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カーコラム「1987年 三菱E38A型ギャランVR-4 ラリーアートデモカー取材の思い出」

 それは1987年11月1日の第一回鈴鹿F1GPを二日後に控えた10月30日のことだった。

 文京区本郷5-5-18、本郷菊坂オレガノ本社隣の山に海にお堂の堂と書いて山海堂本社5階、尾島社長の執務室隣の会議室を不法占拠(?)したSpeed Mind仮設編集部に、三菱自動車のモータースポーツ部門であるラリーアートからCMSC(コルトモータースポーツクラブ)会員向けに発表されたばかりの新型車ギャランの競技ベースモデルE38A型ギャランVR-4にラリーキットを組み込んだデモカーの試乗と説明会を行うのでぜひ取材してほしいとの要請が来た。場所は千葉県のオートランド千葉第。

 ちょうどその時期は、夏頃から始まったスピマイ創刊のドタバタが一段落し、11月1日の創刊に間に合ってほっと一息の頃だった。

 さて、カメラマンを手配しようと、片っ端から電話をすれど猫も杓子も、皆さん天下の一大事である鈴鹿F1に馳せ参じ、東京はスッカラカンの菅直人状態。

 困ったぞ~と思いあぐねていたら、例によっていつもハイテンションな「い~ずかです!」こと飯塚昭三大編集長から「鳴海君! カメラマン見つかったぞ。でも外人だけど」「???外人」。

「あのさ、オーストラリアのモータースポーツカメラマンでさ、ビル・フォーサイスっていうのがいてさ、彼がF1取材のために来日したんだけどさ、オーガナイザーのプレス枠が厳しくて、オーテク編集長(あえて名前は伏せる)が、クレデンシャルの申請してくれなかったんだって。だから仕事なくて暇してるんで、手伝ってもいいっていってくれてるらしい。因みにビルは、難波くんの家に下宿してるから、当日難波くんの自宅に迎えていってあげて。」とのこと。

 ということで、取材当日の早朝、我が愛車1986年型AE86トレノGTジムカーナ仕様(ダンパーはF・Rとも森田勝也選手の監修によりセッテイングされた" らしい " POTENZAジムカーナダンパー『減衰力固定』、通称「ポテコテ」、スプリングはAE86の純正で一番硬いGT APEXのエアコン装着車用、それに純正準拠の中では最も硬度があったマジョルカ製アッパー&ロアリンク用強化ブッシュ、これもまたゴム硬度を上げたTRD製のフロントテンションロッド強化ブッシュ、サンタナのストラットタワーバー組み込み)でバビューンと難波巨匠邸に出向いた。

 ピンポン鳴らして、到着を告げ、ご自宅前で待つこと暫し。口元に髭を蓄え、バカボンのパパ(失礼)とT-SQUAREの伊藤たけしを足して2で割ったような精悍なお顔立ちのラリー界の巨匠カメラマン難波貞文氏に続き、どでかいオージーオヤジが玄関から登場した。

「おはよう、こいつがビル。よろしく」と難波御大。

 私「ナイスチューミーチュー」 ビル「ナイスチューミーチューツー」

 羽のように軽い挨拶(お互い日本語も英語に不自由)を済ませ、機材をトランクルームに入れると、さっそく我がAE86に乗り込む御大とビル。??なんと難波巨匠がフロントシートを倒し(2ドアGTですから)、2メートル近い巨漢のビルを狭いリヤシートに押し込んでいるではないか!!ビルはと見れば、何も文句を言わず、まるで中国雑技団の軟体芸か、タコツボに入り込むタコのように、四苦八苦しながら巨大を狭い空間に滑りこませている。オージーとて一宿一飯の恩義には背けない。

 ゆったりと助手席で寛ぐ難波巨匠をとタコツボ、否、狭い後部座席に収まったビル・フォーサイスを乗せ、環八から首都高、京葉道路経由で一路オートランド千葉第へと向かった。

 道中、タコツボ、否、後部座席のビルはひたすらしゃべり続けているが、難波巨匠はほとんど無視。挙げ句の果てには「あいつの英語はオージーなまりで聞き取りにくいんだ。おいビル! もっと正しい英語でゆっくりしゃべりなさい!」と日本語で説教をかますしまつ。

 そんなこんな楽しい道中を経て、オートランド千葉に到着。ラリーアートの面々が出迎える中、コースの下見をかねて撮影ポイントを探すビルをそこにおいて本部へと戻る。

 そこには、例によって、髪の毛一本乱れぬ完璧なズラのようなヘアスタイルのマタンキ、失礼、三菱ラリーチームの総帥にして総監督、森羅万象を司る木全巌氏がスマイリー小原のような笑みを浮かべて待っていた。

 例によって、まさに「立て板に水」の如く、ひたすらVR-4とラリーアートのラリーキットの優秀性を語り終えるとCMSC会員の説明会へと去っていった。

 その頃ビルはといえば、オートランド千葉第二のコース内の盛り山の上で、ひたすら山内伸弥選手のドライビングによるVR-4のデモランをご自慢のニコンF3に収めていた。

ふと見れば、やはりカメラマン根性がうずくのか難波御大も短めのタマ(EF35-105)をつけたCanonT90(当日、自分で撮るために編集部から持参した)でパシャパシャと。撮影から戻ってきたビルがそれを見て「Canon ? toy camera 」と揶揄した。それを聞いた難波巨匠は一言「うるせい!」もちろん日本語。

 ひと通り撮影を終え、資料をもらい、午後2時を少し回ったあたりにオートランド千葉第を後にした我々は、再び京葉道路に乗り一路東京へ。すると難波御大が、「悪いんだけどさ、俺とビルを青山か外苑あたりで降ろしてくれないか? 今晩これから秩父宮でオールブラックスのラグビーの試合があって、ビルと二人で観に行くんだよ」。そこで湾岸から首都高速経由で外苑出口に向かうことにした。

 クルマが湾岸線に入りやいなや、例によって間違った英語(?)でしゃべりまくっていたビルが突然「OH!! KAWASAKI!」と絶叫し、目をキラキラさせ始めた。??KAWASAKIのバイクなんか走ってね~ぞと思っていたら、どうやら高速の方向指示看板を見て興奮しているらしい。すると難波御大が「ビルは、まだ川崎のトルコ(現在のソープランド)のことが忘れられないんだな。よほど感動したらしいから」と笑いながら呟いた。さすがCool JAPAN、やはり日本はおもてなしの国である。

そんなかんなで外苑到着。二人を降ろし、一路撮影済みのコダクロームPKRとモノクロのTRY Xを回収して帰路についたのでした。

もう33年も前のお話でございました。

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