見出し画像

五十嵐大著『エフィラは泳ぎ出せない』は「一般常識」への反逆の破壊槌である(簡易書評)

知人の作家である五十嵐大氏が『エフィラは泳ぎ出せない』という小説を出版した。先ほど読み終えたので早速だが簡単な書評を書いてみたい。

『エフィラは泳ぎ出せない』は、東京に住む「衛」のもとに地元の宮城県松島町にいる知的障害のある兄の「聡」が自殺したという電話があったところから始まる。急遽、実家に戻ると聡は毒物を飲んで死んでおり、警察も事件性はないと処理していた。しかし、その状況に不審を持ったは兄は本当に自殺したのか疑い、父や伯母、幼なじみを巻き込んでその真相を探っていく、というのが大まかなあらすじだ。

この物語の視点は衛から父へ、父から伯母へ、伯母から幼なじみへ…と変わっていき、それぞれの抱えた秘密を明らかにしながら、最後の真相へ迫っていく。この秘密が暴かれる過程において、障害やさまざまな「普通と違うこと」という暴力的なまでの理不尽さと向き合う苦しさや悲しみが生々しく描かれており、読者の胸を締め付けていく。そして本当の「加害者」は誰で「救いの手」は誰なのかが明かされた瞬間に大きな衝撃を与えられる。この大きな衝撃をぜひ味わってほしい。

ーーー

それにしても、「知的障害者をもっていた兄が自殺したという知らせが入る」というオープニングは、障害という分野にあまり興味が無い人からすれば「リアリティ」をあまり持てないかもしれない。しかし、知的障害者の自殺は(残念ながら現実世界でも)決して珍しいことではない。

人間は何事であっても「できる」と「できない」を明確に分けることはできない。ほとんどの人はその合間の何処かにいて、それは障害者でも同じだ。障害もさまざまなものがあり、同じ障害があっても障害の程度やその人の能力によって全く異なる特徴を持つ。だから「障害がある」ということは「何かができない」ことを保証するわけではないし、同時に「何かをしない」ということの裏付けにもならない。例えばそれが自殺だとしてもだ。

知的障害者が自殺をするということに対して違和感を持ってしまうのは、「知的障害者」という言葉の裏に「何もできない人」というニュアンスを読み取ってしまう「思い込み」があるからではないだろうか。この「思い込み」を大きく揺さぶっていくのがこの作品の醍醐味であり、「知的障害者の幸せ」や「知的障害者はかわいそう」といった「常識」への反逆の破壊槌のような作品である。

とはいつつも、普通に良質なミステリー小説で、エンタメとしても純粋に楽しめるものである。あまり重々しく考えないで、五十嵐さんの描く美しい海の世界に没頭してほしい。

ーーー

五十嵐大氏はさまざまな困難を抱えた家族の中で過ごし、高校卒業と同時に上京したライターで、祖父の葬儀での人間模様から家族を再構築していく『しくじり家族』でノンフィクション作家としてのデビューを果たした。


その後、CODA(聴覚障害がある両親から生まれた子ども)としての経験を描いた『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』を執筆。この『エフィラは泳ぎ出せない』は初の小説となる。

『エフィラは泳ぎ出せない』は彼がこれまで癖のある家族や、障害のある親を持ったことで経験したことや考えざるを得なかったことがベースに描かれている。私は前著2冊を読んでいたし、彼と実際にお会いしたこともあるのでバックグランドや人となりはそこそこ知っているつもりなので、小説というよりリアルティのあるノンフィクションをよんでいるような気持ちになった。

この作品が気に入ったら、前著や彼のインタビューなどを読むとより深く理解できるかもしれない。

ーーー

この作品は、さまざまな読み方ができるミステリー小説でどのようなメッセージを受け取るかは読み手に委ねられる部分がある。ラスト一行はそのことを強く意識して書いたものだろう。そのメッセージをどう解釈するか、ぜひ最後まで読んで考えてほしい。

夏が終わり、秋に入りつつあるこの季節におすすめの一冊である。


妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。