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爪と牙①

 予選会の結果発表からあとは、完全に夕真の独壇場と言ってもよかった。

 彼は周囲の高揚もどこ吹く風といった風情でシャッターを切り、端から青スポのほかのメンバーへ共有したようだ。ウェブ版の記事はほとんどどこよりも先に更新されていた。

 彼の写真はその場で青スポの号外にも使われた。スピード感に溢れる荒い印刷の紙面では、土田コーチが宙に舞っていた。

「カッケエ……」

 弥生さんの運転する軽の助手席で、重陽は号外を何度も広げたり畳んだりしながら思わず呟いた。

「ふふっ。そうだね。みんなカッコよかった!」

 重陽の独り言を聞き、弥生さんも大きく頷く。どうも内容が食い違っているけれども。

「いや、それもあるかもですけどこの号外! こっちのが断然速くてカッケくないすか!?」

「あ、そっち?」

「はい! 夕真先輩、昨日までの内に何パターンか記事作って他のメンバーにデータ預けてたんですって。『当然の事前準備だ』って言ってましたけど、それ涼しい顔で当たり前にできるとことか……マ、ジ、で、カッケエ!」

 重陽が声にこぶしを利かせて熱弁すると、弥生さんは愉快そうに「あっはっは!」と声を上げて笑いハンドルを切った。

「それは確かに夕真くんもかっこいい! さすがはベテラン学生記者!」

「でっしょー!? 写真だって超超超カッコよく撮ってくれてたし! あの人は昔からずっと超カッケエんす!」

 こんな風に夕真のことを話しても茶化さずにニコニコ聞いてくれるので、重陽は弥生さんと一緒にいるのが好きだ。だから今も、祝勝会の買い出しに荷物持ちとしてくっついてきたのだ。

 駅伝部は当然のこと、たまたまではあるが重陽の専攻には女子がいない。それはそれで気楽だし毎日を愉快に過ごしてもいるが、男ばかりで生活しているとやっぱり、重陽にとっては息の詰まる話題で盛り上がる瞬間がある。

 そんな時、弥生さんにくっついて買い物カートを押したり包丁を握ったりしていると、心の中でこんがらがってダンゴになった糸がするりと解けていくような気がした。

 助っ人部隊と青スポ陸上班も交えて三浦ハウスで行われる祝勝会の献立は、やはり圧倒的な支持を得てバーベキューに決定した。幽霊部員ならぬ幽霊監督の先生やファンナーズハイの得意先から寄せられた「お祝い」のお陰で、予算はわりに潤沢である。

 助っ人や青スポのメンバーには、当然ながら女子もいる。とはいえ駅伝部員で理工系なのは自分と御科だけなので、先輩や後輩たちは普段から女の子と接する機会もそれなりにあるはずだ。

 けれど「八十二年ぶりの箱根駅伝出場決定祝勝会」かつ「三浦ハウスに女子がいる」という特殊なシチュエーションのためか、みんなどこか心ここに在らずというか、変にソワソワしている。有希に至っては「無理」と一言残して一人暮らしのアパートに帰ってしまった。

「えーと、飲み物は……全員に渡ってるな。じゃあコーチ! 簡単に一言オネシャス!」

 ノブタ主将は庭先に集まった各位の手に缶やコップがあるのを確認し、さっと腕を伸ばして土田コーチにコメントを促す。土田コーチは「こういうの、苦手なんだよなあ」なんて頭を掻きつつも、完全に目尻が下がりきっていた。

「あー……。まずはトラックアンドフィールドと青スポのみんな。協力してくれて本当にありがとう。それから今日走ったメンバー。本当にみんなよく頑張った! こういう形できちんと結果に繋がったのは、ひとえにみんなの頑張りと粘り強さの賜物だと思う」

 そこで一度、誰からともなくぱらぱらと拍手が上がる。重陽もまた、一旦テーブルにコップを置いて手を叩いた。視線を土田コーチへ戻すと、彼より先にその向こう側でカメラを構えている夕真の方に目を持っていかれる。

 ついさっきまですぐそこで「やった! サーロインじゃん!」なんて言ってはしゃいでいたとは思えない、真剣な顔つきだ。痺れる。

「有希のことは残念だったけどまあ、本大会に期待だな! 今日はしっかり食ってしっかり休んで、明日からまた気合入れて頑張ろう。ってわけで、お疲れ様でした! 乾杯!!」

