所感諸々。14
FUKUSHIMA50 を観てきた。
ネタバレするようなことは、ここには書きません。
ここ1年ほど、WOWOWを導入したので、最新映画は1年ほど待てば観ることが出来ているので、映画館は久しぶり。
前日に、ネットで座席の予約状況を見て、時節柄ほとんど空席な感じのレイトショーを選び、誰も選択していない列の程よい場所を予約してみたのだけど、フタをあけてみたら前後両隣は空席だったけど、全体の半分は席が埋まっておりました。
公開翌日で『大ヒット上映中』とCMで言うのよくあるけど、このご時世では誇大広告じゃないの?と思っていたが、皆さん注目の映画だったようです。
映画を観て感じたことは、まず意外と自分の中に、地震に対する恐怖心というものがどこかにこびりついているということだった。
なんと言うか、当時津波の映像を繰り返し見ても、割と冷静に受け止めていて、気分が悪くなったりはなかったし、揺れに対する恐怖心も薄かったりしたので、逆に自分は何か欠落してるんじゃないかと思ったりしていた。
ところが、大画面や音響の迫力もあったのかもしれないが、観ていて当時を振り返り、改めてとんでもない災害であったことを呼び覚まされたら、自分から切り離して見ることが出来ない自分がいた。
なので、地震に対してPTSDのようなものがある人は、劇場ではなく、地上波で放送されるのを待った方がいいかもしれない。
小さな画面でも、もしかしたら怖いと感じるかもだけど。
アタシの母親は、昭和12年生まれで墨田区の本所地区育ち。東京大空襲で焼け野原になった中を逃げ惑った話しをよくしてくれた。
父親は昭和2年の広島生まれで、ピカドンは呉の辺りにいて免れたっていうけど、当人から戦時中の話しは聞くことが出来なかった。
母親は繰り返し戦時中の話しをしたので、聴くことに飽きたアタシは、語り部としてボランティアをしたらいいんじゃないかと提案したけど、頑なにそれだけは嫌がった。
当時、なぜ嫌がるのかわからなかった。次世代へ語り継ぐことは有意義なことなのに。
でも、今日映画を観て、なぜ嫌がったのか何となくわかった気がした。
アタシに当時のことを話したのは、辛かった気持ちの吐露であり、それで自分の中にあった恐怖や不安と折り合いをつけていたのであって、使命を感じて話していたわけではなかったのじゃないかと。
沖縄出身の友人は、おじぃおばぁに戦争中の話しを聴こうとしても、口をつぐむ人が多いと言っていた。
とてつもなく辛い経験は、乗り越えられていなければ、話すことは出来ない。
何故なら、話すことはその時を再現することになってしまうから。
自分が映画で感じたうっすらとした不安感。
もっと強烈な印象を残す出来事であったなら、と思ったら、日々その恐怖と闘うことの苦労は計り知れない。
日にち薬という言葉がある。
ココロを癒すことには、必ず必要な薬だ。
今なお、自宅へ戻れない人がいる事、とてつもなく危険な場所で、後始末という作業に最前線で携わっている人がいるという事。
年月が流れても、風化させてはいけない事がある。
戦争を語り継ぐのと同じくらい、あの地震が引き起こした出来事は、忘れずに伝えていく、考えていくことがたくさんある。
辛すぎて声をあげられない人たちの代わりに、そのことに気づいている人間がやらなければいけないことが。