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【小説】かみなり すなわち こえを はっす

 [あらすじ]
 明治のはじめ。商家の娘のトミは、士族、本宮家の娘、なつの腰元として雇われていた。
 なつは美しい娘だったが、一切喋らなかった。
 ある日、母親に怒られたなつは家を飛び出してしまう。追いかけて来たトミに、なつは初めて声を発した。
「昔は、草や木と話すことができたの」
 なつはトミに自分の秘密を打ち明けた。
 それから親しくなった二人だったが、なつに縁談の話が持ち上がった。
 突然の話に困惑し、どうにもならない苛立ちを抱えて、なつは嵐の中を駆けていく。

 花倉山の頂上に黄金色の朝日がさすと、村は少しづつ目を覚ます。南を流れる藤川の周りには菜の花が咲きはじめていた。まだ肌寒い春分の頃だ。
 本宮家の使用人たちはすでに布団をたたみ、雨戸を開け、かまどに火を入れ、主人の朝食の支度をしていた。台所から白い煙がふんわり漂っている。
 明治になってから十年ほど経つが、この村は江戸の時代とそう変わりは無い。変わったのは武士が居なくなったことくらい。本宮家は戦国時代からこの地にいた武士の一族で、土地のものから愛されてきた名家だ。江戸時代から財政は芳しくなかったものの、周囲の山で取れる薬草を売り、なんとか家を保っていた。本宮家は代々草木に親しく、その庭も立派だ。その昔、この家の当主は「花咲様」と呼ばれていた。

 トミは手鏡を持ち身支度を整えると、ニコッと鏡の自分に笑いかけた。隣村の白藤村の出身で商家の娘のトミは、本宮家の長女、なつの身の回りの世話をする為に雇われた十六歳の娘だ。
 朝の廊下を進み、主人のなつを起こすことからトミの仕事は始まる。
「お嬢様、おはようございます」
 障子を開けるとなつはすでに起きていて、布団の上でこちらを見ていた。はじめは少しどきりとしたものだ。旦那様や奥様は大体寝ていて、何度も声をかけると言うが、なつは大概起きてトミを持っていた。
 なつも十六歳になる娘だ。トミは初めて会った時、主人が同い年であることに内心喜んだ。 そしてなつが、とても美しいことに驚いた。目鼻立ちが整っていて、その髪と瞳は黒瑪瑙のように深く、肌は白く透き通っている。きゅっと結ばれた唇は牡丹のように赤かった。なつと共に歩く時、トミは自分の主人の美しさを誇らしく思った。自分の平凡な顔をなつと比べて落ち込むことなど考える余地も無かった。
「朝はやっぱり冷えますね、昼はたいぶ暖かくなりましたけど」
   トミは身支度の手伝いをしながら優しく語りかける。しかし返答は無い。トミはまだ一度も主人の声を聞いたことがなかった。
   なつは喋らない娘だった。奥様から聞いたところ幼い頃は喋っていたというが、歳が九つの頃から段々と喋らなくなったそうだ。その為トミは、なつが望むことを汲み取るのに時間がかかった。
   でもトミは、そんなことも気にならなかった。むしろ、そんな主人がガラス細工のように儚く美しく自分が守ってやらねばと思った。言葉は使えなくとも、身振り手振りや表情を読み取りお喋りするのも小さな楽しみだった。
   本宮家は、大奥様に、旦那様と奥様、長男の竹二郎様、長女のなつ様、そして使用人がトミも含めて十人いる。朝の台所は忙しない。
 居間に今年七十五になる大奥様が入って来た。腰元と奥様が体を支えて静かに座る。身体は小さいのにまるで大木のような印象だとトミは思っていた。なんというか大奥様は空気がゆったりしているのだ。逆に奥様の周りの空気はピリッとして、笑った時でさえ薔薇のような棘を感じさせた。
 旦那様と竹二郎様は、大概朝から仕事の話をしていた。これからあそこの草を刈らねばならないだとか、あれを植えなければいけないだとか武家なのにまるで農家みたいだ。それがこの本宮家の家業であるから当たり前といえばそうなのだが。
「朝は仕事の話はおやめください」ぴしゃりと奥様が言う。
 旦那様と竹二郎様はバツが悪そうに黙ってしまう。
「お、なつ、おはよう」
 竹二郎様がパッと明るい顔をした。
 なつは静かにちょこんと森のちいさな花のように座って会釈した。
 兄の竹二郎様は、この喋ることのない妹を可愛く哀れに思っているのだ。だからなるべく明るい顔をしているのだろうと、トミは思った。