 そんな音頭に合わせ、それぞれがそれぞれの感慨とともにコップや缶を高く突き上げていた。ワンテンポ遅れて重陽も自分のコップを掲げ、一息にコーラを飲み干す。

 心ここに在らず。は、おれも一緒か。人のこと言えないな。と重陽は、サーロインと一緒に自戒を噛み締めた。

 予選会はまだどこか夏の気配を残した秋晴れの中で終わったが、季節はすぐに冬へと移っていった。日の出の遅さ、日の入りの早さに、刻一刻とと本大会が近づいていることを思い知らされる。

 しかしどうやら、そんな焦りと高揚を高めているのは三年生より上の世代だけのようだ。端的に言ってしまえば、後輩たちは今ひとつ練習に身が入っていない。

 なんとなく、気持ちは分かる。都大路の時の自分がそうだった。

 どうにか勝ち上がることはできたものの、自分たちのタイムは決して優勝争いに絡んでいけるようなものじゃない。夢の舞台を走れるだけでもすごいことだ。

 そう思っていた当時の自分を見つめていた、遥希の冷めた目を思い出す。別に今だってその考えが百パーセント間違っているとは思わないけれど、自分が真剣勝負をしようとしている視界の端でそう腑抜けていられちゃたまらない。

 だからきっと遥希は、駅伝を──正しくは、重陽や有希が走った都大路を──「全然キョーミないっすね」と切って捨てたのだ。現に彼は今、東体大でエースとして駅伝を走っている。

「──喜久井。きーくーい。どうした怖い顔して。珍しい」

「えっ!? おれっ!?」

 練習後。少しふざけながらストレッチをしている後輩たちを苦々しく思っていたら、どうやらそれが顔に出てしまっていたらしい。ユメタ主務に目の前で手を振られて我に返った。

「ウチの部に、お前以外の〝キクイ〟がいんのか?」

「いえ……いってえ!」

 応えるや否や、手形が残りそうなぐらい強く背中を叩かれた。思わず声を裏返し、絶妙に届かないその場所をさすろうともがく。

「腑抜けてんじゃねーっ! 本番まであと一ヶ月ないんだぜ!? お前がそんななの、まあまあ致命傷だかんね!?」

 まあまあの強い口ぶりで叱られ、重陽は「すみません……」と返事をしつつも「解せぬ!」と内心で地団駄を踏んだ。

「いっ──いやっ! ちょっと待って! ちょっと待ってくださいユメタ先輩!!」

 しかし、一瞬飲み込みかけたその「解せぬ!」をすぐに腹から押し戻し、重陽は肩を怒らせて立ち去ろうとする彼の腕を掴む。

「確かにおれも今ちょっとだけボケーっとしてましたけど! おれより深刻にボケーっとしてる奴らいるし!」

「で? それ、お前が今ボケーっとしてたことになんか関係あんの?」

「ありますよ! ええ、ありますとも──」

「いいやないね。っていうか、自分のこと棚に上げて後輩のことチクろうとするとかマジでダセエんだけど」

 先輩ではあるが、さすがの重陽もこの言い方にはカチンと来た。確かに自分のことを棚に上げているように聞こえる言い方はまずかったかもしれないが、因果関係もなくはないはずだ。

