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室井の山小屋 3

第3章 2日目…

山の中の生活が静けさに包まれていると思ったら大間違いだ。これから夜明けというまだ薄暮はくぼの頃、鳥たちのヒステリックな騒がしさに目が醒めた。

未だ頭の中にはよどみがあるものの、一晩一度も目を覚まさずにぐっすり眠れたのは本当に久し振りのことだ。昨夜は雨戸を閉めずに寝てしまったので、ロフトからの階段を降りると、うっすらとした青みがかった淡い外光が居間を照らし出している。サイドテーブルの上で、私の気配で目を醒ましたキリが大きく伸びをする…

テラスへの窓を開ける…涼やかな山の冷気が小屋の中一杯に広がった…昨日見た夕陽を浴びた暖かい光の中の森は、一面薄い朝もやのベールに包まれ、幻想的な寒色彩に姿を変えていた。

湯を沸かしコーヒーを入れる…土間に下りて玄関の引き戸を開放する…居間から玄関へと爽やかな冷気が流れ始める…タロは私に朝の挨拶を済ませると森の中へと出掛けて行った。縄張りの見回りだろうか…

さて、今日は何をしよう?…居間のテーブルでコーヒーを片手にメモに目を通す。空を見る限り今日も天気は良くなりそうだ。することはいろいろとある…まずは顔を洗って歯磨きだ。

食材を漁り卵とウィンナを炒め、缶詰めの野菜スープの朝食。もちろんキリのおねだりに応じてソーセージは2人前だ。こうして朝食を摂るのも久し振りのことだ…

早朝から騒がしかった鳥たちもようやく少し落ち着いたようだ。

テラスでバッテリーと太陽光パネルを接続して充電の準備をする。ロフトのベッドから布団を運び、日差しを待たずにテラスの手すりに干しておく。仕事は朝の涼しいうちに…室井からはそう聞かされている。小屋周囲の除草、給水設備の水漏れチェック等、やることは沢山ある。

土間に下りて道具棚の隅から刈り払い機なるものを引っ張り出してみる。都会生まれ都会育ちの私には初めてお目にかかる代物だ。取扱説明書と首っ引きで燃料オイルを装填する。土間に掛けてあった作業用の上着を羽織り、ゴーグルと手袋を付けてベルトで刈り払い機を肩に掛けると、バルブを開き、恐る恐るレバーを引く。2サイクルの軽いエンジン音と共に先端の回転刃が回り始める…試行錯誤を繰り返しながら山道から玄関周りまでの除草を概ね終えた頃には、いよいよ日差しも強くなり始め、あとはまた明日以降にと道具を片づけ始めた。


玄関前に椅子を出し、一服していると、水源からの山道をタロが駆け下りてくるのが見えた。元気よく跳ねるように坂道を下り、時折立ち止まり、後を振り返っては尻尾を振っている。タロがようやく小屋に辿り着くころ、山道の上から杖を片手に下りてくる人影が見えた。

人影は次第に近付いてくる…どうやらこの小屋を目指しているようだ…かなり年配の男性だ。カーキ色のズボンに運動靴、白い開襟シャツを羽織り、片手にステッキ、もう一方の手には手ぬぐいが握られている。軽装なのでそれほど遠方からやって来た風体には見えない。玄関の前に立つ私に気付き、手に持ったステッキを振る。私も手を振り返す。

「やあ、お早う御座いまーす!」
男は山小屋に近付くと、満面の笑みを浮かべ、良く通る太い大きな声で挨拶を投げ掛けた。白い髭を蓄えた小柄な老人だった。

「お早うございます…」
「タロがよお、嬉しそうにここに走ってくから、何かあるのかと思ったらよ、こんなとこに家が建ってやがった…おたくは、どっから来なすったんだい?」
「あ、昨日東京から来ました。結城です。はじめまして…あの…タロはあなたの飼い犬なんですか?」
「いやあ、こいつぁ誰の犬でもねえよ。いっつもこの辺りをうろうろしてやがんだ。ま、俺とおんなじだな。散歩の相棒ってとこだ…はは…」
老人はそう言いながら手拭いで襟元の汗を拭う。

