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東京万景 上大崎 鷹美術アトリエ村

昨日は、目黒駅近くの事務所で打ち合わせのあとにそれほど暑くなかったので隣の白金台駅まで歩いた。途中に、22歳の頃に自宅があった神奈川県大和市から田園都市線つきみ野駅(当時は中央林間まで開通していなかった)から電車を乗り継いで目黒(といっても品川区の白金台にあった)の「鷹美術アトリエ村」まで通った。

群馬の市立大学を中退して働くこともなく、ボーっと引きこもりのような生活をしていた僕は、あまりにも怠惰すぎて死んじゃいそうだったので、漫画を描いてみようかなんていい加減な考えで、漫画を描き始めた。漫画といっても好みの写真を見ながら一コマずつカリカリと描いきはじめた。ストーリーなんかどうでもいいし、とにかくカリカリとペンを動かす毎日だった。

小学生の頃から「漫画家にでもなるか」ってテキトーに考えていたからケント紙、製図インク、ホワイト、Gペン、丸ペン、カブラペン、烏口に、面相筆、さらにインクが紙につかないように片方をマッチ棒で持ち上げた定規に羽箒といった道具は小学生当時から持っていた。それらを机の上に画板を斜めに傾けて載せていた横にズラリと並べていたのだが、実は漫画なんて一回も描いたことがなかった。

その道具が12年経ってから実稼働することになったのだった。しかし、絵が下手だった。絵を教えてもらう師匠もいなかったから、好きな水木しげるさん、つげ義春さん、大友克洋さんの絵を見ながら描いた。奇妙な絵ができあがった。「これじゃあダメだな」と思っていたときに、新聞に「鷹美術アトリエ村」の広告をみつけた。

「ああ、絵を教えてくれるんだな」と考えて電話して即、入所となった。試験があるわけではなく誰もが入れる画塾のようなところだった。

それでも神奈川県の大和市の自宅からは、徒歩で田園都市線のつきみ野駅まで20分歩いて、駅から二子玉川駅で乗り換えて大井町線で大岡山駅、そこから目黒線に乗り換えて合わせて2時間半かけて毎日通った。

目黒駅から鷹美術アトリエ村までは上大崎口から歩いて15分ほど。白金の谷底に密集する住宅地の中にあった。その縦長の建物は、殺人事件が起きる小栗虫太郎の黒死館のような異様さを住宅地に放っていた。

鷹美を主宰するのは山口鷹という画家で、その建物の持ち主でもあった。建物は、地下に食堂、1階が受付とクロッキー部屋、2階から上が複雑な形状をしていて、記憶に残るのは、螺旋階段のような部屋の土台に、それぞれの作業室がその土台上に区切られて載っかっているといった奇妙さであった。

普段はあまり人の出入がない鷹美も、休日ともなれば、1階クロッキー部屋に人が溢れた。全裸のヌードモデルがポーズを取って、老若男女の人々がその周りを取り囲んで鉛筆を動かしていた。

僕は2階にあった石膏デッサン室で毎日鉛筆デッサンをしていた。あまり人がいなかったが、40代くらいのおじさんと若い美大受験生が真面目にデッサンしていた。僕は石膏像を輪郭で捕らえることしかできなかったが、そのふたりはカタチを面で捕らえた的確なデッサンを描いていた。

鷹美には数年通ったが、いい加減な気持ちで描いていたので少しも絵が上手にならなかった。飽きてきたときに鷹美のエッチング画家さんがスポーツ紙「デイリースポーツ」のポルノ小説の挿絵の描き手を募集していると言うのでイラストを描かせてもらうことになった。それは2年続いたが、依頼主のフリーライターが、僕以上にいい加減な人だったのでやめてしまった。

その頃には二子玉川のレコード屋でのアルバイトも始めていて、鷹美にも行かなくなってしまった。鷹美でもレコード屋でもいろいろなことがあったが、年をとってくると次第に記憶が薄れていくので、困ってしまう。

白金台の住宅地。五反田と目黒の間の谷間に密集しています。

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