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カーコラム「WRCメモワール 91年サファリでデビューしたニッサンWRC復活の象徴 "パルサーGTi-R"」

 WRCは1973年に自動車メーカーのメイクス選手権として制定された。

 当然のごとく、それ以前にもビッグラリーはあったわけで、とりわけ日本人がよく知っているのはケニアのサファリラリーであった。それはナゼかと言えば、ニッサンのサファリラリー挑戦を映画化した『栄光への5000キロ』という石原裕次郎主演の映画(監督/蔵原惟繕、69年公開)が大ヒットしたからである。

 ニッサンは63年、サファリラリーに初出場。神奈川・追浜工場の走行実験のドライバーでもあった難波靖治と若林隆の二人がブルーバードで初挑戦、以来毎年のようにチャレンジを続け、ついに1970年、名車「ブルーバード510SSS」で総合優勝を手に入れた。

 ニッサンのサファリラリーを中心とするWRC活動は、今の全14ラウンドを戦うワークス・スタイルから考えれば、少し特殊であった。その基本はあくまでも走行実験の延長線上にあり、サファリラリーでのハードな走行がニッサン車の丈夫さ、信頼性に大きく寄与し、世界マーケットで「日本車=丈夫」というブランドイメージを生んでいったのである。

 だが、その反対に、サファリラリーに適したベース車両がない時には苦戦し、しばしばサファリも休む、ということになってしまった。そしてニッサンのWRC復活。そのマシンとしてデビューしたのが、小型なパルサーに2Lターボエンジンと4WDを組み込んだ「パルサーGTi-R」だった。

 このマシンがデビューするのは91年サファリ。でも、そのプロトタイプがケニアのサファリロードに現れたのは、90年のサファリだった。旧型のボディシェルを使ってはいたが、白いパルサーが実戦のコースに時々出現、ライバルとのタイム比較をしていたのである。

 そして、91年3月。シリーズ4戦目のケニアでパルサーGTi-Rはデビューする。今までの"追浜スタイル"ではなく、イギリスにつくられたNME(ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ)というWRCを専門とするワークス体制である。シリーズ4戦目という途中でのデビュー。それは、「ニッサンのラリー=サファリ」だったからである。

 今になって考えれば、2Lターボ・4WDというメカニズムでありながら、全長3975mm、全幅1695mm、ホイールベース2430mmは、コンパクトなプジョー206WRCより小さい。ニッサンの考え方は、「小型のボディにパワフルなエンジンと4WDを組み込めば、速い!!」だったのである。そしてその通りテストデータでは速かった。そのため、多くのニッサン・ラリーファンが期待をもってサファリラリーの行方を見守っていた。

 デビューでのドライバーは、開発を担当してきたスウェーデン人のスティグ・ブロンキスト。それとニッサンが育成中の若手イギリス人、デイビット・ルエリン。それにサファリのマイスター、地元のマイク・カークランドの3台であった。

 しかし、ラリーが始まってすぐ、ルエリンが競技中の対向車と大クラッシュ。近くでサービスをしていた人を巻き込んでの大事故で、これで1台を失ってしまった。この年のサファリは5日間4335.36kmの戦い。デビューのパルサーは大苦戦で、この頃のサファリのトップマシン、ランチャ・デルタ・インテグラーレやトヨタ・セリカGT-FOURに、大きくリードされた5位と7位という結果だった。

 何よりも、ターボエンジンで大切なインタークーラーがエンジンの上部にあり、十分に冷えなかったことが、パワーダウンの要因であった。ニッサンWRC復活のマシンでありながら、同時にニッサンWRC撤退のマシンにもなってしまったのである。



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