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note版 哲学ダイアグノーシス 第十三号  ヘーゲル哲学を実践する(1)

<note版>

あなたの想いが哲学になる、

経営者・ビジネスリーダーのための読むエクササイズ

<哲学ダイアグノーシス>

第十三号 ヘーゲル哲学を実践する(1)


「大人のヘーゲル超入門講座」、そして、新企画!

もう、少し前のことになりますが、6月30日、東京都は豊島区にある「Rocket Cafe」さんにて、「大人のヘーゲル超入門講座」を開催いたしました。

この講座は、「哲学を本格的に学んだことはない、だけど……なんだか気になる」といった皆さんに向けて、私の専門であり、西洋近代哲学を代表する人物であるG・W・F・ヘーゲルの哲学についてわかりやすくお話する、といった趣旨で企画されました。

具体的には、私の著書(共著)『ヘーゲルと現代社会』(2018年、晃洋書房、https://amzn.to/2Kc4B0Q)の、私が執筆した章をあらかじめお読みいただき、当日、ヘーゲルの哲学を理解するための基礎知識についてお話しつつ、私の執筆した箇所について解説させていただく、といったことをメインとして、その他、『ヘーゲルと現代社会』の他の著者の執筆箇所についての解説や、ヘーゲル哲学全般について、さらに、哲学全般についてのご質問もお受けする、といったかたちで講座は進行しました。

講座については、ご参加いただいた皆さんから、ありがたいことに、おおむね好評をいただきました。また、Rocket Caféの岸山さんには後にFB(フェイスブック)上で「哲学者の本気を感じました」と、もったいないお言葉をいただきました。この講座は、従来の哲学研究者たちに、特にヘーゲル哲学をはじめとするドイツ哲学の研究者にありがちであった、「わかる人さえわかれば良い」といった態度を捨て去って、ヘーゲルの哲学にまったく縁のなかった方々にも、その内容をなんとしてもわかっていただきたいという想いから企画させていただいたものでした。そして、その「なんとしても」の部分で、私はたしかに「本気」でした。今回、ご参加いただいた皆さんや岸山さんに私のそういった想いが伝わったようで、心より嬉しく想っております。ただし、他の著者の執筆箇所についての解説については、ある「難しさ」を痛感いたしました……これについては後にあらためてお話いたします。

ところで、この講座の準備をしながら、私の頭に一つのアイディアが生まれました。それは、「ヘーゲルの哲学をビジネスで実践できないか?」というものです。


新企画「ヘーゲル哲学の実践」!

このエッセイ『哲学ダイアグノーシス』は、さまざまな哲学者の生涯や考え方にふれていただくことを通じて、皆さんにご自分についてより深く「発見」していただくこと、そして、皆さんがビジネス活動をなさってゆくうえでのヒントを得ていただくこと、そういったことを目的としてまいりました。それに対して、「ヘーゲル哲学のビジネスでの実践」とは、さらに一歩踏み込んで、ヘーゲルの哲学とビジネスをより具体的に結びつけようという活動です。

この活動は研究会として開催し、ビジネス上のさまざまな問題について、私自身がヘーゲル哲学にもとづいて、新たな見通しをさらには解決策を提案させていただく、あるいはご参加いただく皆さんにそういったご提案をしていただき、私がヘーゲル哲学の専門家としての見地からコメントさせていただく、といったかたちで展開してゆきたいと想っております。

そして、会の進め方としましては、私の一方的な講義や参加者の皆さんによるプレゼンテーションではなく、対話を中心にして進めてゆきたいと想います。そこで、対話の質を高めるために、会の規模はなるべく大きなものにはしたくありません。ですから、ご参加いただくために「条件」を設けさせていただきますが……

このエッセイを定期的にご購読いただいている皆さんには、優先的にご参加いただけることといたします!

