レッテルは人を何倍も自由にする

多くの人間は他人から「お前はこんな人間だ」と言われた事があると思います。

ある人は「明るい子」として生きているし、
ある人は「真面目な人」だし。
ある人は「変わり者」で、ある人は「ブサイク」としても生きているでしょう。


多くの人物はレッテル張りを嫌い、気にすると思います。
同時に恐怖していることなのかも。

まずはレッテル張りというのは何なのかについて考えていきましょう。


■「霊長類ヒト科」という生物の動物的本能による行為


詰まるところ、人間らしさというよりは動物らしい側面の表れでしかありません。
「誰誰がやばい!」
「誰誰が危険!」
「誰誰はこう!」

という共通認識を積み上げて行くことで、人というコミュニティは危険や凄いを共通認識として種の生存確率を上げているのです。

確かにそう考えると合点が行くものだと思います。

やばいとか危険とかの情報を自分が生きているコミュニティに周知させる事で全滅する事を回避するというのはどの種だってやっています。

ヒソヒソヒソ……。

身の回りで人の失敗や人間性がよろしくないときに陰口を叩く人を見たことありませんか?

陰口と言われるそれは、動物としての本能なのかもしれません。

■レッテル張りは最強の自由を手に入れる事が出来る

自由を手に入れるというのは語弊があるかもしれませんが、それ以上の言葉は見当たりません。

つまる所「デブ」は大食いであり、好きなものを食べる事が許されますし
「ちび」はあらゆる身体能力的な弱さを保証されますし、
「キモイ」やつはキモイ行動が許されます。

反面、評価の高い人物は高いほどそれらが許されなくなってくるのも事実です。

評価の高い人間は「妬み」の要因でもあり、自分らの地位まで叩き落とすことを望んでいます。誰しも努力して上を目指す方ばかりではありません。

ここで面白いのが「人は自分たちと同じレベルの人間を望むし、自らを救う神も望んでいる」という点ですがこれはまたの機会にするとして

様々な著名な人物はすぐにスキャンダルで抜かれてしまうのはそういう側面があるからでしょう。

他人の不幸は蜜の味。
だれしも自分こそ一番幸運だと考えていますし、その反動的な現実がより不幸に感じています。ですので、そういった時に自分よりも優秀な評価を受けている人物の不幸さはそういった反動的な現実を和らげる麻薬のようなものなのでしょう。

多くの陰口は、貴方がどれだけ善良な事をしたところで評価が著しく向上することはありません。
つまり狙わなくて良いのです。

■押し黙るか、貫くか

貴方の好きなように生きる事が許可されているに等しいのです。

勿論、その上で善良であることが貴方ならば、それもいいでしょう。
貫くのがつらいなら、平坦に生きる事も正しくあなたらしさです。

それは最初から評価の高い人物に比べると「妬み」という負がない分スキャンダルを狙われる心配も減りますし、高低差によってその特技はより評価されます。

貴方の才能がより正確に評価されることこそ、負のレッテルの最大効果なのかもしれません。

僕は僕に対するレッテル張りが好きなのかもしれません。
誰かに何らかのレッテルを貼られたとき。それが悪いものであるほどに嬉しさを覚えてしまうのです。

「つまりそのレッテルの範囲内なら何をやってもいいんだね」
と。自由が保障された気になります。

逆に良いレッテル張りは苦手です。
次の行動やその先の行動にどうしても責任を感じるから。

貴方は何かのレッテルにおびえているなら、少しだけ考え方を変えてみてはいかがでしょうか。

そのレッテルの範囲までは自由であることを。

勿論、彼らは低いところから追い抜かれるのも嫌います。
ですからそのコミュニティを飛び越えていく努力は凄まじさを必要とします。
見返したい人はここを目指すべきで、どうしてもそのレッテル張りを何とかしたいという貴方は「新しいレッテル」を貼られる努力をするべきなのです。

貴方はどんなレッテルを貼られたいですか?

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