店長!絵里さん家のシャム猫です 第1話 ~神様は不公平~
たまに思い出す風景がある。
僕の父親は寡黙で、たまに笑うと眼鏡の奥の目がとても優しかった。母は明るくて柔らかい香りのする人だった。
その日は父の帰りが早く、玄関から声が聞こえると僕は喜んで駆けて行った。「おかえりなさい!」と言うと、父は手元に小さな袋を持っていた。
「お母さんのところへついて来て」
そう言われ、父に頭を撫でられながら、台所で料理をしている母のところへ向かう。
「これ、綺麗だったから」そう言うと、父は袋から花束を取り出した。
野菜を切るのに集中していた母は花束を見ると、みるみるうちに笑顔に変わり、幸せそうに父と花を交互に見ていた。
私も下から二人を見上げ、温かい気持ちになり、子どもながらに幸せという感情が広がるのを知った。
おっといけない、昔を思い出したり妄想したりするのはいつものくせだな。
秋の哀愁のせいだろうか、下川徹は朝から考えにふけっていた。エプロンを付けた彼の周りには瑞々しい花々の香りが漂っている。店はガラス張りのため、通り過ぎる人々はどこからでも綺麗な花たちを見る事が出来る。
その空間は、一人の努力と健闘によって維持されてきたものだった。いや、一人の夢が形になったと言う方が正しいかもしれない。
下川は素手でしていた水仕事も、ここ最近の寒さからナイロンの手袋をするようになっていた。
ひと通り、開店前の準備を終え、時計を確認すると午前10時少し前。下川はアルバイトの大学生が来る頃だと思い、レジから外を眺めていた。
「店長、来週のシフトで変更をお願いしたいんですが」
近くの大学に通う、アルバイトの神崎音々はお客が少ないタイミングを見計らって、下川に相談した。
「来週ですか?わかりました、あとで日にちと希望を教えてください。他のバイトの方との兼ね合いを調べるので」
「はい、ありがとうございます」
神崎は営業時に着用するエプロンの可愛さに惹かれた事が、ここでアルバイトをするきっかけの一つだった。
それが今では、多くの花の美しさや香りに癒される事が、辞められない理由になっていた。
店の入口に、制服を着た女子高生が店内をのぞき込みながらコソコソと何か話をしていた。
「ここの店長、イケメンなんだよね」
「まじ、どこにいる?」
「えっとね、あそこ!長身で眼鏡が似合うでしょ」
「あ、・・・うーん、少し年上すぎるというか」
「これだからリサは、推しのアイドルばっかり見すぎ」
音々は、お客へ近づき笑顔で声をかけた。
「何かお探しでしたか。店内の奥には観賞用の植物もありますよ」
二人の高校生は、声を掛けられるとは思わなかったのか、驚きの表情で答えた。
「あ、いいえ!学校帰りに通っただけです。すいません」
「また、来ます!」
「あ、そうなんですね。是非また来てください」
音々は店内の方へ振り向き、気まずそうな表情で店長を見た。
「・・・店長、まさか聞こえました?今の子たちが言っていた話」
「え?ああ、いや、おじさんですし。あの子が言ってた事は正しいですよ」
下川は手作業を止めずに、何も感じていない風を装って答えた。
「やっぱり、聞こえましたか。私は、二十二歳ですけど、店長は一緒にいてもおじさんって感じしないですよ。年齢より見た目が若いです!」
「ううん、もういいですよ。気にしてないですから。それはそうと、シフト変更の申請はなるべく先月中にとお伝えしていたので、急な申請を控えてもらえるとありがたいです」
「ええ!褒めたのに。それは、まぁ私が悪いんですけど。店長は少しお堅いんですよ」
彼女は店内を清掃しながら、小さな声で一人ごちた。
「本当にお堅いよぉ。元銀行員で三十六歳独身って」
聞こえるか聞こえないかのギリギリの声量でぼそぼそと言っていたが、彼にはすべて聞こえていた。
下川は動かしていた手を止め、少し考えて言葉を発した。
「音々さんは、若いのに考えが古風ですね。多様性の時代ですし。何より自営業となると、安定を通り越して繁盛している期間が何年も続かないと、結婚は不安なんです」
音々は清掃していた手を止め、店長の方を見て言った。
「ほぉ、好きなことを仕事にするって憧れます。幸せだと思うし。でも、やっぱり大変なんですね」
下川にとって三十歳で自分の花屋を持ち、店が町に馴染み、お得意先が定着する、というこれまでの出来事は夢のような日々であった。
彼にとって、店内が夢の国と言っても過言ではないほどに。
だが、そんな下川にもこの夢の国で、ふと考えて寂しくなる瞬間があった。
花たちはお客の家に飾られ、お花教室やプレゼントに冠婚葬祭と異なる場所で活躍する。
それぞれどれだけの人の目と心を潤わせるのか、感動させるのか。そこまで見て味わうことは出来ないんだよなぁ。そこまで味わいたいなんて、さすがに贅沢かな。
子どもの頃に見た、あの母の笑顔。
同じような出来事が、お客様一人ひとりに起こっているに違いない。想像をしながら仕事をしていると、夢を仕事に出来たんだと実感する。
今日も、花たちはどんな物語を起こしてくれるのだろうか。
かすみ草
「いらっしゃいませ」
一人の女性客が入って来た。月に数回と多くはないが、毎月必ず来る客だった。大体夕方に来るので、どうやら今日も仕事終わりか、休みの日なのかも知れない。
「店長、こんにちは、お久しぶりです」
「あ、鈴木さん。お久しぶりです。お元気でしたか」
「はい。お陰様で、寒い季節になりましたけど元気です。店長もお元気でしたか」
「はい、水仕事もあるのでいつもより厳しいですが、楽しくやってます」
「よかった、それが一番よね」
彼女は、店内の花に目を通しながら店長のいるレジ近くへ寄って行った。
店長はいつもの花かな、とお客の心情を察した。
「鈴木さん。今日もかすみ草でしたか」
「そうなの、この花だとうちのシャムが嫌がらないから。いつもと同じ感じにお願いします」
「すぐに、包みますね」
店長が手際よく花を包んでいる間も、彼女は他の花に目を通し、癒しの時間を味わっていた。
まったく、猫タワーが家にあると私が喜ぶとでも?
