは、如何に起き上がりこぼしとして優秀であるかだけ。相手の思うがままに殴られ、相手を気持ちよくすることを求められているのではないか。

自分の気持ちはそこに存在しない。相手が求める自分の気持ちがそこにあるだけ。

あなたは誰の心も動かすことはできないし、誰かから心を動かされているわけでもない

話を天気に戻そう。大ヒット映画の『天気の子』にこんな語りが入る。

天気なんて狂ったままでいいんだ 『天気の子』新海誠

祈るだけで天気を晴れにしてしまう陽菜と、家出少年の帆高の物語。多くの人々の願いから、あらゆる場面で晴れにするように願われ、その代償として陽菜はある日消えてしまう。そんな陽菜を助けるために、帆高が言い放ったセリフである。

日本人は昔から、自然の猛威にさらされてきた。地震、台風、火山、そして季節の移り変わり。ばちが当たるという言葉にもあるように、多くの災難とともに自責の念に駆られていたのだろう。また、天気に心を動かされたなどと他責にもしていたのだろう。

そもそも、人に他人の心を動かす力なんてない。ましてや、自然に影響を与えるなど到底できることではない。にも関わらず、私たちは日々、起き上がりこぼしとなって、迫る人的災害をただ自責しながら耐え忍んでいる。

誰かが悪いわけじゃない。もともと世界なんて狂っているんだ。晴れようと、雨が降ろうと、あなたが起き上がりこぼしになって殴られ続けようとも、そんなことお構いなしに世界は進んでいく。だから、せめて自分のいたい位置にいよう。

あなたに世界は変えられないし、あなたに他人の心も自分の心も変えられない。だけど、それで十分なんだ。

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