読んだ本も見た映画も、内容は覚えていないけれど“印象”はきちんと引き出しにしまってある。


記憶力の悪さには、自信がある。

まったく自慢にはならないし、徳はない。困ることの方が多いからどうにかしたいと思ってきた。

そして数十年たった現在も、もちろん記憶力は悪いままで生活をしていて、仕事もしている。

最近になって気がついたことがある。記憶力を悪くした原因のような記憶。

それは何かというと、小学校4、5年生だと思うからたぶん10歳頃の記憶。

小学校の教室にいて、前の方で黒板に向かって廊下側、右手の方に座って授業を受けている私。社会科の授業で、机の上に教科書を立てて広げて先生の説明を聞いている。

そこの挿絵に、町の商店街が描かれていて、授業は街の仕組みのようなこと、人々が働いて社会が成り立っているような話だった。

その時、えも言わず、いやあな気持ちがした。

理解ができないというか、社会が認められないというか、バカバカしいんだけど、そんな感じで自分の中から強い拒否の感情がでてきたのです。

単にバカだったのかもしれません^^


そして、もっと強烈な記憶が、歴史の授業です。

記憶が悪すぎると書き始めた割には、幼い時の記憶は薄れずにしっかりあります、細切れだけども。

(ああ、体験の記憶は割と覚えている方です。)そっか。


歴史の授業が、昔のことを言っているのは理解できるのだけれど、見てきたわけでもない先生が真剣に本当のことのように話しているのが、不思議でしょうがなかったんです。

これは、丸ごとキリストを信じるように事実として信じなくちゃならないんだろうか?(日曜学校に行っていたので・・)


本当に馬鹿げているとは自分でも思っているけれど、

歴史を信じることができなかったし、思い切ってもっと言っちゃうと、地球上の他の大陸が存在していることさえ本気では信じていなかった。


目の前にないものを、どうやって本気で信じたらいいんだろう?

生まれ持った性質だとは思うけれど、まだ経験値の少ない子どもの素直な感じだったのです。まあ、今もあまり変わらないのだけれど、面倒だから、そんな感受性は薄めようとして生きてきました。

で、話を戻して社会科の授業で、自分の外の世界とのギャップと、歴史という時間との違和感でその時出した答えが、、、

「歴史なんか信じない」

寺山修司みたいだけど 笑


もっと、アバンギャルドだったのは、もう笑うしかないけれど、「これを私の頭の中に入れたら危ない」とさえ思った。

特に歴史に関しては、しつこいようだけれど、伝言ゲームのように違って伝わっているかもしれないし、古文書みたいなものはウソが書いてあるかもでしょう?

あまりにも子供っぽいですね。

そこで、記憶形の勉強は意識的に絶った。全く。入れなかったんですよ。


つまり言いたいことは
子どもの時に記憶する、暗記するという勉強を怠ったから、記憶するという脳の部位が固まってしまったのかな、という結論です。


本をワクワクドキドキ読んでも、どんなに感動しても、内容を記憶できない。印象は鮮明に覚えている。映像でもなく抽象概念の言葉抜きという感じではあるけれども、それぞれに、だからあの本とあの絵の印象は同じ、ということで説明することができる不思議な現象が起きるのです。

自分にしかわからないから、役立たなけれど、それは確かなことだからこれからも印象を私の栄養素として、本を読んだり映画を見たりするのだと思う。

ヘタすると2回読んでも記憶に残らない。いつもワクワクしてラストはどうなるんだろうと思う。

単純に娯楽だからかな?




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