   主人たちが朝食を食べ始めると、ようやく使用人達の朝飯だ。
   麦飯が茶碗にこんもり盛られホカホカ湯気が立っている。豆腐と菜っ葉が少し入った味噌汁に糠味噌に漬けた大根、それと小魚の佃煮が付いてくる。
   トミはもともとそんなに食べる娘ではなかったが、働きに出てから山盛りの飯を食べるようになった。すぐに腹が減るのだ。他の使用人に混ざり、ほっぺに米を頬張って、ふと外を見た。
(あ、庭の桜が少し赤くなっている。確かなつ様は花が好きだ。もう少ししたら花見にお出掛けなさるだろうか)
 山は上から下まで明るくなっていた。

 午前は奥様がなつに礼儀作法や芸事を教えていた。月に四度は先生が来てなつは朝から夕まで勉強していた。時々トミも同席して習い事をさせてもらった。商家の娘が武家の作法を学ぶことは嫁入りに重宝するのだ。もしかしたら良い縁談だってあるかもしれない。トミは奥様や先輩腰元の言うことにその都度「はい」と気持ちよく返事をして習い事にせいを出した。
「トミは筋が良いね。なつは先生にも教えてもらっているのに、なかなか上達しないんだよ」
 茶を教わっている時、奥様は少し口元を歪ませて言った。
「私が娘の頃は先生なんて雇わずに全部自分でやったものよ。親が厳しかったからね。でも今じゃ感謝してるのよ」
 奥様はなつのように整った顔立ちをして、武家の女のキリリとした空気をまとっている。娘の頃はさぞや美しかったであろう。今は少しばかりふくよかになり、頰には白粉で隠したシミが薄く見えた。横には奥様の腰元が控えている。
 トミはわかっている。芸事も作法も和歌もなつの方が自分よりも優秀だと。ただ、黙々と励み返事の一つもしないなつが奥様の気に触るのだ。いつもなつはこの母の言葉を俯いて聞いていたが、今日は違った。
 なつはすっと立ち上がると部屋の外へ走り出してしまった。
「お嬢様!」
 トミも慌ててあとを追った。後ろから「はぁっ」とため息が聞こえた。
 他の使用人たちが、走るなつとトミをめずらしそうに眺めている。「どうしたの」と走るトミにたずねる者もあったが、答えている暇は無い。台所の勝手口から外へ抜けて、本宮家の墓地がある森に入った。
 入った瞬間、なつを見失った。トミは乱れる息を整えながら歩き出した。ここは昼でも薄暗い。墓地ということもありなんだか落ち着かない。

 心許無く歩いていると、墓石のすぐそばにある大きなクスノキの根元になつはいた。幹に顔を埋めている。泣いているのだろうか。トミはどう声をかけて良いのかわからず立ち尽くした。
 トミは自分の足に目を落とした。慌てて履いた使い込まれた草履に、親が持たせてくれた真新しい足袋が目に入った。ふと、なつの足を見ると草履は履いていなかった。白い足袋が土に汚れている。
 すぐさま草履を主人に履いてもらわねば。と慌てて脱いだ。
「お嬢様、これを」草履を差し出した。
 なつは幹から顔を離し、チラッとこちらを見たが草履を履く気にはならないようだ。宙に差し出された草履が不憫に感じる。
 トミは少し唇を嚙んで目を上や下に動かした。それから少し閃いたように草履を帯に挟み込んだ。
「お嬢様、今日は一緒にサボりますか」
 なつはその言葉に振り返ると眼をまん丸にした。眼が赤い。
「このまま散歩にでも行きませんか、まだ桃の花も咲いてると思いますし、それに、今日はよく晴れています。外に出なきゃ損ですよ」
 損ですよ、なんて自分は商家の娘なのだなと改めて思う。
 なつは少し考えてクスノキから離れた。トミはほっとした。問題はどうやって家に帰らせるかである。二人は足袋のまま歩き出した。

