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室井の山小屋 2

第2章 初日・山小屋

そろそろ歩き始めてから1時間半…まだまだ山道は続いているが、道幅はますます狭くなり、足元も悪くなってきた…両脇の森も深くなってゆく…タクシーを降りた場所よりも標高が高くなったのだろうか、それとも太陽が大分傾いてきたせいだろうか、気が付くと気温も少し下ってきたようだ。

それでもまだ初秋のうちだ。重いリュックを背に、時折行く手を塞ぐうっそうとした枝々を払い除け、太い木の根で生じた足元の段差を乗り越えながら進むのは、普段から運動習慣のない私にとっては骨の折れる仕事で、シャツの中はもう汗だくだ。途中少し休憩を取ろうとも思ったが、ここでどこかに腰を下ろそうものなら永久に再び立ち上がる気力を失いそうで、ただひたすら歩き続けた…

元来私は登山とかトレッキングには全く興味がない。どんなに長く険しい山道を歩いたところで清々しさも満足感も味わえないのだ。たまに原稿取材や写真撮影の立ち会いで自然の中に足を運ぶ機会もあったが、いくら美しい景色を目の当たりにしても、だから何だ…という気分だ。

ああ…足が棒になるというのはこのことを言うんだな…と思ったその時、一気に周囲の空気が変わった…何かとてつもなく神聖な場所に足を踏み入れた感覚だ。多分周りの深い林が植林から原生林に変わったせいかも知れない…ふと見ると道の脇に古い木の標識が立っている。それは細い脇道に向かって『神竜水源』と書かれている…室井からの情報によれば、ここがいよいよ最後の分岐点だ。


脇道に入ると山道はさらに狭く険しくなる。ここからはいよいよ岩や石が足元に露出し、さすがに杖が必要だ。適当な枝を拾って杖代わりに前に進む…

足腰の疲労は限界に達しそうになっていたのに何故か気力が回復してくる。うんざりしていた気分も晴れ晴れとして、周囲の青々とした森がやたら美しく見える。


20分ほども進んだだろうか、森の中に小さな池が出現する。これが神竜水源だ。池の周囲を囲む岩盤のあちこちからこんこんと水が沸き出ている。足を止め、手ですくい、渇いた喉を潤す…旨い…これ程澄んだ美味しい水は飲んだことがない…

室井の話によれば、この水が山小屋の水源だ。道に這わせたビニール管を辿って下りていけば、じきに山小屋に到着する筈だ。言われた通りに道を下る…


そして、私はようやくそこに辿り着いた。原生林の一角が二百坪分ほど奇麗に切り開かれている…周囲は腰ほどもある雑草に覆われているが、そのほぼ中央に小振りだが漆喰に塗られた堅牢そうな家が建っていた…

『こんな家…こんなとこにどうやって建てたんだ??…』真っ先に頭に浮かんだ疑問だ…

正直言って、山奥の小屋と聞いていたので、バラックに毛の生えた程度の簡素な山小屋を勝手に想定していた。これは…小屋ではない…家だ。基礎もしっかり整地されている。道から家までは砂利石が敷かれ、そこは雑草も疎らで、多分雨が降っても楽に歩くことが出来るのだろう。玄関前にはきちんとコンクリートの上がり口がある。

室井の話では1年間ほっぽらかしだということだが、周囲の雑草と外壁の多少の汚れ以外は何ら支障はなさそうだ。建坪こそ小さいものの、奇麗に塗られた漆喰の外壁といい、丈夫そうなサッシの窓といい、これは明らかにプロの大工が建てたものだ。しかし…どう無理をしてもここには車で来ることは出来ない。水源からの道は人がようやく歩ける幅しかない。これだけの建材をどうやってここに運んだのだろう?…

しばし家の外観を呆然と眺めていたが、気を取り直して玄関前に立ち、汗で少し湿ってしまったメモを取り出す。

『えーと…7583…』室井から教えられていた玄関の解錠番号だ。しっかりとした引き戸の左右の扉の把手とっては太い鎖で結ばれ、大きな番号式の錠で留められている。

番号を合わせ錠と鎖を手に扉を開くと…そこは8帖ほどの広さのコンクリートの土間だ。片側の棚には様々な道具類が収められている。何本かの釣り竿も掛けられていた。作業台や小さな椅子、灯油や炭等の燃料、さらに食品棚には室井の言った通り大量の缶詰めや乾物、酒類が埃を被って備蓄されている。

突き当たり上がり口の向こう側には板敷きの廊下、片側は風呂場のようだ。上がり口に座り、リュックを下ろしてその奥へと進むとすぐに広い板の間に出る。

16帖もあるだろうか…広々とした居間兼食堂兼炊事場だ。小さな炊事場側には簡素なテーブルと椅子、小振りの薪ストーブが備えられている。部屋の逆側半分は天井が低くなり、下には木製のベンチにサイドテーブル、脇の階段を昇るとその上は広いロフトに2つのベッドが置かれていた。