「あの…失礼ですが…あなたは?…」
「俺かい?俺あこいつとおんなじで、この辺をうろついてるただの野良老人だ」
「…野良老人…って…はは…」
「ま、そりゃ冗談だけどよ、半分は本当だぜ。こっちの下の沢のよ、小っこい集落にいるんだ。時々な、神竜様の御神水を頂きに来るんだ。ほれ…」
彼はそう言うと腰に下げた太い竹筒を見せた。

「あの…お名前、伺っていいですか?…」
「ああ…川添かわぞえ、川添康三こうぞうっていうんだ。あんた、結城さんっておっしゃったかね…ここに住んでんのかい?」
「いえ、ここは知り合いの山小屋で…暫く使ってなかったんで、暇だったら旅行がてら様子を見に行ってくれないかって言われまして…で、昨日から…」
「ああ、そう…じゃあ、この家の持ち主さんは他にいらっしゃんだね?」
「ええ。室井さんっていう、以前仕事で世話んなった人で…」
「じゃあ、ここは誰も使ってねえのかい?」
「まあ…どうも最近はその様ですけど…あの、もし良かったら上がって、少し休んでいかれませんか?俺もひと息入れようと思ってたんで…コーヒーでもどうです?」
「お、いいのかい?実はよ、ここまで上がってくんのも結構骨が折れんだよ。別に急ぐ用事があるわけでもねえし、お言葉に甘えさせて頂こうか…」


「しかしここは、自然が一杯ですねえ…」私がコーヒーカップを差し出しながら話し掛けると、川添はあきれたように笑う…

「はは…自然が一杯って…あんた、自然以外なんもねえだろう。まったく、都会の人は面白えこと言うねえ…ところで、こらああんたのもんかい?」
川添がそう言って手に持って示したのは昨夜私がリュックから出して、そのままサイドテーブルの上に放置してあった空の紙袋だ。袋の表には処方された薬剤名と数量が記載されている。

「ええ…そうですけど…どうも中身は東京のアパートに忘れて来ちゃったみたいで…へへ…」
「あんた、心の病なのかい?…」旨そうにいれたてのコーヒーを啜りながら川添が尋ねる…
「え?ええ…ちょっと…川添さん、薬のこと詳しいんですか?」
「ああ、こう見えても何年か前までは医者だったからな」
「え?お医者様なんですか?」
「あはは…お医者様なんてしろもんじゃねえよ。元々ぁ軍医上がりでよ。戦争のどさくさで拾ったような免許だからな…」
「ええっ!?戦争って…川添さんって…失礼ですけど、お幾つなんですか?」

70は超えているのだろうとは思っていたが、終戦は65年も前のこと…その時には既に医師だったということだ。
「ま、そんなような年ってことだ…あんまり思い出したくもねえけどよ…」


川添は実によく話しよく笑う、快活を絵に描いたような老人だった。一緒に居て話を聞いているだけで、こちらの気持ちも明るくなる。彼は私の祖父の世代だ。2世代も上の人物とこれ程長く語り合うことは初めての経験だったが、正直言って楽しかった。

興味深い話ばかりだった。腰を上げようとする彼を何度も引き止め、コーヒーの後は昼食、昼食の後はお茶…ビール…水割り…焼豚や缶詰めのつまみ…そして、夕食へ…瞬く間に外は夕暮れを迎え、山道はもう足元も危ないだろうと、そのまま泊まってもらうこととなった…


川添康三は八王子の商家の三男として生まれた。昭和初期の西洋化、近代化の波の中で、学業に秀でた康三は高等教育を許された。しかし旧制中学の頃、にわかに世の中は軍事色が強くなり、一般徴兵が活性化する。

戦場に駆り出されて殺し合いに参加させられるのはまっぴらと、康三は考え抜いた揚げ句、その難を逃れるため旧制医学専門学校に進学を決める。ところが、5年間の学業を終えるや直ぐに医師免許を与えられ、ほぼ強制的に下級軍医として中国北部の野戦地に送られてしまった。

その後、戦況の悪化に伴い、所属する部隊は南方パラオ戦線へ…そして、辛うじて生き延びた康三は終戦1年後に復員。その数年後には奥多摩に近い青梅市で診療所を開くこととなる。

この頃から、自治体の要請を受けて檜原村を足掛かりに、奥多摩の無医村地域を定期的に回診し始め、ここ月夜見沢に点在する幾つかの集落の人々とも診療を通して親交を深めるようになったのだ。

