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閉ざされた道、開いた道

ちょっとした報告と個人的なお話。

奨学生に選出していただきました。
Deutschlandstipendiumという大学を通じて全学科の学生の中から選抜される奨学金生の1人として推薦をいただきました。(私の大学は音楽だけではなく、演劇やダンスの学科もあるので、いろんな学科の学生が集まります)
こちらのDeutschlandstipendiumは月々の奨学金で、選出してもらうためには学校からの推薦と自分のモチベーションレター、これまでの成績や入試の成績、コンクール歴から奨学生を選びます。そしてこれはドイツ政府と個人スポンサーによって成り立つ奨学金となっており、個人スポンサーと直接やりとりをすることができるのも大きな強みです。(例えば、スポンサーの個人的なパーティーやクローズドな場所で演奏を依頼してもらったり、クリスマスカードのやり取りをしたり、自分のコンサートに招待したり)
たくさんの額ではありませんが、それでも海外で勉強をする選択をした学生にとっては本当に感謝の気持ちでいっぱいの援助になります。
さらには、ドイツ政府からということで本来であればドイツ人の学生が最優先で援助を受けるところ、アジアの日本人の学生が選ばれた意味の重みを感じています。

2023年11月にスポンサーと奨学生たちのためのパーティーが学校主催で開かれ、初めて私のスポンサーにお会いすることができました。
私のモチベーションレターを読んでくださり、また共感してくださったと事前にメールをくれ、直接会えることを特別楽しみにしていました。

実は、昨年の4月に自分の父を亡くしました。スポーツが好きで、年中テニスとヨットで真っ黒に日焼けしているアクティブな父でした。本来なら起こるはずのなかった出来事。いつもの通り海へヨットを楽しみに行った父が同じ姿で家に帰ることはありませんでした。失うはずのない人、「今」経験しなくてもよかった、したくなかった痛み。喪失感。失うという経験。ずっとこのまま続くと思っていた世界がものの一瞬で覆され、終わりのない奈落の底に突き落とされ、今もなお彷徨い続けています。
立て続けに、すでに余命宣告を受けていた祖父を看取り、対極的な死を一番最前列で見せつけられ、葬儀に追われた4月。ドイツの大学院の入試は5月末から6月にかけて行われるため、その準備もしなくてはなりませんでした。妹も私より少し早いタイミングで海外大学の入試を控え、情緒不安定な妹をとにかく入試へ送り出し、母と二人三脚、そして妹も含めて女三人四脚で怒涛の葬儀や手続きを進め、私が気がついたときにはドイツの音大で錚々たる教授たちの前で楽器を持っていました。緊張する間もなく入試が執り行われ、教授から結果を聞き、そしてまた気がついたときには飛行機に乗り、家に帰ってきていました。
混乱。ただひたすらに混乱。そしてメンタルは混沌、混濁。

とにかく前に進むしかない。そして、すでに行くことに決まっていた次の旅に向かう準備をしました。父と祖父の納骨やいろんなことのために一度日本へ帰り、そこから、お世話になっている先生の講習会へとミュンヘンへ飛んだときにはズタボロの心を引きずって、先生の前にとにかく楽器を持って立つことしか考えていませんでした。
ミュンヘンは私にとって特別な街。父が愛したドイツの街であり、私が初めてミュンヘンに降り立ったとき、父の出張と時期が重なったこともあり、せっかくならと父がわざわざ旅程を変更して私を空港まで迎えにきてくれた場所でした。そして、このバスに乗ると良いんだということや、このホテルを常宿にしてるんだ、〇〇が美味しいんだよと私にたくさんのミュンヘンの思い出を教えてくれた、ヨーロッパ・そして世界の中でも特別思い入れのある場所。空港に降り立った瞬間にいろんな思いと記憶がフラッシュバックし、思わず楽器と一緒にその場に蹲りたくなりました。そして、その講習会の期間の間は父の常宿へ。いろんなことが相まって、講習会の最初のレッスンの途中に弾きながら、そして自分の先生の音に揺さぶられて大号泣。レッスンで泣くことなど今までなく、怒られたとしても一切涙は流してきませんでした。あの時はもうどうしようもないくらい限界で、いつもオンラインでしか会えない先生が目の前にいる安心感と、そういえばこの先生に初めて会った初めてのミュンヘン修業の時は父がいたんだと思い出し、何も抑えるものがなくなり、何かが決壊した瞬間でした。
もう何がなんだかわからないくらい泣きまくり、公開レッスンだったため何人かの生徒とその親御さんがいるにも関わらず、先生に抱えられながら崩れるようにして泣き続けました。