私はその辺の単純な猫じゃないのよ!そんなものより、自由に寝て、自由に動く環境さえあれば充分。
あら、ご主人様がそろそろ起きる時間かしら。
ニャー。
ご主人様の名前は鈴木絵里。45歳で独身のおばさん。私も同じ女だけど、彼女と違っていつまでも若く見えて、白くてスラッとしている。皆に「可愛いシャム猫ちゃん」と言われているわ。
ニャー。
まだ起きないわね。そうそう、聞いてほしいことがあるの。ご主人様ときたら、老若男女問わずに色んな人に騙されてばっかり!
本当にもう、いつまでも結婚出来ないご主人様。モテモテの私とは似ても似つかない存在よ。
ここだけの話。この人、男性に二回も騙されてるの。さらに、女性にまで騙された経験あり。お金を貸しちゃったみたいで。
もぉう、本当におバカ!
人が良いというか、信じやすいというか。
だから、未だにこんな感じ。
私が人間だったらご主人様に駄目出しをして、賢明なアドバイスで改善させてあげるのに。「ずる賢く、可愛こぶって。将来性のある良い人と結婚しちゃうの」って。
そこそこ綺麗なのに、お人好しで悪い奴に良いように使われて上手くいかない。親から保証人にだけはなっちゃダメって忠告され続けて来たらしいのよ。
ネーミングセンスもびっくりなの。
「シャムちゃん、おはよう」
「ミャー」
今日もご主人様は、病院で朝から清掃のお仕事。お金のない彼女は貯金もゼロ。貸したお金が全額返ってきたら三桁になるわよぉ。
「あら、この納豆美味しい。ああ、ひきわりだったんだ。こっちの方が好きだな」
ああ、過去の事はすっかり忘れてるのね。嬉しそうに、たまご掛け納豆ご飯を笑顔で食べてるわよ。毎朝、この笑顔。
簡単に教えちゃうけど。ご主人様が最初にお金を貸したのは、高校時代の同級生。校内で男子人気No.1の可愛くてあざとい女の子。
学校を卒業してから久しぶりの再会に、泣きながら10万円を貸して欲しいって言われたらしいの。
親友でもなんでもないのよ?
普通、貸さないわよ!
これが、ご主人様はやっちゃうのよ。
「私、貯金が5万円しかないから残りは親や友達に借りられないか聞いてみる。明日まで待ってもらえる?」
「え?無理しないでね。親や友達には私が借りたがってるなんて、名前は出さないでほしの」
「そうだよね、大丈夫。名前は出さないよ」
おいおい、借りないと足りないなら貸しちゃ駄目!しかも、自分の名前は出すな、なんて借りる側が指示する事じゃないわよ。
借用書も、担保も無しなんて非常識!
おっと、熱くなり過ぎたわね。
「シャムちゃん。今日は天気が良いわね、お仕事に精が出るわ」
いやいや、昨日は曇りだから暑すぎなくてちょうど良い、いい日だわって笑っていたし。なんでもいいんじゃない、と思っちゃう。
「シャムちゃん、この前に買ったお花、そろそろ枯れそうね。今日、いつもの花屋で買ってくるわね。シャムちゃんの好きなやつよ」
「ニャー」
いつもの地味な花ね、花粉の香がきつくなくて丁度いいのよね。大きさも邪魔なほど大きくないし。
「じゃあ、行ってきます」
「ミャー」
はいはい、行ってらっしゃい!
定番デニムにモスグリーンのセーターがお気に入りなのよね。薄茶色の膝丈コートは毎年着ているユニクロのやつ。これは、なかなかセンスあるのよ。
あの人、暗い雰囲気があるわけでも、見た目も心も悪くないのに。
神様って不公平ね。
~次回、シャム猫と飼い主の女性の奮闘生活が始まります~
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