さて、「哲学ダイアグノーシス」、おかげさまで発行から半年をむかえることができました。ひとつの節目をむかえたということで、しばらくはこの新企画と連動させていただくことにいたします。

「哲学ダイアグノーシス」では発行以来、古代・中世、近代(近世)、現代と、それぞれの時代を代表する哲学者たちについて、いわば「歴史的」にお話してまいりましたが、当面の間、毎月一号目(つまり、奇数号)は、ヘーゲル哲学のエッセンスについてお話させていただきます。

もしかしたら、皆さんの中には、難解な哲学の代名詞(笑)ともいえるヘーゲル哲学なんかについてそうたびたび読まされてはたまったものではない! といった方もいらっしゃるかもしれませんね(笑)。そこまでではなくとも、私がヘーゲルについての話に力を入れることによってこのエッセイが「偏った」ものになってしまうことを心配なさる方もいらっしゃるかもしれません。

ですが、中畑、これから皆さんにヘーゲル哲学についてお話する際には、先ほど申し上げましたように、「なんとしても」わかっていただくべく「本気」でお話させていただきますので、「難解さ」につきましては、どうぞご安心ください……いや、少なくとも、ご期待ください(笑)。

そして「偏り」への心配についてですが、むしろヘーゲルの哲学は、哲学の歴史全体の中で個々の哲学者の考え方にどのような意義があるのか考える上での、別のいい方をすれば、個々の哲学者の考え方をイキイキと結び付けて理解するための、「お手本」となる考え方なのです。このことについては後にお話しましょう。


哲学を「応用」することの「難しさ」

さて、さきほど、私が講座の際に、他の著者の執筆箇所についての解説についてある「難しさ」を痛感した、と申し上げました。
理由は単純です。

難しすぎるのです。

……。
……。
……はい、他の執筆者を敵にまわすようなことを言ってしまいましたね(笑)。

あるいは、読者が求めることと書かれている内容あるいは執筆者の意図とのあいだの「ズレ」が大きすぎる、と言ってもいいかもしれません。

『ヘーゲルと現代社会』をお読みいただいた皆さんからは、たとえば次のようなお言葉をいただきました。

1 専門用語ばかりでわからない。

2 そもそも、なにが問題となっているのか、なにをテーマとして書かれているのか、わからない。

3 ヘーゲルの哲学について知ることができるのかと想ったら、他の哲学者や哲学研究者たちの話ばかりだ。

なぜこのような声が聞かれるのか、これも理由は単純です。

専門家向けの文章になってしまっているから、です。

『ヘーゲルと現代社会』という本は、初学者向けに、そして、現代のさまざまな問題と関連させてヘーゲルの哲学について、入門書としてつくろう、というコンセプトのもとに出版の準備が進められました。私以外の執筆者は比較的若手の研究者がほとんどであり、柔軟な思考や感性の持主です。にもかかわらず、実際に執筆してみると、コンセプトに反した、あるいはコンセプトを無視した結果となってしまう……残念ながら、これはヘーゲル哲学に限らず、日本における哲学研究に特有の傾向なのです。

上に挙げた「お言葉」についていえば、

1 普段、専門家同士であたりまえのように専門用語で語り合っているため、研究者の中では専門用語が日常の言葉になってしまっている。

2 専門家として普段から真面目に研究していればいるほど、専門家たちの間でなにが問題になっているか、自分の中では「常識」になってしまう。だから、あえて「なにが問題となっているか」という大前提の部分については言葉を尽くして説明しようという発想すらない。

3 おそらく、日本人の国民性ともあいまって、研究者は自分の解釈を直接主張しようとしない。そうではなくて、特に海外の研究者の解釈(しかもできるだけ新しいもの)をいくつか紹介し、それらの中で「どれが正しいと想われるか」を示すという、非常にまわりくどいかたちで自分の解釈を「ほのめかす」(笑)。

ちなみに、私の執筆した章については、上に挙げたような「お言葉」は、ほとんど聞かれませんでした。それはなぜか。もしかしたら自画自賛のように想われてしまうかもしれませんが(笑)、それは私が、

