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湯島の夜「アリ・アスターの奇作」

前回も触れましたが、潜在意識は人間の様々な行動に結びついています。人を殺した人が“まともな人”であれば、人殺しの罪に苦しみ、殺した人の幽霊を見るのです。まともな人でなければ、人殺しに罪を感じませんから幽霊を見ません。あるいは最愛の人が亡くなって、生き返ってほしいと強く願うあまりに、潜在意識の中に最愛の人の姿を焼き付けてしまったら、似たような人を見ても、あるいは電柱や木々を見ても、それが最愛の人に見えてしまうかもしれません。それも幽霊ですよね。

また、モノに愛着のある人が死んだとします。その人がモノに愛着があったということを知っている人は、もしかしたらそのモノに死んだ人が重なって、モノが動いたり話したりするのを感じるかもしれません。それが妖怪になるのかもしれません。それが物の怪(妖怪)と呼ばれるものですね。

幽霊や妖怪を見てしまうかもしれない、あるいは見てしまうという恐怖は、潜在意識に結びついています。

さて、潜在意識と関係あるのかどうかわかりませんが、またホラー映画を2作品観ました。「ヘレディタリー/継承」(2018)と「ミッド・サマー」(2020)です。両方とも同じアリ・アスター監督によるものです。

「ヘレディタリー/継承」

ヘレディタリー/継承は、アリ・アスター監督の長編映画初監督作品です。初っぱなから不気味な空気に覆われています。この雰囲気はM・ナイトシャマラン監督や日本の黒沢清監督に近いモノがあります。

主な登場人物は、アニー・グラハム(トニ・コレット)、スティーブン・グラハム博士(ガブリエル・バーン)、ピーター・グラハム(アレックス・ウォルフ)、チャーリー・グラハム(ミリー・ジャピロ)という家族です。

冒頭、以下のようなテロップが流れます。同時に怪しくプログレッシブな音楽が流れます。

2018年4月3日、長い闘病の末エレン・リーは78歳で娘アニーの家で死去。夫と長男は既に故人。娘の夫はスティーブン・グラハム博士。孫は、ピーターとチャーリー。葬儀は土曜午前10時から行われ、スプリング・ブロッサム墓地に埋葬される。

窓から見えるツリーハウス。窓はドール・ハウス製作のための部屋の窓です。カメラは、窓から部屋の中に置かれたドール・ハウスの中のひと部屋に寄っていきます。キューブリックの「シャイニング」の迷路シーンを彷彿させます。

作品中では、チャーリー・グラハム役のミリー・ジャピロの顔が…当たり障りのない表現だと“個性的”過ぎて、初めは特殊メイクかと思ったほどでした。人の見た目のことを書くと、怒られちゃいますが、実におっかない顔なのです。しかし、それが物語の恐怖感に一役買っているのです。トニ・コレットも彼女に負けず劣らずもの凄い表情で恐怖感を助長します。恐怖感といっても、全体に言い知れぬユーモア感が充満しています。これは何だろう?と思うと、日本の妖怪に近いんですね。怖がらせる方法が滑稽ではないですか? 幽霊は怖いですけど妖怪は怖くない。多くが笑える話なんです。ま、それに近いんです。

内容はタイトル「ヘレディタリー(遺伝性)」通りで、その正体はペイモンという悪魔で、その血統維持のためのお話です。では、何事もなく、そのとおりに不要な恐怖シーン(それが悪魔継承のための条件であるとしても…)を省いて結果に結びつけばいいのに、ホラー映画である限りグチャグチャと物語が進むんですね。

「なんでそうなるの?」と、笑えるところもあるけれど、わけのわからない正体不明な恐怖表現は、凄くおっかないんです。

「ミッド・サマー」

アリ・アスターの長編2作目「ミッド・サマー」も、結局は、ヘレディタリーと同様の結末です。ミッド・サマーとは、スウェーデン語で夏至祭のことだそうです。ただし、前作のヘレディタリーは漆黒の闇の世界であることに対して、ミッド・サマーは眩しいほどの光に満ちた白昼(内容のことではありません)の闇ならぬ眩耀の世界です。

考えたら、太陽は常に存在するわけです。太陽光が当たっているところは昼ですが、地球の影になって太陽光が当たらないところは夜なんです。ただそれだけの違いです。実は、昼も夜も恐怖は同時?なのです。夜は闇に恐怖感が感じますが、実は昼間だって恐怖が存在するのです。

登場人物は、ダニー(フローレンス・ピュー)、クリスチャン(ジャック・レイナ―)、マーク(ウィル・ポールター)、ジョシュ(ウィリアム・ジャクソン・ハーパー)、ペレ(ヴィルヘルム・プロングレン)など。

ダニーには躁鬱病を患った妹がいて、それが不安材料となって鬱状態になってしまいます。そんな彼女は、恋人のクリスチャンだけが頼りです。クリスチャンの友人マークは、そんなダニーとの別れをすすめます。

そんな時にダニーの妹が、両親を巻き添えにして無理心中してしまいます。突然、家族全員を失ったダニーにクリスチャンは別れを切り出せません。

ダニーを元気づけようとクリスチャンはパーティへ誘いますが、そこで、ダニーは、クリスチャンが男友達だけでスウェーデンへ旅行する計画をしていたことを知ります。クリスチャンは、ダニーに秘密にしていたんですね。ことにダニーは傷ついて、クリスチャンと口論になります。クリスチャンはダニーも旅へ誘いました。

スウェーデンから来た留学生のペレは、90年に1度行われる夏至祭への参加をすすめます。その夏至祭が異常なんですね。

人里離れた村で明るい陽光のもとに行われ夏至祭の儀式は…。そして何のための儀式であるのか? 儀式の美しさに見惚れると同時に、そのグロテスクさ、その異様な美しさに僕は思わず再生を停止したくなるほどでした。

吉村昭さんが太宰治賞を受賞した小説「星への旅」は、集団自殺をする若者たちを描いた傑作ですが、なんだかそれに似ています。

似ているのはそれだけではありません。吉村さんの星への旅では主人公が断崖から飛び降りて目の前に近づく岩礁に激突死するまでの意識を描いています。

「ヘリディタリー/継承」のなかで、発作を起こしたある人物が、苦しみのあまりに走る車から顔を出して電柱に頭をぶつけてグシャっと潰れてしまう場面があります。「ミッド・サマー」でも儀式として、高い崖の上から眼下にある大きな岩に飛び降りて顔面が潰れてしまう場面があります。

死の瞬間というのは潜在意識が喪失する瞬間でもあります。潜在意識を失ってしまったら、一体どうなるのでしょうか? まさか、幽霊になるなどとバカな話にはならないと思うのです。潜在意識を喪失した幽霊…人を呪うことも人に恨みを返すこともできません。何せ、潜在意識を失っているのですから。



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