株式会社サイバースポーツがつくる、スポーツの在る世界 〜設立趣意書的ビジョン表明〜
会社を設立して今月いっぱいで一年が経とうとしています。
なぜこのタイミングで?というのがあるのですが、最近はいろいろ辛いタイミングもあって、少し設立当初の想いみたいなところを忘れかけてしまっていたところがありました。
なぜ、会社を起こしたのか。何を達成したかったのか。
その部分をこのタイミングでもう一度見直しておく必要があると感じ、このnoteを書いています。
少々長くなりますが、自分自身への戒めや備忘録として、そして少しでもこの想いが周りの人に届くといいな、と思って書いておりますので、読んでいただけたら幸いです。
スポーツって、なんだろう。
スポーツの本質とは、なんだろう。
この問いは、創業前からずっと考えていた問いです。
スポーツって、ぶっちゃけなくても生きていけます。
語弊を恐れずに言うと、生きるために仕事をしてお金を稼いだり、ご飯を食べたり、はたまた、警察官のように市民の安全を守ったり、消防士のように火災や自然災害時に人を助けたり、医者のように人の命を救ったり、そういう人間として生きる上での根源的で生命に関わる活動に比べたら、正直どうでもいい活動だと思います。
むしろ上記のような、安心安全な生活が保証されているからこそできる、高度な文化的活動と言えます。オリンピックが平和の象徴とされるのもこのためだと思います。
じゃあ今でも紛争が行われている地域とか、貧困地域とかで全くスポーツが行われていないかというと、そうではなかったりする。
名だたるサッカー選手が、貧困を超えて誕生してきたというのは、わかりやすいスポーツにおける夢のあるストーリーの一つで、そこから考えても、スポーツの発展において、経済的文化的に高度に発達しているというのは十分条件であって必要条件ではないと言えます。
なぜ人は、スポーツをして、観て、熱中し、汗を流し、感動し、そこに夢をみるのか。
なぜスポーツが、人の生活に、これまで密接に関わっているのだろうか。
スポーツと自分
僕自身はたいして上手くはないけど、割と長いこと体操競技をやってきました。
幼稚園の時に体育教室に出会ったのをきっかけに、小学校で本格的に体操を始めたものの、途中野球に浮気をして体操から離れたり、アテネオリンピックの体操男子団体に感動してまた体操に舞い戻ったり、そうこうしていると(運良く)全日本インカレに出させてもらったりと、そんな体操人生を歩んできました。
特に英才教育とか、そういうのはなくて、普通の公立小中学校、県立高校、大学は工学部、そういう環境で体操をしてきました。
そんなこともあり、僕の周りの体操関係者は多岐に渡っていて、高校や大学で初めて体操を始めたという人もいたり、全日本級、世界選級の人もいたりします。
ついでに言うと、僕の大学時代の恩師は、元オリンピック体操男子団体金メダリストだったりします。
体操ももちろんそれなりに頑張ってはきたけど、それだけじゃなくて、普通に勉強もしたし、遊んでもいたし、体操一筋!と言う感じでスポーツとは向き合ってなかったと思います。ある種すごいふわっと、いい距離でスポーツと関わっていた人間だと思います。
そう言う形でスポーツと関わってきたからこそ、スポーツ以外の道も世の中にはたくさんあることを知っているし、むしろスポーツより大事なことの方がたくさんあることを知っています。(というかそういう風に耳にタコができるくらい言い聞かされてきました)
露わになりつつあるスポーツ界隈の闇
だから、昨今のスポーツ界隈における体罰問題とかパワハラ問題をみると、ほんとくだらないなと思ってしまうのです。(体操の問題はかなり身近なものだったので特に)
なぜならスポーツ至上主義的な雰囲気を感じてしまうからです。
スポーツは全く万能じゃなくて、どっちかというとホビーの一つでしかない。それなのに、人を殴ってまで指導して言うことを聞かせて上手くするなんて、どうかしていると。
もちろん、やっている選手自身がプロになるということやオリンピックにでるとか、そういう大望をもってやっている場合もあるから、そうしてまで上手くなりたいという気持ちはわかるし、やっている選手としての気の持ち方はそれくらいでいいのかもだけど、どっちかというと教える側に対して、殴らないと上手くしてあげられないなら教える才能ないと思うし、もっと言うと、教え子達にはもっと他に教えてあげるべきことあるんじゃない?と思うのです。
さらに、主に教育現場で用いられる「部活動」や「クラブ活動」と言われるものにおいて、過度に教育的効果を押し付けてくる人は、すごく嫌いです。問答無用で嫌いです。
いわゆる競技としてのスポーツと、教育カリキュラムとしての部活やクラブ活動は明確に分離されるべきだし、そもそも後者の方は僕はあまり信じていないです。
いろんな選択肢や可能性を提示してあげて、それでもその中からスポーツをやりたい!と思ってくれる子供達がいた時に、上手くなれる環境、楽しくやれる環境、その相手は子供だけに限らず、スポーツを極めたい、楽しみたいと思う人に対して、指導というソフト面も含めた、それぞれの目的に応じた適切な環境提供が必要だと思います。
上記の競技スポーツと教育的側面のゾーニングなども含めて、そういう構造的な提案も必要だと思っています。