1 専門用語を使わざるを得ない場合には、きちんとその意味内容を説明する。

2 ヘーゲルが何を問題としたのか、現代の問題と関連させて説明する。

3 ヘーゲル研究者の議論はできるだけ引用せず、ヘーゲル哲学そのものの説明を中心とする。

といったことを心がけて執筆したからです。

……いや、研究者として真面目であればあるほど「難しすぎる」文章を書いてしまうということであれば、私は非常に不真面目な研究者ということになってしまうのでしょうか!? 
いやいやいやいや!
私だって、真面目……なつもりです。ただ、真面目さの「方向性」が、ちょっと、いや、ずいぶん、違う……ということにしておいてください(笑)。

先にも申しましたが、『ヘーゲルと現代社会』の執筆者は、柔軟な思考や感性の持主がほとんどです。実際に、執筆者の中には、一般の方々のあいだに哲学を普及させるべく尽力している人もいます。にもかかわらず、ヘーゲルの哲学について、哲学を専門としない方々や初学者の方々に向けた文章を書こうとしても結果として上手くゆかない、それは、それほどまでに専門的・アカデミックな世界と一般の世界との「かい離」が深刻であることのあらわれなのかもしれず、特にヘーゲルの哲学についてはその傾向が強い、ということなのかもしれません。

それにくらべて欧米では、第十一号でご紹介したビジネス誌『週刊ダイヤモンド』(2019年6月8日号、ダイヤモンド社)での特集でも取り上げられているように、哲学研究の成果を応用したビジネスが成功をおさめるというケースが多いのは、専門的・アカデミックな世界と一般の世界とが、日本におけるよりもずっと問題意識を共有している、ということなのかもしれません。

では、日本人が、哲学をビジネスに応用するためには、いったい、どうすればよいのか?
それは……

ビジネスリーダーである皆さんご自身が、ビジネスリーダーを志す皆さんご自身が、みずから哲学者となってしまうこと。

現状では、これがベストだと、私は想います。

私が「ヘーゲル哲学の実践」と表現したのはそのためでもあります。ヘーゲル哲学のエッセンスを学んだうえで、具体的な問題について「ヘーゲルのように」考える、それはまさに、ヘーゲル哲学の「実践」にほかならないのです。そこで、このエッセイにおいて、私は当面のあいだ、皆さんがヘーゲル哲学のエッセンスを学ぶ、そのお手伝いをさせていただきたいと想っているわけです。

ただし、この点については、ひとつお断りしておかなければならないことがあります。
それは、私がこれから皆さんにお伝えするヘーゲル哲学のエッセンスとは、あくまでも「中畑にとってのヘーゲル哲学」であり、悪く言えば「中畑バイアス(笑)のかかったヘーゲル哲学」である、ということです。

さきほど、日本において哲学の専門家、特にヘーゲル哲学の専門家は自分の解釈を主張したがらない、といったことを申し上げました。これにかんしては、先ほどお話した諸事情のほかにも、特にヘーゲルの哲学に固有の難しさがあるのです。そのような難しさの一つに、たとえば「資料」の問題があります。

日本に限らず、世界中のヘーゲル研究者たちが資料として用いてきた文献は、ヘーゲルが生前に著した四冊の書物と、死後、友人や弟子たちがヘーゲルの生前の講義を書物としてまとめた「講義録」が主でした。そして「講義録」は、現在では研究者たちの間で非常に評判の悪いものとなっています。というのは、さまざまな事情により削除された箇所や改ざんされた箇所があることが明らかになってきたからです(「さまざまな事情」の中には、たとえば「政治的な配慮」や「力関係」のようなものも含まれます)。最近でこそ、これまで存在することが知られていなかった、学生による講義のノートや、ヘーゲルが講義を準備するために書いたノートやメモ、といった新しい資料にもとづいて、「講義録」の見直しや新しい「講義録」の出版がなされていますが、かつて冷戦時代にはヘーゲルの祖国であったドイツは東西に分断されていて情報収集が困難だったことなどもあり、まだまだこれから、これまで知られていなかった資料が世に出てくる可能性がありますし、もしかしたら、新しく発見された資料のために、それまでのヘーゲル哲学研究がすべてくつがえされてしまう、といった可能性もあるわけです。ですから、専門家たちが慎重に「現状ではこのような解釈が妥当であろう」といったかたちで断言を避けるということも、仕方のないことであるとも言えるわけです。

