翻訳を通して見えてくる世界 Yoga by Osho

原文を読み、解釈をしながら自分の言葉にすることで、見えてくる世界があるのかもしれない、、、と思い、気が向いた文章を翻訳してみることにした。


Yoga The science of the soul by Osho


P20

ヨガは心の終止

Yoga is cessation of mind.


これがヨガの最適な定義である。ヨガは様々な形で表現され、多くの定義が存在する。ある人はヨガは全体性と心の出会いであり、それを「ヨガ」と呼び、ヨガとは、出会い、つながることという。


ある人は、ヨガとはエゴを捨てることと言い、エゴは障壁であり、エゴを捨てることにより、あなたは全体性とつながると表現する。でもエゴが現れたときにつながりが途絶えているように見えているだけで、実はあなたはすでにつながっている。ヨガの定義はもっと存在するが、ヨガとは心の終止と言ったパタンジャリの定義が最も科学的である。


ヨガは「no-mind・無心」の状態。

心という言葉は、あなたのエゴ、欲求、希望、哲学、宗教そしてあなた自身の教典といったすべてを包括する。つまり心はすべてを意味する。あなたが考えるすべてのそれは心であり、知るすべて、知ることができるすべて、知るべき全ては心に収まる。心の終止とは、知っていることが止まり、知ることができるが止まること。つまりそれは知らない次元に飛び込むこと。


心とは何だろう?心はそこで何をしているのか?それって何?

一般的に我々は心とはそこに実体として存在するものであり、頭の中にあると考える。が、パタンジャリはその考えに同意しておらず、そして心の内側を知る人も誰一人同意しないだろうし、現代科学も同意はしない。心とは頭の中に存在する実態のあるものではない。心とは機能であり、単なる活動である。


あなたが歩くのを見れば、私は「あなたが歩く」と言う。「歩くって何?」

あなたが止る、歩くはどこに行った?あなたが腰を下ろす、歩くはどこに消えたのか?歩くは実体のあるものではない、それはただの活動。だからこそ、あなたが座っているときに、だれもあなたに「あなたは歩くをどこに置いてきたの?」と聞くことはできないし、あなたはきっと笑うだろう。そのうえで「歩くとは実体のあるものではなく、それはただの活動に過ぎない。だから私は再び歩くことができる、歩けるし、止まれる。それは一つの活動なのだから。」と、あなたは言うだろう。


心も同じように活動であり、だけど「心」という言葉がゆえに、それには何かしら実体があるようにとらえられるのだろう。きっと「歩く」と同じように、「心る」って言ったほうがいいのかもしれない。心は「心る」、心とは考えているという活動。


*****


No-mindを無心と訳すのか、それとも滅心と訳すのか。どちらが最適か少し考えた。


Noを無と訳すのか、滅と訳すのか。

そのあとにつながる文章を考えると、ここでは滅ではないなぁ、、、と思い、無と訳した。


先日の動作学ポッドキャストのテーマは「心」(配信は10月末)


その中の会話とOshoの文章には共感性が高くある。


私たちの心は、環境によって常に動き、揺らぐ。

私たちの心は、私たちの中から生まれるのではなく、環境の影響を受け、その結果として活動として現れるもの。


「心ってる」私たち。


心が活動であると考えると、物事のとらえ方が大きく変わる。


今日は素敵な景色を見たいから、海沿いを歩こう

今日はあそこのおいしいカフェオレを飲みたいから、右の道を歩こう

今日はゆっくり歩きたいから、裏通りを歩こう。

今日はいつもと違う駅で降りたら、お気に入りになりそうなお店を見つけた。


そうやって私たちは意識的にも無意識的にも選択をして歩き、その選択により新たな世界に気づく。


それと同じように、


今日はおいしいもの食べて心っちゃお~

今日は人の熱い心意気に触れて胸がじーんと心っちゃった~

今日はあの人のイライラに触れてむかむか心っちゃった~


ってことなんだろうなって思う。


私の心が悪いから

私の心がそういう人間だから、、、

私たちの中がそれで支配されているのではなく、私たちの心ってる活動がそうなだけ、、、。


そう考えると、なにか見えてくるもの、自分に対する考え方変わりますか?


#Osho

#Yoga

#心

#動作学

#翻訳してみる





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?