 それから墓地の森を抜けて、屋敷とは反対の広い野原に出た。
 野原には春の花が咲き始めていた。タンポポにホトケノザ、ヒメオドリコソウにキツネノボタン。なつは花を見つけてはじっと眺めて手で撫でた。
「お嬢様は花がお好きなんですね。持って帰って花瓶にさしますか?」
 なつは首を横に振った。
(んー、なかなか帰ってくれそうにないな)
 なつの顔がいつもより明るく感じた。そういえば、ここのところあまり外を出歩く事もなかったかもしれない。
「ま、いっか」小さく呟いた。
 主人がいつもより楽しそうなのは良い事だ。確かにあんなピリピリした空気の中にいるのは自分だって耐えられない。
 突然、なつが走り出した。
「ふふっ」
 なんだか笑えてくる。トミも走った。春のゆるんだ空気が肌を滑る。足袋のすぐ下で柔らかな草がペシャンコになり冷たさが伝わってくる。
 モフモフのハコベやナズナが広がっているところに来ると、なつは足を止めた。何か見上げている。
 なつの目線の先には大きな桜の木があった。花倉山の山腹だ。
「大きな桜ですね」
 桜は赤くなって来ていて、そろそろ咲き始める頃だ。
「花が咲いたらお花見に出かけましょうよ」
 桜からなつに視線をやると、なつは少し口元を和らげてこちらを真っ直ぐに見ていた。それから足元のハコベに目を落とした。
 トミもそうした。
「ハコベ可愛いですね」
 風がふわりと吹いて日本髪からほつれた髪の毛を揺らした。
 クシャリ、なつがこちらに歩み寄り、ないしょ話をするように手を筒にしてトミの耳元に近づいた。トミもなんだろうと近づいた。
「あのね」
 鈴が耳元で鳴ったみたいだった。
「昔は」
 胸の鼓動が早くなる。
「草や木と話しができたの」
 同い年とは思えないような、子供みたいな声だった。
 トミは目を丸くして驚いた。まさかお嬢様が喋るなんて。話の内容もそうだが声が聞けたことが何より驚きだった。
「さ、左様ですか」
 なんとか返した。
 すると途端になつは悲しげな表情をした。
 あ、これはいけない。きっとなつは重要な秘密を自分に打ち明けてくれたのだ。
「そ、それで」
 コソコソと話す。だだっ広い野原に二人しかいないのに。
「今も話せるのですか?」
 今度はなつが驚いたような顔をした。なつは首を横に振った。そしてまた口をトミの耳元に近づけると
「九つの時にクスノキと話しているのを母上に見つかって怒られてから、誰も話してはくれなくなった」
 誰も、というのは恐らく人ではなく草木のことを言っているのだろう。
「左様でしたか。それは、寂しゅうございますね」
 自分でこう返していて不思議な気分だ。
 なつは、目に涙を浮かべて大きく頷いた。本当に辛くてたまらないようだ。
 ひやりとした空気が流れて来た。見上げると空に黒い雲が忍び寄っている。強い風が吹き始め山の木々がザワザワと枝を振っている。更に強い風が森を吹き抜け、ヴォウヴォウと何かが鳴いているように聞こえた。
「お、お嬢様、なんだか雨が降りそうです。お屋敷まで帰られた方が良いかと」
 なつは正直嫌そうだったが仕方なく屋敷に帰った。
 帰る途中から雨が降り始め、地面に泥水が跳ねた。着物が泥で汚れ、帰るなり奥様に叱られ、トミは更に先輩腰元から叱られた。
 その夜、暗闇の中、布団に包まり昼の野原のことを思い出した。
 あんなに怒られたのにトミは気にならなかった。それよりもなつとの秘密ができたことが嬉しかった。
 隣の寝息と風の音を聞きながら、眠りについた。

