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英語教育は必要?

こんにちは。

たまに、「英語教育は必要なのか」といった記事を読むことがあるので、思うところを書きます。

私には、正直、これは議論する必要もないなと思っています。これからは、英語を使えるということはプラスではなく、「ミニマム(必要最低限)」だと考えているからです。もちろん、日本で英語を使う必要がある人が1割にも満たないことや、英語よりも母語を、もしくは英語よりも「人に伝えることができる何か」を伸ばすことの方が重要だという意見も分かります。無論、自分のアイデンティティーや文化との繋ぐ役割を担うのは母語であるし、専門分野を深く極めることは必要でしょう。実際、私が海外を渡り歩いて来れたのも、英語だけでなく自分の専門分野という両輪があったからです。

ただこういった議論の時に、何故「ゼロサムゲーム」で考えてしまうのだろうといつも不思議に思ってしまいます。英語を学ぶことが他の勉学を疎かにしてしまうという流れになっていますが、学校で教えることにしても、家でできる事にしても、もっと生活を効率化して、英語を学ぶ時間を生み出せばいいのではないかと思うのです。毎日10分、20分の時間を生み出せないとは思えません。若い時分から英語というものに触れる機会が「普通」にあることが、今の世代にとっても、これからの世代にとっても必要だと強く思います。「他の教科の代わりに」する必要はありません。ほんのちょっとだけ、「Additional」で生活の中に盛り込んでいくことが大切なのです。

学校で、英語を教えることができる人が少ないということもあるかもしれませんが、学び方なら教えることはできるでしょうし、英語を教えることができる先生がリモートで授業を行うことも可能でしょう。そういった良い授業を録画して配信することも可能です。方法は色々とあります。

英語は、海外に行かなければ学べないと思っている人もいます。それは、誤解です。英語は日本で学んで「使える」ようになります。私も日本生まれ、日本育ちですが、英語は日本で使えるようになりました。海外に行ったのは、その技能を「仕上げる」ためです。ただ、言語は数か月で「使える」ようにはなりません。言語の習得には時間が必要なので、少しずつ積み上げていくことが必要なのです。ただ時間さえあれば何とでもなります。

例えば一日15分だけ時間を取るとしましょう。すると1年で91.25時間。小学校高学年から大学卒業までの12年間でで1095時間という膨大な時間を作り出せます。そして、英語を使えるようになってくると、自ずと英語での情報に目が向くようにもなります。そうすると、上達度は加速していきます。

日本は今後少子化が進み、多くの労働者を海外から呼び込まないことには社会を回していくことが難しい時代がくるでしょう。日本とは国の大きさも違いますが、シンガポールは生き残るために海外から人材を呼び込み、アジアの中で金融ハブという地位を確立しました。英語を公用語としたのも、その政策の一環でした。

日本で働きたいという外国の人も多いかもしれませんが、「言語(日本語)」が大きなハードルの一つとなっているのも事実です。日本の労働市場で働く日本人は「日本語」という言語に守られているという事を指摘する人もいるかもしれません。ですが、そうではないと思います。海外に出てみると分かりますが、日本の賃金レベルは世界的に見て、もはや高いものではありません。そしてまだ低い東南アジア諸国の賃金は、どんどん上がってきています。このままでは、きっとそう遠くない将来追い抜かれてしまうことでしょう。ちなみに、OECD35か国の平均賃金だけ見ると、1997年には3位だった日本は、2019年には20位に落ちています。デフレもありますが、この下降トレンドが続く事は良いことではありません。国としての競争力が落ちれば、経済も落ち込み、国内の格差も広がります。
グローバルレベルで見て、日本だけガラパゴス島のように独自路線だけで走りきることができるでしょうか。数値だけ見てみるとそうではないようです。観光産業という側面だけでなく、もっと海外からの人の流入を他分野においても促し発展を目指していくことが日本にとっても、そこに住む日本国民にとっても必要だと思えるのです。

国レベルで見ただけでなく、個人にとっても、英語力の向上はプラスをもたらします。英語を話すことができる人口は日本語を話す人口の10倍以上います。英語という言語を獲得することは、もっと広い海にアクセスできるツールとなります。経済がグローバル化しているというのはよく言われている事ですが、コロナの影響でリモートワークは加速し、ビジネスにおける国境の概念はさらに薄まっていくかもしれません。日本に居て、日本のマーケットに直接アクセスできる日本人という「プレミアム」は常に持っておくことができますが、世界レベルでの競争相手の数は増えていく一方でしょう。サバイバルのためにも、この技術を獲得することは必要不可欠だと思えます。

そういった時代に私達も私達の子供世代も生きています。

同時翻訳機械が作られれば大丈夫という意見もあります。この同時翻訳機ですが、こっちで働いていてあまり話題になることはありません。それは、ただ単に必要ないからです。シンガポール人も、マレーシア人も、フィリピン人も、ブルネイ人も、タイ人も、ベトナム人も、仕事ではみな流暢な英語を話します。先日、あるテクノロジー系の会議に参加する機会がありました。様々な会社が独自のテクノロジー技術を使ってビジネス拡大を図っていて非常に興味深かったのですが、日本から出店していた会社の社長のプレゼンのみ通訳されていました。プレゼンなので、前もって準備はできるでしょうし、海外の顧客に訴えかけるという目的もあるのに勿体ないなと感じました。同胞としてそんな印象を持たれること自体が悔しいなと思ったのです。

状況は10年前とあまり変わっていないように思えます。ただ、何度も言うように英語は習得に時間がかかるだけで、ある程度のレベルまで引き上げること自体は難しいものではありません。ほんの少しの努力を習慣化していくことで、状況を劇的に変えることは可能だと信じて疑いません。

資本主義に行き詰まりを感じるようになった今、競争だけが全てではないと思います。ただ、生き残るためのツールの一つとして、英語を習得していくプロセスを生活の中に組み込むことは決してマイナスにはならないと思います。



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