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半世紀前の忘れものを探しに

こんにちは、kuniです。

noteに記事を書きはじめてからおよそ2ヶ月が経ちました。日頃から考えているモヤモヤを言語化したり、過去の棚卸しをすることが多くなりました。

今回の記事では、わたしの生い立ちや青春時代のことを振り返ってみます。特に中2からの5年間はわたしにとって辛く悲しい時代でした。

楽しかったり、嬉しかったり、何かを成し遂げた記憶や出来事も大切にしたいけど、過去に起きたことはすべていまのわたしに繋がっています。

個人的でちょっとセンシティブなお話になりますが、宜しければお付き合いください。

では。

生い立ちと背景

62年前のまだ名古屋に路面電車が走っている時代、わたしは名古屋城にほど近い下町で生まれ育ちました。

祖母がはじめた商売を父が継いでいる家系です。母は父に嫁いだというより、会社に嫁いだといっても過言ではなく、当時数十人いた従業員の母親代わりでもありました。

家の商売は、高度成長期の波に乗って順調だったこともあり、両親は子育てどころではないほど忙しかったことを覚えています。会社と家が一緒だったから、両親よりも社員さんと一緒に過ごす時間の方が長いくらい。わたしが怪我をして動けなくなった時も、助けをもとめる先は両親ではなく、会社の社員さんだったほど。

父は仕事でほとんど家にいない。母は社員さんや祖母の世話で忙しい。兄妹は兄とわたしの2人。両親との会話がほとんど無かったこともあり、自分の気持ちをうまく表現できず感情のコントロールが上手くできず苦しんでいました。

そんな幼少期。外に出て太陽を眺めるのが好きでした。庭の縁側から見ていた太陽の色は、エメラルド色でとっても美しかったことを今でも思い出します。人間1人ひとりはちっぽけで、宇宙からみたらアメーバみたいなもの。自分は大いなる存在に守られて生きている。両手を広げて空を見上げながらそんなことを考えていました。

思春期の苦悩

幼い頃から一緒にいた兄は、中学になってから徐々に疎遠になっていきました。友達の家の溜まり場へ毎日遊びに出掛けていた兄を見て、自分の居場所があってうらやましいなぁと思っていました。

思春期の頃には、心の中に悩みや葛藤、深い苦しみを憶えていました。同時に負けん気が強くて自意識やプライドもあり、真摯にまっすぐに物事を見据えていくところがあったため、内省も多く特に自分を責める気持ちが強い子でした。

中学校は3つの小学校が1つになってできたマンモス校。今思い出してみても何一つとして楽しかった思い出はありませんでした。当時、言われて傷ついた言葉。

  • わがままなところがあるね

  • 看板取ったらただの箱

  • きんか頭が来た

最初の「わがままなところがあるね」は、当時付き合っていた男の子から交換日記で書かれた一言。2つ目の「看板取ったらただの箱」は、会社兼自宅の看板が非常に大きかったこともあり、同級生によく揶揄されていました。

最後の「きんか頭が来た」は、大河ドラマ "国盗り物語" の中で織田信長が明智光秀に向かって言ったセリフです。私が教室に入った瞬間、まるで汚いものを見るように、「わー-きんか頭がきた~」なんてクラスの男子T君を筆頭にからかわれてしまいました。まさに晴天の霹靂。一瞬何が起こったのか訳が分かりませんでした。

信頼していた担任の先生に相談しに行ったけど「男子がからからかっているだけだよ」と相手にしてくれなかったことにも傷つきました。相談しに行くだけでもわたしにとってはとてつもなく勇気のいることだったのに、薄ら笑いを浮かべながら軽くあしらわれたような感じがしました。

何気ない言葉に傷つき、屋上で祈りそして泣いていました。

「私に悪いところがあるのなら教えて下さい。」
「世界にはもっと大変な人達がいる。こんなこと大したことはない。」

今思えば、そんなに自分を責めなてもいいのにね。辛くどうしようもならない悲しい心を持ち、自分を責め続けていた中学時代。

言い返せばいいのに受け止めきれなくて、どうしたらいいか分からずに精神的な苦痛や負担を感じて苦しんでいました。元々頑張り屋さんだったわたしは、その出来事が起こってからやる気が失せてやさぐれていきます。

そして、中3の終わりに「わたし、不良になります」と宣言しました。

高校生になってのディスコ通い

商業高校に通いながら、宣言通り夜又会という不良(っぽい)グループを結成し、未知の世界へ繰り出そうと冒険心を露わにしていました。

若気の至りではありますが、容姿に気を遣うようになり過食と拒食を繰り返したり、家出を計画したりと、からだと心がバラバラになっていました。

当時のハイライトは、ターミナル駅にあるディスコ通いです。

高校生でディスコデビュー。家庭科室にある三面鏡を前に、当時はやっていたピンクレディーの振り付けを考え練習。ディスコで曲をリクエストして、友達と創作した振り付けで踊ったりしてストレス発散。みんなが真似して踊り出してくれることもあったり、結構目立ってたように思います。

高3の進路選択では、いわゆる四大の進学が難しいことが分かっていたから、あと一週間で卒業出来る高校を自ら退学する決断をしました。わたしなりの両親への反抗の意思表示でした。

両親に悪かったなぁ。
高3までのわたしはかなりひねくれていました。

自分の中で落ちるだけ落ちても、乗り越えられることを魂が知っていたのか。そこを通過して人を救える人になりたいと思い自分で選んでいったのか。そこから先の紆余曲折はまた機会があれば。

さて、この話には後日談があります。

数年前の同窓会でT君に40年ぶりに会ったのです。もちろんその時にはすでに彼のことは許していたけど、なんでそんなことを言ったのかを直接聞きたかった。あんまり気乗りしない同窓会だったけど、その一心で参加することにしました。

聞くと、当時T君はお父さんを亡くし生活が苦しかったそう。明確な理由はないけど、なんとなくわたしが目の敵にされたようでした。側から見れば家の商売も順調だし、何不自由がない幸せそうな家族にみえたのかもしれません。もちろん、わたしが家や両親に対して寂しさを感じていたことなんてT君は知らない。

でも、中2の私が知らなかったT君の生い立ちを知り、悔しかったんだろうなって思えたら、奥深いところでさらに彼のことを許すことができました。

「話してくれてありがとう」
「俺の方こそ悪かった」

わたしにとってはすごく辛かった出来事だったけど、そのおかげで人の気持ちがわかるようになったと思います。

半世紀前の忘れもの

もう半世紀前のことを思い出しながら書いていると、すべての出来事には必ずメッセージが含まれていると感じます。

私のような体験はない方が良いに決まっていますが、それでも半世紀後にこうやって棚卸しをする中で、まるで忘れものが見つかったような感覚を憶えます。

人にとっの宝物や資産というものは、人生経験の中で悲しみや痛み、あるいは努力を通して学び取り身につけてきたものだとつくづく思います。

自分には何が出来るのだろうか。
自分は何をやる必要があるのだろうか。
何を差し出せるのだろうか。

今日も私はこの問いを自問自答しながら、一日に感謝をしながら精いっぱいに生きていきたいと思います。

ここまで読んでくださった方々、本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。

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