私自身もヘーゲル哲学の専門家である以上、このような「危うい」研究上の事情と、もちろん無縁ではありません。しかし、私が読んできた資料がどのようなものであろうと、たとえばもしも万一、それらがすべてヘーゲルの名を冠した「偽作」であったとしても、私がそういった資料を読むことにより、また、そういった資料をめぐるさまざまな解釈を学ぶことにより、私の中で「哲学」が営まれてきたことはたしかですし、私としては腹をくくって(笑)、自分のそういった哲学を「ヘーゲル的」であると宣言いたします。そして「ヘーゲル的である」とはまさに、新たなものに直面してもそれを取り入れてより大きなものをつくり上げようとする態度を意味するのです。

……おっと、今回はなにやら、日本のヘーゲル研究への「悪口」と、新企画に対する私の情熱の表現ばかりですね(笑)。これだけではいくらなんでも……(笑)、ですので、最後に少し、先ほどお話した、哲学を歴史的に考える上でのお手本としてのヘーゲル哲学、ということについて、お話しましょう。


「阿呆の画廊」

さて、これから皆さんにおつきあいいただくヘーゲルの哲学ですが、実はヘーゲルほど誤解され、他の哲学者たちから批判や誹謗中傷を受けてきた哲学者も、そうそういません(笑)。

たとえばヘーゲルの残した言葉に「阿呆の画廊」という言葉があります。この言葉は次のように解釈されることが多いようです。すなわち、近代哲学の完成者を自認するヘーゲルが、哲学が始まって以来、自分が現われるまで哲学の歴史に登場した哲学者たちの考えてきたことはすべて誤りであって、自分だけがただひとり真理を語る哲学者なのである、だから、自分以外の哲学者たちはすべて「阿呆」なのであり、哲学の歴史とは阿呆どもを陳列したギャラリー(画廊)のようなものなのである、と豪語した言葉であると。

しかし、この言葉が書かれている『哲学史講義』をちょっと読めばすぐにわかるように、これはまったく、ヘーゲルが意図したことではありません。むしろヘーゲルは、まったく逆のことを言おうとしているのです。

ヘーゲルの基本的な考え方を端的に表現する言葉として、「真なるものは全体である」(『精神現象学』)という言葉があります。つまり、どんなことであれ、ただひとつひとつのものを見てただそれだけについて考えるのではなく、そのことが含まれる「全体」について考えなければならないと、ヘーゲルはそう考えるのです。哲学の歴史においても、個々の哲学者たちが考えたことを、ただひとつひとつ考えてもその意義を理解することはできないのであって、哲学の歴史というひとつの「全体」の中で考えなければならない、ということになります。そして、哲学の歴史は全体としてひとつの「真理」に向っているのであり、その動きの中でどんな哲学者たちの考え方の中にも、なにがしかの「真理」が宿っている、そうでなければ、哲学の歴史なんて「阿呆の画廊」にすぎないではないか……ヘーゲルはそのような考え方を表現するために、「阿呆の画廊」という言葉を用いているのです。

どんな哲学者たちの考え方にもなにがしかの「真理」が宿っている、これをもっと一般的に表現すれば、どんな人の考え方にもなにがしか「正しい」ことが含まれている、ということになりますね。こういった発想は、哲学的にものを考えてゆくうえで、いや、そもそも、建設的なコミュニケーションを営んでゆくうえで、なくてはならない発想です。

