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「オオカミ少女」を読んで考えた

作られた話

 教育関係や心理学で、生育環境の重要さを説明するのによく引用されるオ
オカミ少女、アマラとカマラの話。これは、創作されたものだった。

 この話が世に広まった後、その真偽を調査した人がいた。調査の過程で、
当時のインドの地方紙に載った記事が発見された。それによると、虎の穴の
中にいる二人の少女を村人が発見したと記されている。オオカミ少女、アマ
ラとカマラはオオカミと共にいたわけではなかったし、彼女らの記録を取っ
たシング牧師によって発見されたわけでもなかったのだ。

 残された写真には、疑わしい点が多く見受けられる。例えば、四足歩行や
木登りなどの演出である。

 以上は、『オオカミ少女はいなかった』の1章の概要。この本では、オオ
カミ少女の件に続き、サブリミナル効果、言語相対仮説、知能遺伝説におけ
るデータ捏造事件などが採り上げられている。否定されたのによみがえり、
本当であるかのようにずっと語り継がれてきたこれらの学説を振り返り、そ
の理由を考察している。

 著者は以下の原因を指摘している。孫引きされ作成される心理学の教科書
と、不確かな逸話を根拠とする学者の存在。そして、視聴率優先のメディア
の功罪である。

「信じたいものを信じる」のが人間

 著者の示す原因は確かにあるだろう。個人的には、もう少し遡って人間の
心に焦点を当ててみたいと思う。

 信念は行動の指針だ。何をもって信じたのか、信じさせる出来事があった
のか。その根拠は人それぞれだろうから横に置いておく。そして、俯瞰的に
人間を観てみる。そうした時思うのだが、「信じたいものを信じる」のが人
間ではないかと。信じることによって、何をなすべきかの取捨選択が楽にな
る。より自信を持つことができる。自分という軸を確立するのに欠かせない
心の仕組みだと思う。

疑うこととは

 作られた話でも信じてしまうのが人間の性だとすれば、そのために間違っ
た選択をすることもあるだろう。そのような間違いを避けるためには疑う姿
勢が必要だ。ただし、疑ってばかりでは行動できない。疑心暗鬼に駆られて
は心が休まらない。信じることができることかと吟味するために疑ってみる
のが、正しいことだと思う。

二項対立を乗り越える

 見聞したことを、信じることができるものと疑うべきものに分けてしまえ
ば頭の整理はつきやすい。しかし、すぐ信じてしまうのも良くないし、疑っ
てばかりいるのも問題だ。やはり、鵜吞みにせず、ただ疑って閉め出すので
もなく、「そうかな?」という態度で中間の立場をとることが大切ではなか
ろうか。そのうえで、見聞を広め、学ぶという経験を続けることが極端に走
ることを防いでくれるはずだ。

信じることの本質

 「オオカミ少女」を読んで、その本筋から外れてしまうのだが、「信じた
いものを信じる」のが人間の性と思い至った。なぜ信じるのかという原因を
追求せず、むしろ「信じたいものを信じる」という観点から出発し、信じる
ことと疑うことがもたらす影響を考えてみた。

 物事をすぐ信じるのではなく、疑って捨てるのでもなく、その間に自分を
置くことが重要だと思う。

 信じるとは、自分が何かを受け入れる行為。どのように、どれくらいとい
うのは、疑いの心に左右される。信じるとか疑うとか極端な捉え方に偏らず
、見聞を広め、学ぶという体験を続けることが自分の軸をつくっていくと思
う。

参考図書

・『オオカミ少女はいなかった』 心理学の神話をめぐる冒険 鈴木 光太郎
新曜社
・増補 オオカミ少女はいなかった: スキャンダラスな心理学 鈴木 光太郎 
ちくま文庫

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