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【グローバルキャリア】パキスタンで絨毯を紡ぐアフガン難民から学んだ地域情勢

15年前にパキスタンに住み始めたころ、歩いて5分の絨毯店にいり浸っていた。英語が堪能な弟みたいな存在のジャベッドにアフパク情勢を教わりに行っていたようなものだ。

絨毯店が位置していた市場には至る所にInter-service Intelligence (ISI)というパキスタンの諜報機関が潜んでいると言われてた。靴磨き職人や土産物の店主がそうである可能性もあった。普段から壁に耳あり障子に目ありで行動をしていた。外国人が集まる登録制のフランス大使館やイギリス大使館のバーに現れるパキスタン人の颯爽とした女性も知る人ぞ知るISIの諜報員だった。日本メディアの新任支局長の元には大概「こんにちは、ISIです。」といういやがらせめいた訪問があったと聞く。

絨毯屋のジャベッドはあまりにも英語がうまく、どこかの諜報機関に属しているんじゃないかとカマをかけてみたこともある。アメリカ大使館の構内にも出張販売に行っているらしく、いずれにせよCIAのお墨付きだと思うことにしていた。

その絨毯屋でトルクメン家庭料理を振る舞ってもらったこともあった。

当日、言われたとおりに友人数名を連れて店に行くと、私が好きな絨毯がきれいに掛けられていて、絨毯が上手に畳まれて腰をかける場所ができていた。そこにまるで砂漠でのピクニックの様に、狭い空間にテーブルクロスが広げられた鮮やかな午餐の会だった。

「僕たちにとっての絨毯は椅子であり、机であり、寝床でもある。絨毯は生活の一部だから。ペルシャのシルク絨毯みたいに丁重に扱わなくてはならない絨毯なんて意味が無いと思う。ペルシャ絨毯に水をこぼしたら台無しになるけど、アフガン絨毯は手荒に扱われても何十年も持つ。各部族が独自の柄を持っていて、その図面は織り手の頭の中にある。家を守る母は室内で絨毯を織る。妹達も織ることを覚え始めた。君たちにとって料理をお母さんから教わるみたいな形で生活と文化の一つとして絨毯作りを覚えるんだ。アフガニスタンの家は床は土間だから、絨毯を敷いて初めて生活が成り立つんだ。」

狭い店舗の中にお皿から何から用意されていて、スープとご飯とパンと肉とたくさんの食事が並べられていた。パキスタンの人が好きな天ぷらを持って行ったが、内陸の人のジャベットと叔父さんに弟はエビは食べないという。かき揚げと茄子の天ぷらを出汁に浸けて食べている。

中央アジアのトルクメン料理は、トルコ料理を想像していたが全然違った。クミンなどのスパイスの薫りはしないが、野菜と肉をふんだんに使って旨みが凝縮されている。具が入っていないトマトベースのスープも洗練された雑味のない味だ。

どこに移り住んでもまずパン窯を作るところから始めるそうだ。大きなパンはまるでヨーロッパの全粒粉のパンみたいにずっしりと香ばしい。そしてもう1種類のパンは生地がもっちりとカリカリしている。パンを餃子にみたてたような、具が入った曰く「一種のピザ」も具が風味豊かで生地とよく合っている。

パンを大事にするのに主食は米だそうだ。羊の肉と野菜と炊き込んだパラウのようなご飯はあっさりとして食が進んだ。

私には肉の精製の仕方の違いが感じ取れるとは思わないが、イスラマバードの精肉は口に合わないし処理が良くないと言う。遠方のアトックのトルクメン・コミュニティーから肉を大きな単位で仕入れているという。

トルクメン系アフガニスタン難民のジャベッドはパキスタンの難民キャンプ生まれだ。どこに帰属していると感じるの?と聞いてみた。

「それは自分自身にもよく問いている。結局はトルクメンだと思うよ。家でトルクメン語を話すし、絨毯作りとかトルクメン文化を継承しているし。」と言う。

「法的にどうやってトルクメンである事を示すの?」と続けて聞いた。それは証明できないと言う。法的には彼はアフガニスタン旅券を持っているアフガニスタン人だ。パキスタンには滞在許可という形で居住している。「自分が嫌いな国の国民なんだよ」と言う。

「パキスタンは何年経っても自分たちを受け入れない。トルクメニスタン国も独立後自分たちを受け入れると一日だけ言ってやっぱり政策を変えた。かといってトルクメニスタンに住みたいとも思わない。今後は生活拠点を弟の留学先のトルコに移す事も考えている。おじさんがニューヨークに住んでいるし、アメリカに行っても自分は困らないけど、英語があまり得意でない父と叔父のことを考えるとトルコの方がいい。」

「トルクメンはアフガニスタンでも平和的な人々なんだ。僕の家族はもう20年もパキスタンで商売をしているけどあまり儲けていない。この国では悪い事をしなくては儲からないと言われている。」

「ここの角にある大きな絨毯屋は数年で店舗を拡大したけど、それは絨毯の商売だけじゃできないはずだ。麻薬に手を出しているんじゃないかな。僕たちトルクメンは倫理観が強くて、そういう風には生きられない。パシュトゥーン人やカブールの人達とは違う。でも今のアフガニスタンでは善良な市民でさえ悪に染まってしまう。」

今お父さんはパキスタン在住トルクメン代表として在外トルクメン人3人の一人としてトルクメニスタンに招聘されているという。たまたま新しく開館したトルクメニスタン大使館の人々と知り合ったことがきっかけだという。ジャベッド達もトルクメニスタンの親善大使になっている。でも食文化から言語までアフガニスタンに渡った自分たちと旧ソ連のトルクメニスタンの人達とは違うそうだ。

40年前にロバに乗ってパキスタンに逃げてきたというという絨毯屋もいた。ハキームはトルクメニスタンに近い村に住んでいたから、ジャララバードや他の街がソ連に侵攻される前に逃げ出さなくてはならなかったという。



それから8年後の2019年に米国での赴任を経由して、天皇陛下即位の礼に携わった。総理主催晩餐会で、国賓の警護官達を別室に連れて行く役を役を言い渡された。「別室にはコーヒーもありますよ。この入り口からは国賓たちは退室しないですよ。」という甘い言葉でほぼ全ての警護官を別室に案内ができた。アメリカのシークレットサービスにも会場を目視させて、スムーズに別室に連れて行った。だが、いつまでも元首が目が届く位置に立っていた屈強な男性たちがいた。トルクメニスタンの警護官たちだった。抑圧的な独裁国家だから、目を離したら自分の生命の保障がないんですよ、と同僚に言われた。彼らと目を合わせて、したり顔で頷き別室には無理に連れて行かなかった。あの日の午餐から想像していた国と現実はかけ離れていた。


パキスタンにいた頃はまだアフガニスタンは良い方向に向かうのではないかという希望と期待があった。自由な往来や脆弱ながらも民主国家が、復興が進んでいくものだと。

2021年にタリバンが武力でアフガニスタンの首都カブールを陥落させた。また原理主義と恐怖政治の幕開けである。

アフガン難民は帰還すると言う選択肢さえない。そういう難民は世界中にいるし、新たな戦争で増えていく。

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