ところで、「全体」を構成する個々の「部分」の意義を判断するためには、そもそも「全体」がどこへ向かっているのか、つまり、実現される「真なるもの」がどのようなものなのかがわかっていなければならない、そうでなければ、なにを基準にして判断すれば良いのかわからない、そういうことになりますよね。ヘーゲルの場合には、哲学の歴史というものはある一つの「理念」に向って進んでいると考えていました。それは、「神の国」の実現、さらに言えば、「人間が神になる」こと、でした……申し訳ありません、あえて大げさに表現してみました(笑)。しかし、第十二号でもお話したように、「神の国」の実現という理念は、キリスト教が信仰されている国々で生まれ育った人たちに「刻印」されている理念ですし、「『神の』国」というほどですから、そこに住む人々は「神」でなければならないわけです。

「人間が神になる」とは、いったいどういうことなのか、また、ここでいわれている「神」とはどういうものなのか、いや、そもそも「人間」とはどういうものなのか、そういったことについてヘーゲルは独自の考え方を展開しており、それこそがヘーゲル哲学の真骨頂でもあるのですが……このことについては、追々、詳しくお話いたします。ですがもちろん、皆さんがヘーゲルのこのような哲学の歴史への観方を共有しなければならない、ということではないのです。そうではなくて、ヘーゲルの哲学をお手本として皆さんに学んでいただきたいのは、それがなんであれ、ひとつの「理念」にもとづいて「全体」をとらえるということが、そして、「全体」の中で「部分」の意義を考えるということが、いったいどういうことなのか、そういったことなのです。そしてこのようなことを学ぶことによって、皆さんはビジネスを展開するうえで非常に強力な「ツール」を手に入れることになるはずです。

さて、今回皆さんに考えていただきたいことは……

「『全体』の中で『部分』の意義を考える」、こういった考え方については、実はこの「哲学ダイアグノーシス」で以前ある哲学者をとりあげた際に少しお話したことがあります。実はヘーゲル自身も、その哲学者をのり越えようとして自分の哲学を展開していったのですが……さて、どの哲学者についてのお話なのか、おわかりでしょうか?

そして今後、皆さんに、ヘーゲルという哲学者について、あるいはその哲学について、なにか印象などをおもちであれば、ぜひとも教えてください!皆さんにヘーゲルという人物とその哲学を、なるべく少しでも身近に感じていただくため、皆さんの印象と関連させてお話をさせていただきたいと想っております!


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~お聞かせください!~

皆さんは今号をお読みになって、ご自身についてどのようなことを「知った」でしょうか?ぜひともお聞かせください!

philosophicaldiagnosis@gmail.com

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中畑邦夫・プロフィール
1971年生まれ。千葉県柏市出身。博士(哲学)。明治大学法学部法律学科卒、上智大学大学院博士後期課程修了。博士号取得後は上智大学等で哲学、倫理学、宗教関係の授業で教鞭を執る。
専門はヘーゲルの哲学(特に、論理学、宗教哲学、歴史哲学、美学)、キリスト教思想、医療倫理、生命倫理、ビジネス・エシックス。また、いわゆる「無頼派」をはじめとする日本文学にも関心があり、坂口安吾や太宰治についての論文も執筆している。
さらに「哲学対話」の実践にも力を注いでおり、2015年8月より月に一度、千葉県柏市にある「bar bamboo」にて、「竹林茶話会 哲学Cafe@柏bamboo」を主催、ファシリテーターを務める他、不定期に哲学対話のイベントを企画・開催しており、手がけたイベントへの参加者は延べ1000人を超える(2018年11月現在)。また依頼を受けて企業内での研修会やインターンの講師、哲学対話のファシリテーターなども担当している。
・ブログ「あちらこちら命がけ ~中畑邦夫のブログ~」https://achirakochirainochigake.blogspot.com/
・竹林茶話会 哲学Cafe@柏bamboo 
https://www.facebook.com/chikurinsawakai/
・メールアドレス philosophicaldiagnosis@gmail.com

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@ 2019 Kunio Nakahata


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