 桜が咲いた。道に川辺に山に、家の庭にも。花倉村のいたるところに桜は咲いた。
 なつはトミと二人きりの時だけだが、少しづつ喋るようになっていた。それも二人だけの秘密だった。
 家族の誰もがなつの表情が明るくなったのを嬉しく思っていた。いつもピリッとした空気の奥様も柔らかな表情をしている。トミは本宮家から信頼され始めていた。
 そんな時、一人の男が本宮家を訪ねて来た。
 なつとトミは三味線の稽古をしている時だった。
 程なくその男は帰り、旦那様がなつを呼んだ。なつはキョトンとした顔でトミを見ると旦那様について行った。

「お嬢様、きっと縁談よ」
 使用人たちの休憩中、そう言ったのは奥様付きの腰元キヨだった。キヨは先輩で二十歳の女だ。
「えっ」
「何驚いてんのよ、お嬢様はそういうお年頃でしょ」
 確かにそうだ。そんな話がきても不思議ではない。めでたいことだ。しかしそれよりも自分がどうなるのかトミは気がかりだった。
「と、トミはそうなったら、お嬢様についていけるんでしょうか?」
「さぁ? アンタがついていくにしても、新たに働く先はお嬢様の嫁ぎ先でしょ」
 そうか、新しい家に勤めることになるのだ。なつの相手はどんな方なのだろう。

 しばらくして、なつは部屋に戻った。
「お嬢様、開けてもよろしいですか」
 少し待って戸を開けた。
 部屋の中でなつは俯いていた。
「どうされました」
 なつはゆっくりトミを見ると、
「縁談が決まったの」
 やはりそうか。
「おめでとうございます」
 トミがそういうと、少し眉間にしわを寄せた。
「隣の、河竹村の吉田佐之吉様……。とても明るい良い方なんですって」
 明るい良い方と言いながら、表情は曇っている。
「左様でございますか、良い縁談でトミも嬉しゅうございます」
「ありがとう……」
 めでたいことなのに、冷たい雨のような声音だった。
 夜。使用人たちの間でなつの縁談話が賑やかにされていた。どうやらかなり前から旦那様とお相手の家の主人とで話が着いていたものらしい。
 なつの悲しそうな顔が目に浮かんだ。

 桜が見頃を迎えた。風が吹くとひらひらと花びらが舞い落ちた。
 トミとなつは以前見た桜の木を目指して山を登った。
 ホーホケキョッ。ケキョケキョケキョ……。
「ウグイスでございますね」「綺麗ね」
 春の森は土も草木も空も、色柔らかく光っている。
「わぁ」
 森が切れると目の前に大きな満開の桜が現れた。
「綺麗」
 なつはいつになく目をキラキラさせて見上げた。
 桜の下に布を敷き、小さなおむすびと竹の水筒を出した。
「お嬢様、村とお屋敷がよく見えますね」
 布に腰掛け山からの風景を眺めた。この間なつと走った野原も墓地の森も、屋敷も村の家や田畑も小さく見えた。
「上から村を眺めるなんて初めて」
 なつはしばらくぼーっと景色を見ていた。
「お嬢様、どうぞ」
 竹の皮から米粒がツヤツヤした塩むすびを差し出した。
 なつはおむすびを手にとると一口パクリと食べた。
「ねぇ、トミが住んでいたところはここから見えるの?」
「さぁ、どうでしょう。藤川の向こうが白藤村でございますから。あ、ほらあそこに薄っすら見えるのが藤川でございますね。私の村までは見えないようです」
 なつは藤川の向こうを見つめた。
「さみしくない?」
「え? まぁ、初めはさみしくも思いましたが本宮家の皆様が良くしてくださるので平気です」
「そ」
 なつは視線を白藤村の方から、自分が嫁ぐ河竹村の方向を見た。山や森で河竹村は全く見えない。
「ねぇ、トミ」
「はい、なんでございましょう」
「私は私のものじゃないのかしら」
「はて、お嬢様はお嬢様のものじゃありませんか」
「私のことは他の誰かが決めていくわ」
「はぁ、お嬢様はまた違った視点をお持ちなのですね」
 トミはそんなこと考えたこともなかった。
 なつは立ち上がると桜を見上げそのまま何も喋らなかった。何かを待っているようにトミには見えた。
 その時強い風がビュウと吹き、桜の花びらが舞い目の前が霞んだ。トミにはまるで、なつをどこかにさらってしまうように感じた。
「お嬢様っ」
 手を伸ばす。着物の袖をはしっと掴んだ。時がゆっくりに感じられ、花吹雪の中から少し驚いたなつの顔がチラと見えた。
 風が止み、はらはらと花びらが落ちている。胸がドキドキした。
「どうしたのトミ」
「いえ、なんでもありません」
 袖をぎゅっと掴んだ手から、なかなか力が抜けなかった。
「すごい風ね。花吹雪が見れて良かった。あぁ、私もあの飛んでいく花びらのひとひらになれたらいいのに」
 その言葉にトミは思わずゾッとした。