「……まあ別に、いいすよ。おれがダセエのは今に始まったこっちゃないんで。でも一、二年のことはよく見てやってくださいよ。それが主務の勤めってもんでしょ」

 売り言葉に買い言葉! ダメ絶対! と普段から思っているものの、重陽の買い言葉はなぜだかその信条を追い越して口を衝く。

 案の定、ユメタ主務は「あ?」と明らかに喧嘩腰な声を上げて重陽に詰め寄ってきた。その時だった。

「ユメタ! 喜久井! 土田さんが呼んでる」

 夕真が割って入ってきて、ことなきを得た。

「三、四年だけでミーティングだって。急いでたよ。部室でやるって」

 ユメタ主務は重陽に向けたイライラをそのまま夕真にも向けて、ぶっきらぼうに「分かった」と言って踵を返す。

「ちょっと!」

「よせって喜久井」

 それがまた腹立たしくて重陽はもう一度、今度は彼の肩口に手を伸ばした。が、その手首を夕真に掴まれた。

「……お前もノブタもわりと怒りの反射神経ニブいから、たまの喧嘩くらい、いい思うよ。でもそれ今やんなくても死なないだろ」

 いつもと変わらぬそっけない口ぶりで、夕真は「行くぞ」と言って重陽の手を離し背中を向けた。彼はやっぱり、塩対応でも重陽の心の核を突く。

 部室にはもう重陽以外の上級生メンバーが揃っていた。集まった視線にむずむずして、思わず肩をすくめる。

「……遅くなりました」

「おー。お疲れ。しっかりクールダウンしたか?」

 はあ。と、はい。のちょうど中間みたいな返事をして、重陽は部屋の隅に立てかけてあるパイプ椅子を開いて腰掛けた。土田コーチの言う「クールダウン」は、果たして練習後のフィジカルケアを指しているのかそうでないのか、判断がつかなかったからだ。

「じゃ、揃ったんでミーティングはじめまーす。……つっても、今日のテーマについてはみんな薄々勘づいてるだろうけど」

 と進行を始めたのはノブタ主将だ。

「ずばり、下級生どもがたるんでいる件について!」

「ええっ!?」

 夕真を含めた全員が「ああ……」と頷いた中でひとり、御科だけが素で驚きの声を上げる。

「俺はてっきり、あおRUNちゃんねるの登録者数と再生回数十倍増に対する褒められが発生するものと──」

「ああうん御科。それについては後でな」

 ノブタ主将からおざなりにいなされ、御科は「解せぬ」と声に出して不服を露にしつつも大人しく口を噤んだ。

「じゃあま、気を取り直して。……ぶっちゃけ、あいつらがあんま練習に身が入ってない原因はわりとはっきりしてると俺は思うんだけど、喜久井はどう?」

「え? ああ……おれは──」

 重陽も、たぶんノブタ主将と同意見だ。

「──おれにも、心当たりはあります。ざっくばらんに言葉選ばず言っちゃえば、あいつら物見湯山っていうか……本大会に出場決めて、それで燃え尽きてるっていうか満足してるっていうか。たぶん、誰も口には出さないけど、自分たちがあのレースでちゃんと戦えるって思ってない」

 そうして自分の意見を述べるとまた御科だけが「ええ……」と微かに声を上げたが、先輩一同はうんうんと頷いている。所見は的を射ていたようだ。

「うーん……やっぱそう思うか。完全に弱小チームあるあるだな」

 ノブタ主将は苦虫を噛んだような顔でばりばりと頭を掻く。

「モチベーションが〝ない〟ことに無自覚なとこがタチ悪いんだよな。一を十にする時間だって惜しいのに、無から有を捻り出さなきゃなんないのは正直しんどい」

 眉間に川の字を作ったノブタ主将に「それな!」と大きな声で同調したのはユメタ主務だ。まだかなりイラついている。

「やっぱいっぺんガツンと説教した方がよくない!? タイム、横ばいならまだしも落ちてるまであっかんね!?」

 いや、トップダウン方式はウチらしくない。と重陽は言いかけたが、やめた。具体的な対案は思いつかなかったし、ユメタ主務の焦りもよく分かるからだ。

「ユメタ。気持ちは分かるけどあんま感情的になんなって。喜久井がボケーっとしてんのもお前がイライラしてんのも、どっちも同じくらいクリティカルだぜ?」

 そう言うノブタ主将も腹に据えかねたものがあるのか、目が笑っていない。また、煽られたユメタ主務もどんどんヒートアップしていく。

「は? いやノブタ。お前に言われたくないんだけど。お前が怒んないから俺が怒ってんじゃん」

「なんだやんのか?」

「やってやろうじゃん表出ろ!」

「ストップ! ストーーーーップ!! 兄弟喧嘩は実家でやれ!」

 土田コーチが一触即発な雰囲気の三浦兄弟の間へ割って入り、二人の頭を順番に子気味よく叩いた。それで少し〝クールダウン〟したのか、二人は双子らしく声を揃えて「すいません」と口を尖らせて椅子の上に尻を戻す。