ことさら冷静に平静を保ち、入り乱れるさまざまな人たちの思惑や先入観に乱されまいと気を張っていた糸がぷつっと・ぶつっと切れた瞬間。
次の道へ進まねば、私は歩き続けなくてはならない。それでも、私は音楽家としてこの場に立ち続けなくては。止まってしまったらもう戻れないという怖さによって走り続けることに限界を感じた瞬間でもありました。
いろんな人に「休むべき。楽器を置いて音楽から離れた方が良いのでは。」と言われ、それにずっと首を振り続けた私。ここで止まるわけにはいかない。どんなことがあろうとも舞台に立ち続けて、茨の道で血だらけだとしても音楽は平等で、聴衆に音楽を届け続けることが音楽家の使命だと強く強く思っていたのです。
さまざまな言葉や目線から私を心配してくれた人がいましたが、2人の先生だけは、「君が立って歩くのであれば、ずっとここで待っている。どんな状況であれ君が”今”やりたいことを信じればいい。そして、どんなことがあっても君は楽器を弾き続けるべきなんだ、君は音楽家なんだから」「言い方はきついかもしれない。でも、これは君が音楽家として成長するために必要な痛みなのかもしれない。どれだけ傷ついても音楽家であり続けるのであれば、進もう。」そう言って、私の決断の道を待ち、そっと背中を押してくださりました。
思い出の詰まった特別な街ミュンヘンから、血だらけでずたぼろな心に少しの絆創膏を貼って、私が私であり続けるため、歩く道がまた始まりました。

そこに届いた1通のメール。
フランクフルト音楽大学に正式に合格して(海外音大の諸事情は色々あるので、ここでは深く触れませんが、実技試験に合格するだけではないということです…)希望する教授のクラスに入れることが決まったというもの。そして遅れて、奨学金の案内のメールが届きました。
正直、お金はどうでも良かったのです。
別にお金、そのために奨学金を申請したいわけではなく、「モチベーションレター」を書くことに意味を見出しました。混沌として、母国語の日本語でも考えることをやめたくなるくらい混濁した自分のぐっちゃぐちゃになった感情を何かで吐き出したい。その一心で、英語で私がフランクフルトで勉強したい理由と、なんでこんな状況で(母という残された1人の肉親を日本に置いて、ドイツに来たいのか、何を私がこの街と大学に求めているのか)を書き殴りました。
正直、一瞬父が亡くなったと聞かされた瞬間、私はドイツの大学院に行くことを遅らせるか・やめるかということが頭をよぎりました。祖父の状態も良くなく、母に降りかかってくる負担や精神的な支え、家族の柱を失ったという事実、私の長女故の責任感の強さも相まって、自分を犠牲にしてでも家族を支えなくてはならないと強く思ったのです。
でも、自分の未来と引き換えに支えたとしても何が残るのだろうか、そして私は私の人生を歩いていけるのだろうかと思い至り、そして先生からの後押し、母からの叱咤激励を受けこの考えは消え去りました。
この自分の感情の振れ幅や浮き沈みを客観的に捉えることができたのは第2外国語であった英語で、ストレートな言葉で自分の心境を表すことで「今、自分が何をしなくてはならなくて、どの方向に向かうのか。自分が求めていることを可視化する」ということを奨学金のモチベーションレターを書くことで一つずつ整理しました。