「あの頃はよ、この国は高度成長期ってやつでな、多摩にもでけえ団地がぼこぼこ建ってよ、人は増えるは街はでかくなるはで、そりゃあえれえ騒ぎだったんだぜ。ところがよ、ここはどうだ…テレビもなきゃあ電気も電話もねえ。森と水と風と…小さな畠を小さな糧にして…昔ながらのいさぎいい暮らしが丸々残っててよ、俺ぁいっぺんに気に入っちまったってわけさ。時々来ちゃあ集落の連中の病気を診てたんだけどな、いつかはここで暮らしてえなあって…まあ結局目出度く願いが叶ったのは何十年も先のことだったがな…」

復員後も川添が自分の家族を持つことは遂に一度もなかった。50年間続けた街の診療所を後進に譲り、ここ月夜見沢の小さな集落に余生を託したということだった。

しかしこの50年の間に山間部の過疎化はさらに加速し、幾つかあった集落も消滅して、今は川添を含むたった5世帯だけの一集落のみになってしまっているという話だ。

「ま、いろいろあったがよ。一応ゴールに到着ってことだな。もっとも寿命の方もゴールになっちまったけどな…はは…」

「で、診療の方はまだ続けてらっしゃるんですか?」
「いいや、俺の周りは医者いらずばっかりだからよ。薬を飲んでるような病人に会うのは久し振りなんだぜ」川添はそう言って再び私の薬袋を摘み上げた。

「ああ…それ…ちょっと、うつだって言われて…」
「そんなこたあ、これ見りゃあ分かるぜ。でも、どうしたんだい?何か余程つれえことでもあったのかい?まあ、言いたくなきゃあ無理にゃあ訊かねえけどよ…」
「いろいろときっかけみたいなことはあったんですけど…」

私はここ最近身の回りで起きた出来事について説明を始めた…川添の生い立ちを聞いた後では、自分の身に起きたことなど、話してみると我ながらやけに小さく思えたが、それでも川添は黙って聞いてくれた。やはり医者として多くの経験を積んできたからだろうか…

初対面だというのに、私はいつの間にかすっかり心を許し、自分の中で解決することが出来ない深い大きな悩みについても話していた…

「…要するに…俺には人生の意味がよく分からないんです。ちゃんと生きてこなかったっていうか…ちゃんとした目的がないっていうか…」

川添は少し俯いて、間を置いてから顔を上げ話し始めた。
「結城さんはよ、盗られちまった金が惜しいのかい?その、なんとかいう先輩を恨んでんのかい?」
「いや、そりゃ口惜しくないって言やあ嘘になりますけど…どうしても出版社やってみたかった訳じゃないし…彼も必死だったんでしょうから…まあ、仕方ないっていうか…」

「じゃあ、その男作って逃げたっていう嫁さんが恋しいとか?」
「いえ、それもいいんです。後で考えたらちゃんと夫婦をしてなかったのは、俺のせいのような気もするし…要はお互いそれほど愛情がなかったっていうか…ただ形だけのパートナーが欲しかっただけなんじゃないかって…」

「なら良かったじゃねえか。不幸中の幸いたあこのことだ。金を取り返すのも、嫁さん取り戻すのも一筋縄じゃあいかねえだろうがよ、問題は結城さんの心の中のことだけなんだろ?だったらどうとでもなっだろう。第一よ、人生の意味って…何だい?そりゃあ…そもそも人生に意味なんてもんがあんのかい?」
「え?川添さんは、そういうの感じないんですか?」
「そんなもん、さっぱり感じねえよ…」
「じゃあ、川添さんは何の為に生きてるんですか?…」
「なんかの為じゃねえと、生きてちゃいけねえのかい?人生ってのはよ、生まれてから死ぬまでのことだろ?それだけのことじゃねえのかい?それじゃ駄目なのかい?」
「いや…それは…そうなんでしょうけど…」

「だろ?だったらどうでもいいじゃねえか。なにもわざわざ無理して終わらせなくてもよ、ほっときゃ勝手に終わっちまうんだ。そういうもんだ。近頃の人たちはよ、余裕がありすぎんだろうなあ、きっと…人生の目標が見付けられねえとか、人と上手く付き合えねえとか…ぐじぐじ考える時間があるってことはよ、無駄な余裕がありすぎんだ。人生なんてよ、所詮思い通りにゃならねえもんなんだよ」
「…そんなもん…ですか?…」
「そんなもんだ…」

第4章につづく

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