居間の脇、二間幅の雨戸を開けると、そこは広いウッドテラス、目の前に広々とした雑草だらけの庭が広がり、その向こうは森が谷に向って背を縮めてゆく…朱に染め始めた広い夕焼け空を飾るように沢の水音がかすかに聞こえる…


到着後にすべきことは、全て次のメモに書いてある…まずは水の確保とプロパンの開栓だ。室井のゴム長靴を借りて再び玄関から外に出る。

家を回り込み敷地の一番高い位置に備えられた貯水タンクの給水バルブを閉め、下の水抜き口の栓を開けると勢い良く中の水が脇に掘られた溝に流れ出す…水が抜けきるまでの間に、炊事場の外側のプロパン設備に移動する。家の外側には屋根付の棚、そこには幾つもの小さなプロパンガスボンベが置かれている。上の段が未使用、下段が使用済み、家のガス栓に繋がれているのが使用中のものだ。ボンベの元栓を開く…

次は、小屋の中の掃き出しだ。1年間未使用だった小屋の中には様々な小さな虫たちが入り込んでしまっている。彼らに退出して頂くのだ。ロフトから居間、廊下、風呂場とトイレ、そして土間…密閉性が高いのだろう、室井が言うほど多くの虫はいなかった。蜘蛛はなるべく残しておくように言われている。目に見えない小さなダニを捕食してくれるからだそうだ。

ざっくり掃除が終わり、貯水タンクに戻るともう水は抜けきっていた。水抜き口を閉め、給水バルブを開くと、水源からの水がどぼどぼとタンク内に溜まり始める音が響く…さて、これでまずは生活の準備が整った。

玄関に戻ると開け放たれた入口の脇に一匹の猫が座っていた。毛足が長めのキジ猫だ。太く長い尻尾を揺らしている。猫は玄関に近付く私の顔を見上げ「にゃー…」と小さな声で挨拶した。首には黄色い首輪を着けているので、多分どこかの飼い猫なのだろうが、この周辺には他に家はないはずだ。迷い猫だろうか?…一体何処からやってきたのだろう?…

余程人恋しいのだろうか…猫は私が土間に入ろうとすると、長靴に身を擦り寄せて一緒に入ろうとする…「こらこら…」そっと外に追い出そうとすると、何故そんなつれないことをするのかとでも言いたげに、私の顔をみて「にゃー」と再び鳴いた。考えてみれば動物好きの室井のこと、そうだ、彼だって同じことをするだろう…そう納得して「ま、好きにしな」と、勝手にさせることにした。居心地が悪ければ、きっと勝手に出て行くだろう…と、玄関の扉は少し開けておいた。


山小屋には電気がない。電気がないので電化製品は一切ない。唯一あるのは蓄電式のバッテリーだ。東京の生活では見ることのない、多分アウトドア用のものなのだろう。

テラスの軒の上には室井が備え付けた太陽光パネルが敷かれている。天気の良い日にはこれにバッテリーを繋いでおく。ノートパソコンや携帯電話、アイポッドに充電式のパワースピーカー…その程度のものなら1日位は使用出来る。ただし雨や曇りの日にはそれも諦めなければならない。次に使用出来るのはお日様の顔を暫く拝んでからとなる。

陽も暮れてきたので、部屋に明かりを灯す。照明は小屋の中のあちらこちらに下げられた灯油ランプだ。いつ頃購入されたものなのかは知らないが、この手のものは意外に良く出来ている。充分な照度が得られるし、調光も容易い。

風呂の準備をして、小さな鍋で米を炊き、秋山夫妻から貰ったハムと野菜で炒め物を作った。土間の棚からはインスタントのみそ汁とオイルサーディンの缶詰めを使わせて貰った。1年以上前のものだが、問題はないようだった。

オイルサーディンは皿に入れて猫の晩餐だ。余程腹が減っていたのか、猫は夢中で皿の中の小さな鰯にかぶりついている…ふと黄色い皮の首輪に何かが書かれているのに気が付いた。身を屈めてよく見てみると…油性ペンだろうか、手書きの小さなカタカナで『キリ』と記されていた。

「お前…キリっていうの?」私がそう話し掛けると、猫は一瞬皿から私に顔を上げ「にゃー…」と一言返事を返した。


ランプの光が揺らぎながら湯煙を照らしている。昔ながらのガス釜を備えた小振りな木桶の湯船に身を沈める…気持ちがいい…ここ暫くの間、重く息苦しい想いに縛り付けられていた心が解きほぐされていくようだ……

思い返してみれば、風呂に浸かるのは久し振りだ。ここ最近は近所のコンビニ以外は外に出掛けることもなかったし、エアコンの効いた小さな部屋で悶々としていたので、さして汗をかくこともなく、2、3日に一度ざっとシャワーを浴びるだけだ。