 次の日は、黒い雲が空を低く流れ、湿った風が吹き荒れて今にも大雨が降りそうな空模様になった。
 なつは歪んだガラス窓から外を見ていた。今日は桃色の着物を着ている。
「なつ様、暖かいお茶を入れましたよ。今日は大荒れみたいですね」
 なつが好きな菓子も持ってきた。
 縁談の話があってから、なつは元気がない。昨日、桜を見に行った時もなんだかボーッとしているような感じだ。
 なつはポリポリと菓子を食べた。まるで小動物みたいだ
「トミも食べて」
「いただきます」
 トミにとって、なつと一緒にお茶をするのが楽しみだった。まさか主人とお茶ができるなんて思ってもいなかった。なつが一緒にと言ってきたのだ。なつも今まで友のような存在ができたことがなかったから、トミとお茶ができて嬉しいようだった。
 きっと縁談なんてなかったら、今日も二人で楽しくお茶ができたのに。思ってはいけないけどトミは縁談が憎らしかった。
「なつ」
 奥様が裁縫道具を手に持って来た。トミは慌ててお辞儀した。
「そろそろ嫁入りの支度をしないのとね。嫁入りしたら着物を繕うことも増えるんだから、練習に父上と竹二郎の浴衣を縫っておくれ。私も散々やったのよ」
 今更練習しなくても、なつは裁縫はできた。
「あんたには色々教えてあげないとね。あとね、なつ。トミとは仲良くできてるんでしょう? 向こうのご両親とも仲良くできるように、そろそろ話しができるといいんだけどね。なつのことを思って言うのよ。そろそろ声を出してちょうだいよ」
 なつは裁縫箱を渡されると俯いてしまった。奥様はそんななつを見ながら小さなため息をつくと行ってしまった。
 奥様が行ってしまうと、なつは静かに裁縫箱を畳においた。なんだか息が荒い気がする。顔が赤いような気もする。
「お、お嬢様、大丈夫でございますか?」
 一瞬、キッとこちらを見てすぐに目をつむって俯いてしまった。
「トミ……」
「はい?」
「息が苦しいの……、外へ出たい」
「さ、左様で……!」
 なつに付き添い外に出た。湿気を含んだ風が身体に体当たりしてくる。
「大丈夫でございますか?」
「少し歩く……」
 長屋門の横に植えられているヤマブキの黄色い花が風に揺れているのが見える。
 門から出ると、桜の花びらが道に舞っていた。黒い雲に白い花びらがくっきり浮かび、キラキラして見えた。
「昨日の桜のところ、行きたい」
 なつの言葉にトミはギョッとした。
「いけません。今日は嵐になります、おやめください!」
 なつは今にも泣きそうな顔をしていた。それを見てトミも泣きたくなってくる。
 突然、なつはトミの手を振り切って駆け出した。
「お嬢様!」
 トミはあとを追った。
 頰にビチャっと雨粒が当たる。雨が降り始めた。次第に雨脚が強くなり、雨と靄で景色が灰色がかって見える。
 激しい雨の中、鮮やかな桃色が飛んで行く。
 土が跳ねるのもお構いなく、風に舞う花びらを捕まえようとするように、トミはなつを追いかけた。なつの脚が速いのか、トミが遅いのかどんどん引き離されて行く。

