見出し画像

「加藤くん」(写真後方の四角い顔の人が加藤くんである。40年前)

戦後10年と少しを経て、東北の某港町で僕は生まれた。当時、父は全国展開していた建設会社の営業課長で、地方の支店の営業成績を上げることが仕事だった。支店の業績が上がれば別な支店に転勤するので、父はほぼ4年毎に僕たち家族を伴って引っ越してばかりしていた。

それが僕の放浪癖につながっているのだと思う。

断っておくが、放浪癖といっても、昔の文士のように本格的に文無しで野宿するような根性はないから、放浪のレベルは、かなり落ちる。人と接するのも苦手だから、尊敬する漫画家のように、無計画にぶらりと地方の民宿やボロ宿に泊まるという勇気もない。旅の宿のほとんどはビジネスホテルだ。

無計画に各駅電車に乗って、あてのない街で降りて、小ぎれいなビジネスホテルに泊まり、昼間は街中をぶつぶつ独り言を言いながら歩いて、またビジネスホテルに戻る…というのが僕の放浪なのだ。「それは放浪ではなく単なる旅行ではないか」と言われれば仕方がないが、このが僕の放浪なのだ。

そうだ、加藤くんの話だった。

加藤くんは僕の高校の同級生だ。高校は福島県の郡山市という小都市にあって、私立の工業高校だったが、僕は進学コースの普通科、加藤くんは建築科だった。互いに教室の建物は離れていて、毎日見かけることもなく、密接な交流はなかった。それでも、たまに全校クラスでの催しで顔を合わせることがあり、そこで言葉を交わすことがあったので人なつこい彼のことは記憶に残っていた。

3年が過ぎ、僕は高校を卒業すると、群馬県伊勢崎市にある私立大学に入学した。そこで両親の監視から逃れると仕送りで自由な引きこもりのような状態になり、3年間も無駄に時間を過ごすことになった。最近になって当時を思い起こすと、無駄とはいっても僕なりに青春を謳歌できた時間だったとは思っている。

そのうちにまた3年の時間が過ぎて、僕は大学を辞め、家族と一緒に神奈川県の大和市という街に移り住んだ。大学を辞めた僕に両親は「仕事を探せ」と言った。友人も知人もいない土地で仕事を探すのは大変だ。下手くそだが絵を描いていたので、デザイン事務所に面接に行った。面接する人たちは「絵を勉強した方がいい」と言って笑った。

当時は大手出版社による絵の通信教育を受けていたが、直接指導されるわけではないので絵は少しも上手にならなかった。そこで、目黒にあった鷹美術アトリエ村という画家が運営する美術研究所のようなところに通うようになった。

そこでしばらく絵の指導を受けたが、才能がないのか絵は少しも上手にならなかった。何回か通ううちに、絵描きや彫刻家の人々と仲良くなり、毎日遊びに来るような感覚で通った。そのうちに受付のアルバイトをしていた「目黒のモンロー」と自称するオカシな女性が好きになった。その女性は画家の愛人だったが、美大志望の若い男の子と結婚することになって辞めた。

また次の受付女性も短期間で辞めてしまった。僕はその女性にも恋をしていた。次から次に女性を好きになる。今になって考えれば、随分間の抜けた話だが、まだきちんとした恋愛経験を知らない当時の僕は、出会う女性を片っ端から好きになったのだ。絵の勉強をするための研究所は、“好きな女性に会いに行くため”の場所となった。

その女性は前衛舞踏家になりたいというガリガリ痩身の美人だったが、勤める会社の上司と不倫していた。その女性に片思いしている最中に、大学時代の後輩が遊びに来た。僕たちは渋谷のロシア料理「ロゴスキー」で食事をしたのだが、そのときエレベーターに、その女性と彼女の不倫相手の上司が乗り込んできた。純情だった僕は酷く傷ついた。それからすぐに彼女は辞めてしまった。

その次に採用されたのが高校の同級生、加藤君だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?