とにかく出来るだけ何もしたくないのだ。朝も昼も夜も食欲があるのかないのかも良く分からず、一日一度コンビニで調達した弁当一つを2度に分けて食べていた。計った訳ではないが、自分の見た目でも明らかに体重は減ってきている。

日中はどんよりといつも眠いのだが、夜寝床に入ってもなかなか眠れない…その内頭痛も始まったので、一度は近所の心療内科にも行ってみた。医師からは「うつ病ですね」とあっさり言われてしまった。それ以来処方された睡眠導入薬を飲めば何とか夜は眠れるようになったが、抗うつ剤は面倒なので飲んでいない。今のところ特にしなければならないことは何もないからだ。

ところが、どうだろう?今日は朝から重い荷物を背負って奥多摩までやってきた。ふもとの村では少なめながら定食一人前を平らげることができた。誰かとあれほど話をしたのも久し振りだ。

山道を何時間も掛けて歩き、ここに辿り着くと、生活準備の為やむなくせっせと働いた。夜を待てずに夕食も作って食べた時の空腹感も久し振りだ。時折感じていた頭痛もいつの間にか消えている。心の中の憂鬱が消えた訳ではないが、もしかしたら、この環境は今の私に向いているのかも知れない…あまり深くは考えずにとにかくこの山小屋に身を委ねることにした…


新しい下着に着替え、玄関の扉を閉める。外はもう漆黒の闇だ。時折吹く風に周囲の森の木々やその空間そして地形が複雑に干渉し合い、不思議な音を響かせている。

居間のサイドテーブルの上ではキリが満足そうにうたた寝を始めている。時間を見るとまだ8時前だ。テレビもなければラジオすらない。バッテリーが充電されていないので音楽はイヤホンで聴かなければならないが、この環境で耳を塞いでしまうのは何とも場違いな気もする…

テラスで一服するか…そういえば煙草は朝の出発前に一本吸っただけだ。食堂でも山小屋でも煙草のことなどすっかり忘れていた。東京の部屋では、毎日煙草を吸うこと位しかする事がなかったのに、確かにここは室井の言った通りすることが山程ある。何かをする為には何かをしなければならないのだ。

リュックの中を探ってみると、東京を出る時に入れておいた煙草が3箱あった。うち一箱の封を切って、一本取り出す…灰皿代わりにオイルサーディンの空き缶を持ち、テラスに出ようとして驚いた。

私が窓に近付くのを見て、ガラスの向こうの暗闇の中から1匹の犬がニコニコしながら姿を現した。大型犬と言えるほど大きくはないが、紀州犬ほどの大きさの白い雑種犬だ。まるで旧知の親友とでも会ったかのように、よろよろと腰砕けになりそうな程思い切り尻尾を振っている。この小屋に誰かがいるのが嬉しくて仕方ない様子だ。ということは、多分室井が可愛がっていた野良犬なのだろうか…

テラスへの窓を開くと、犬はさらに興奮して後脚で立ち上がり、私に抱きついてきた。森の中をすみかにする野良犬にしては、あまり汚れていない…首や頭を撫でてやると、私の手を夢中で舐め、やがてテラスの板の上に仰向けになり、服従の姿勢を取った。

誰かに山に捨てられた飼い犬なのだろうか、しっかりとした革製の首輪をしている。首輪にはメタルの小さな札が付いている。そこには『タロ』と刻まれていた。

「なんでメスのくせにタロなんだよ?…」


タロはひとしきり甘えると、何のためらいもなく私と共に小屋の中に入ってきた。多分室井がここに滞在した時にはいつもそうしているのだろう。炊事場近辺をうろうろし、しきりと匂いを嗅ぎながら私の顔色を窺う。フライパンの中に残った炒め物を皿に空けて床に置いてやると、嬉しそうにかぶりついた。

キリにもタロにも、この山小屋では定位置があった。キリは居間のサイドテーブルの上、タロは土間の隅の一角だ。2匹とも時折私が何をしているのか様子を見に徘徊するものの、必ず定位置に戻り安心したように微睡み始めるのだ。室井がここは淋しくはないと言っていたのはどうやらこのことだったのだろう。

さて、まだまだ時間は早いが、そろそろ私も寝ることにしよう…念のためリュックを探って処方された睡眠導入剤の紙袋を出す…ところが、何故だろう…紙袋の中は空だった。アパートで荷造りをした時には間違いなく確認したつもりだったが、このところいつも頭が漫然とぼうっとしていた。どこかに置き忘れてきてしまったのかも知れない。睡眠薬なしで眠るのは久し振りだが、ないものは仕様がない。

土間や居間のランプの火を落とし、ロフトのベッドに身を横たえる…昼間の疲れが心地良く身を包む…アパートで日々あれほど眠れぬ夜を過ごしていたことがまるで嘘のように、外から聴こえる虫の音に誘われるように、私は直ぐに深い眠りに落ちていった…

第3章につづく...

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