大人になると、ここに「健康増進的」「生涯スポーツ的」側面も加わってきますね。そういう適切な環境提供。
それこそが僕たちスポーツに関わる大人の役割なのではないかと思うのです。
株式会社サイバースポーツの設立趣意とビジョン
いろいろな話がごった煮な感じになってしまいましたが、ここからが本題です。弊社、株式会社サイバースポーツとしての使命、設立趣意について。
上記の「適切な環境提供」という部分、とりわけ「お金」の部分が、僕が一番大切にしているところです。
前述の通り、僕はスポーツより大切なことがあると思っているし、無理してやるものではないと思っています。だけど、純粋にスポーツをやりたい、上手くなりたい、楽しみたい、という人に対しては、分け隔てなくスポーツに関われる環境を作りたいと思っています。
特に、経済的理由でスポーツを諦める人を無くしたい。
それは、子供でも、大人でも、アマチュアでも、プロでも。
だから、スポーツにおける新しいお金の流れを作りたい。
お金がなくても、お金が潤沢にある人と変わらないような環境でスポーツができる仕組みを作りたい。
そう思ったのが、株式会社サイバースポーツを作った趣意です。
僕も実際、野球をやっていた時代、(僕の家は父が会社経営をしていて、ちょっと経済的に苦しいときもありました)みんながすごくいいグローブを使っているのに、なかなか同じようなグローブを買ってもらえなかったときもありました。
やっぱりその時は悔しかったし、劣等感も味わいました。
僕の体験は、まだまだ幸せなものだと思います。
でも、周りには経済的理由で選択肢を狭められて、自分の才能や可能性を最大限活かせない人も見てきました。
スポーツ全体のマクロの視点だけでなく、もう少しミクロな、種目による経済的格差も存在します。マイナースポーツなどは、慢性的に種目全体として経済的ハンデを背負っています。
だからこそ、僕として、そして株式会社サイバースポーツとして、
“スポーツをやりたいと思うすべての人が、経済的な理由で諦めたりしないで済む環境、構造を作る”
というビジョンを掲げています。
今後の展望
2019年4月に創業して1年間、とにかく走ってきました。
上手くいっているかというと、なかなかそうとも言えない気がします。
だけど、もう少しで2年目を迎える今、改めて設立趣意やビジョンを整理してみて、頑張る意義はまだまだあると思い直すことができました。
2年目、まずは子供達にフォーカスして動いて行きたいと考えています。
子供達が、やりたいスポーツを経済的理由で諦めたり制限されたりしないような、そんな環境を作っていくために仕込みを進めて行きたいと考えています。
詳細はまた後日、noteにでもまとめようかなと思っています。
最後に
これを書いている今日は2020年の3月10日。
明日は3月11日。
東日本大震災から9年が経ちます。
僕は大学3年生でした。
僕は新潟県の長岡市というところが出身です。
出身地の長岡市は、新潟県中越地震、中越沖地震で被災しました。
震度6強の揺れでした。
幸い、家は一部損壊で済み、家族もみな無事で大事には至りませんでした。
中越地震から数ヶ月経った時、仮設住宅が建てられ、被災した方々が住み始めました。
僕は大学時代、建築学を学んでいました。
大学4年の時に在籍していた研究室では、中越地震で建てられた仮設住宅に関する研究が行われていました。
当時の仮設住宅は、隙間風があったり、断熱性能も悪く、冬は寒く、夏は暑い、とても住み良い場所とはいえませんでした。
そんな仮設住宅で、いかにより住み良くするか。
仮設住宅団地では、実際に仮設住宅に住む方々によって、様々な工夫がされていました。
当時の研究室では、それを「仮説のトリセツ」としてまとめて、他の仮設住宅団地に情報共有する、という取り組みを行い、反響がありました。
そして2011年3月11日、東日本大震災が発生。
その年の4月、僕はその研究室に入室し、「仮説のトリセツ」を東日本大震災に応用するための研究に携わることを決めました。
その関係で、大学4年生の時は毎週土日に、宮城や岩手、福島と、特に被害の大きかった東北3県を回るという生活をしていました。
最初に閖上の海岸を見た時、なんだか頭が空っぽになったのを思い出します。
家の基礎らしきものだけが残り、瓦礫の山が積まれ、海風が吹いている、そんな光景でした。
実際に被災して仮設住宅への移住を余儀なくされた方々に何度もお話をお聞きして、被災間も無い土地で、自分の卒業のための論文調査をする。
かなり複雑でした。
当時の活動が、少しでも役に立っていることを願うばかりです。
そのような背景もあり、3月11日は、僕にとっても分岐点になった日です。
3月11日を前に、このnoteを書いていることに、些か運命めいたものを感じずにはいられません。
今日は雨でした。
家でベートーヴェンのピアノソナタを聴きながら、このnoteを書いていました。
1年後、3年後、もっと先の10年後、このnoteを見返す時に、今日の設立趣意が残っているか、このビジョンが達成されているか、一つのモノサシになることを願って。
2020年3月10日
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