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カーコラム「参加型モータースポーツ専門誌 " Speed Mind(スピード・マインド)" の想い出」

 毎年、F1日本GPが開催される度に思い出すことがある。

 鈴鹿で初めてのF1日本GPが開催された同じ年の1987年11月1日、自動車系出版社の名門・山海堂より一冊のモータースポーツ専門誌が創刊された。

 その名は " Speed Mind(スピードマインド)"

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 当時、山海堂にはオートスポーツと双璧を成すモータースポーツ専門誌 " オートテクニック " があり、スピードマインド(以下スピマイ)はその別冊として発行された。

 1987年当時、日本はまさにバブル景気真っ只中。新卒の新入社員でも、クルマを買うのに平気で300万円以上のローンが組めた良き時代だった。

 世の中総中流時代、誰もが経済的な豊さを謳歌し、それに伴う旺盛な購買欲により、それまでは一部上流並びに特権階級だけの趣味・嗜好だったものも、一般庶民のレベルにまで浸透しつつあった。そのいい例がクルマであり、モータースポーツであった。

 70年代後半から始まった日本車の劇的な進化は、日本の経済力が頂点に達した80年代には名実ともに世界一のレベルに達し、それに伴い、様々なバリエーションの魅力溢れるクルマ達が次々と世に送り出された。

 その中には改造範囲が狭く、ノーマル状態のポテンシャルがそのまま競技車としての性能に直結するナンバー付き競技のベース車両と成りうる可能性を秘めたクルマも数多く存在した。

 絶頂とも言える日本の好景気に支えられた消費者の購買力の向上、同じく絶好調の自動車産業が送り出す魅力溢れるクルマ、この2つの要因が結びついた時、これまで高嶺の花、お金持ちの道楽と諦めていたモータースポーツ参加への敷居は一気に低いものとなった。

 そうした社会情勢の変化を敏感に感じ取り、オートテクニック、オートスポーツ、レーシングオンといった既存のスペクテーターズマガジンとは対極の、自らステアリングを握り、モータースポーツに参戦する参加型モータースポーツマガジンの時代が到来することをいち早く予見していた男がいた。

 山海堂、元オートテクニック編集長の飯塚昭三氏である。

 飯塚氏は、当時の社長である尾島氏に参加型モータースポーツ専門誌の新規創刊を進言、「同じ会社でモータースポーツ専門誌が2誌あると広告が割れる」と難色を示す尾島氏を根気強く説得し、ついに了承を得る。

 思い起こせば創刊3ヶ月前の1987年8月。銀座数寄屋橋にある不二家ビルの4階ティールームで、飯塚氏から参加型モータースポーツ専門誌創刊の話を初めて聞き「副編集長やってほしいんだ」と言われた時の驚きは今でも鮮明に覚えている。

 自分もO型、飯塚氏もO型、こうしてアバウトなO型同士の新雑誌創刊への苦闘の幕は切って落とされたのである。

 創刊日まですでに3ヶ月を切り、台割もろくに出来ていない状態、しかも圧倒的なマンパワー不足。

 山海堂の他部署のリソースを強引にかき集めた傭兵部隊に指示を出しながら、自らは本郷菊坂5-5-18、水のオレガノ本社ビル横にある山海堂本社ビルに泊まりこみ、一週間に2日程度しか自宅へは帰れぬというタコ部屋自主監禁状態。さらに、そこから取材に赴くというまさに遊撃編集部(笑)。しかし、そんなかんなでもなんとか11月1日の創刊にこぎ着けた。

 創刊立ち上げから5年間、60号まで副編集長を務めさせていただいたが、思うところあり部下に禅譲した。

 その後、映像、ITと様々なメディアでコンテツビジネスを立ちあげてきたが、その根底には常にスピマイがあった。

 極限の世界でコンマ一秒の争いを繰り広げるモータースポーツのピュアなエッセンスを、走りを志す一般読者に分かりやすく伝えたい。

 軽薄短小、内容のないつまらないクルマ情報、つまらない評論家が溢れる今だからこそ、スピマイのような無骨だか純粋な走りのバイブルが必要なのではないのだろうか?

 幸い、情報伝達は紙媒体だけではない。デジタル時代、メディアの形は無限大だ。

 形はどうでもいい、要は中身。濃く、有益なコンテンツをいかに正確に、そして分かりやすく伝えるか。

 それがDTP屋じゃないエディター、編集者の力量、センスなのだ。

 今だからスピマイ、もう一発やってみっか? と思う今日この頃である。

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鳴海邦彦 / KUNIHIKO NARUMI OFFICIAL
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