 足がだるい。肌は冷たくなるのに身体の内側は熱くなっていく。息が苦しい。山の道は川のようになっていて行く手を阻んだ。
 ようやく昨日の桜の木に来た。その下になつはいた。
「お嬢様ぁ!」
 一層強い風が起こり、なつを囲むように花びらと風が吹き荒れた。雷が空いっぱいにサッと広がり、轟音がビリビリと肌を震わせた。
「お嬢様、あぶないですから帰りましょうよ」
 ゆっくりと美しいなつは振り返る。頰は涙と雨で濡れ、赤い唇をギュッと結んでいる。血が滲んでしまうのではないかと思うほど拳を握りしめていた。
(あっ)
 怒ってる。
 まるでこの空みたい。吹き荒れるだけ吹き荒れる。止めることなんてできやしない。
 トミはあきらめた。なつを屋敷に連れ帰るのも、雨でベショベショになるのも、風で髪が乱れるのも、寒さも、息が苦しいのも、泥だらけの足も、雷の怖さも、どうしようもできない。
「お嬢様、嫌なこと、腹立たしいこと、トミに話していただけますか」
 なつの眼に一層力がこもる。
「全部……、全部っ!」
 そこまで言うと声が詰まって、なつは声をあげて泣き出した。
 トミも一緒に涙が溢れた。

 空は相変わらず雷がビカビカ光り、雨風は吹きすさび、桜の花びらは荒れ狂った。二人の身体は冷えていき、ただ涙だけ温かい。

 どれだけ経ったかわからない、だんだんと雨風が穏やかになり、雷も遠のいていった。黒い雲の隙間から暖かな光が差し込み雨粒がキラキラ輝いた。
「だいぶ落ち着きましたねぇ」
 二人が顔を見合わせると、お互いの顔に花びらがいくつか、くっついていた。
「帰りますか?」
 なつはコクリと頷いた。なんだか憑き物が取れたような顔をしていた。
 トミが手を差し出すとなつはその手を取り、二人びしょ濡れになって帰った。
 帰り道、ポツリポツリとなつが話し始めた。
「トミ……、母上はね、私のことを見ていないの」
 黙って聴いた。
「何をしたら褒められるか今だにわからない」
「左様でございますか……」
「うん」
 トボトボと歩いた。空は天気雨になっていた。
「あの桜はなんと言っていたのでしょうね」
「え?」なつの足が止まった。
「あ、いえ。以前、お嬢様は草木の声が聞こえたと言ってらしたので、もしかしたら、あの桜が何か言っていたのではないかと思ったのですよ」
 なつは目を丸くして驚いたようなハッとしたような顔になった。
 花倉山の山腹を見上げた。

 二人して散々怒られた日の夜。トミは夢を見た。
 昼なのに、大きな雲の塊が太陽を遮って暗いのだ。トミは屋敷の玄関の前に独りいた。あたりを見回しても誰もいない。
 長屋門を見ると、門は空いていて、なぜか門の外がやけに明るい。
 よく見ると、門の外は野原が広がっていて、そこになつがいた。
「お嬢様?」
 トミが門まで駆け寄ると、いきなり門は閉まってしまった。

 そこで目が覚めた。


 じっとりとした暑さ。蒸せ返る草の匂い。枝葉の色は濃く、地面に深い影を落とす。ぬるくなった沼にハヤが泳ぎ、ハスの花が咲く頃に、なつは嫁入りの日を迎えた。
 夕暮れ。昼の暑さが少し和らいだ頃、玄関に門火がたかれ、いよいよ出発という時になつがいないのだ。
 家中のものが屋敷内を探し回っている時、トミはこっそり勝手口を出て、裏の墓地の森を抜け野原に出た。
「やはり」トミの思った通りだ。
 野原と山の境に、花嫁姿のなつがいた。
「あら、トミ来たの」いたずらっぽく笑うなつは、いつもより美しく見えた。
「もう、どうなさったのです? お召し物が汚れてしまいます」
「ここにお別れを言いに来たの」
「はぁ、左様でございますか」
 なつは花倉山を見上げた。
「ねぇトミ、私ねわかったの。みんなが私に話さなくなったのではなくて、私が耳を塞いでいたのよ」
 なつは花倉山からトミを見た。
「もう耳は塞がないわ」
「左様でございますか」
 なつは花が咲いたようににっこり笑った。

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