高校と大学での成績も功を奏し、音楽以外の勉強もかなりしっかりと勉強していたため堂々と成績を出すこともでき、モチベーションレターを一心不乱に書き、推敲を繰り返して言葉を鍛錬し、納得のいくものを提出することができました。
これまでに自分がたどってきた道をもう一度見直し、何をどれだけやってきたのか、コンクールの成績、大学での成績、学んできたこと、自分の演奏技術…etc.
なくてよかったことがあったとしても、これまで積み重ねてきたものは消えません。ちゃんとこれまで地道に準備してきたことを可視化することで、ひとつひとつ絡まって雁字搦めになっていた自分の思考と感情、状況を違う視点から捉え直していくことで、自分が何をしたいのか・何をしなくてはならないのか、つまり現状把握をすることにつながりました。奨学金を取ろう!という思考ではなく、何段階にも渡る申請のプロセスが私を落ち着かせるものになっていました。
提出を終えたときには、整理されて自分のことを振り返った確かな足跡と手応えを感じました。

そして10月上旬にドイツへ移り、新しい大学院生としての生活を始めたとき再び届いた一通のメール。忘れた頃にやってきた奨学生に選出されたとのメールでした。
モチベーションレター、提出のプロセスに満足していたとはいえ、やはり選んでもらえたという事実は本当に心から嬉しいものでした。1人で喜びを噛み締め、母に連絡をして、喜びと感謝を伝えました。

ただ、一瞬迷いも生まれました。
本当にこれを受け取るべきなのか。

嬉しい感情の色の中に、黒い靄がかかったような拭いきれない違和感。
本当は私はこの奨学金を受け取ることなく、勉強することができたはずだった。あの出来事は私の人生において起こるべきことではなかった。そう思うと、私がこの奨学金を受け取ることを決めた瞬間、あの出来事が私の人生において”必要な出来事だった”と自分の中で肯定してしまうことになるのではないか。
複雑な気持ちでした。
それでも私が”音楽家”として生き、フランクフルトでたくさんのことを学ぶためにはこの奨学金のサポートと、家族だけではない第三者の応援を受けられることというのは重要なことであるということ、そしてまた歩き出さなくてはならないよ、そう言われているような気がしました。

失ったものを取り返すことはできません。
私がやるべきことは、「今」を大切にすること。奨学金のスポンサーという新しい縁を大切にしていくこと、それこそが今の私にできることで再び歩き出すための一歩になるのだと思います。
私がこれまでに出演したフランクフルトでのソロのコンサートに毎回足を運んでくださり、真摯に演奏を聞いてメールにも丁寧に返信を返してくれるスポンサーの温かさに、助けられています。

失い、閉ざされた道もあります。
その反面、急に開いた道も存在しました。
その途切れた道と拓けた道、両方の道の岐路に立たされた時に私は「選ぶのか・立ち止まるのか」試されていた瞬間でした。
立ち尽くしたくてたまらなかったけど、動くことを止めなかったこと。そして、立ち止まらないように脇目も振らずに走り続けた時間。その時間があったから、今の自分がいるのだと思います。また逆に考えると、あの時の選択を作ったのは、過去の自分が積み上げてきた道であり、両親の教えや数々の経験値が導いてくれたのだと確信を持って自信を持って頷くことができます。

もちろん、今も迷います。
あの時の決断は正しかったのか。この奨学金を受け取ってよかったのか。
「今」の自分が選んだ道を正しいと言えるようにすること、それこそ「今」この瞬間を生きる私がやっていくべきことなのだと思います。

Deutschlandstipendium、スポンサー、そして家族に心からの感謝を伝えたいと思います。
私の音楽で恩返しをしていけるように、さらに一層学びに励む日々です。

Vielen Dank, Ich freue mich sehr über Ihre Unterstützung.


2月のクラスコンサートも聴きに来てくださりました。初めてのツーショット。ドイツ語の勉強を頑張っていることをメールに書き、拙いドイツ語のメールにも添削と温かいメッセージを添えてくださります。
誰かが私の成長を見ていてくれている、それは精神的な支えにもなっています。

おまけ記事:
ドイツで奨学生になると、滞在許可証の申請の時に必要になる100ユーロが免除になります。奨学生である認定証というか証明書のコピーを持参して、外国人局に行くと免除してもらえるので、もしドイツで勉強をすることを考えていていろんな理由で奨学金を申請する予定の方は頭の片隅に情報を置いておくと良いかもしれません。

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