「……で。ここまで聞いてて御科はどう思う?」

 土田コーチから急に話を振られ、御科はあからさまに言葉を詰まらせた。

「お、おうふ。不意打ち……」

「だって下級生とはなんだかんだお前が一番話してるだろ。動画撮影とかで」

「そりゃまあそうですけど、俺が喜久井氏みたいに他人を逐一観察してるとお思いで……?」

 もごもごと早口で発し、御科は一度深く息を吐いて見せた。が、重陽は知っている。御科師馳はこれで意外とウェットな男だ。滅多やたらに口を出さないだけで、後輩たちを気にかけていないわけがない。

「……まあ、あれっすな。たぶん松本以外の一年は自分が走るんだって本気では思ってないし、二年はフツーに目標見失ってんじゃないすかね。……だって予選会でさえ空前絶後の超ギリギリ通過で、しかも単純に考えてシード校はもっと速いわけでしょ?」

 やがて御科は、少しだけ面倒くさそうにぽつりぽつりと話しだした。

「そりゃまあ、せいぜいタスキだけは切らさないように頑張りますかー。って程度のことになりますわ。むしろそれ以上のイメージしろって方が無理あるでしょ。……俺らは意地とか執念で実感持って今回の大会にモチベーション保ててますけど、あいつらそんなん関係ないっすもん。物見湯山ってより完全に下見気分。っていうかそれも逆に、未来に生きてるだけまだ健全ってハナシで」

 御科は文字に起こせば完全に「www」といった風情で、自分を嘲うように一息で喋った。しかし、あんまりそれが正論なので重陽は固唾を飲んだ。ノブタ主将とユメタ主務は痛いところを突かれたとでも言うように大きく目を泳がせ、土田コーチは鳩尾をさすりながらついに「うぐっ」と呻き声を上げた。

「……忌憚ない意見をありがとう。御科」

「いえ別に。見たまま喋っただけなんで。しかも、意見ってより感想ですしおすし」

 未来に生きてるだけまだ健全。そんな御科の正論パンチは、土田コーチのみならずその場に居合わせた全員のどてっ腹に漏れなく効いた。その証拠に、誰も二の句が継げない。さすがの御科もちょっと空気を読まなすぎたと後悔しているのか、いつもより少しだけ居心地悪そうにしている。

「毎日お前らのタイム見てる俺としては、どっちかって言ったらユメタ派だよ。だって箱根だぜ? 四の五の言ってないで予選会なみに死ぬ気で走れって話だろ。……でも上から一方的に言って聞かせるみたいなやり方はウチには合わない。っていうより今までそんなことして来てないから余計に混乱するし、反発だってきっと起こる。……それが悪手なのは、ユメタも分かるよな?」

「うん……まあ、それは」

 ユメタ主務は不服そうに俯きながらもそう応えた。が、すぐに「だけど!」と引っ込みのつかなくなったような顔を上げる。

「あいつらだって、ウチに何が起こったか……俺たちがどんな思いで走ってきたかって知ってて来てるはずでしょ!? なのに、なんなんだよ今更『燃え尽きた』って! みんなそれで納得できんの!?」

「……できない」

 納得なんか、できるはずがない。重陽は、そう思ったのでそう言った。

「誰も、納得なんかしてない」

 ひとりの愛すべき人間が、裏切りという名の罪で何もかもをぐちゃぐちゃにひっくり返していった。その傷跡は、決して時に任せて自然に塞がるものではなかった。

「納得なんか死んでもできるわけない!」

「だよな!?」

「でもおれたちは人の区間にしゃしゃり出ていくことはできない! だから後悔しないために、走る以外のことたくさんやってきたじゃないですか!!」

 言葉を重ねるごとに震える声も、別に情けないとは感じなかった。きっとそれは自分がというより、先輩たちや同期の御科がこれまで何をどれだけ必死に築いてきたかを間近で見て来たからだ。

「……差し出がましいようだけど、俺もそう思うよ。駅伝は一人じゃ走れない。そういう意味じゃ、あの予選会だって立派な駅伝だった」

 それまで部屋の隅で気配を消していた夕真が、不意に口を開いた。

「ユメタは主務の仕事もして会社もやって、自分も走って、大変だったと思う。でも、そんなユメタがいたからこのチームはここまで来れたんだって、俺は知ってる。たくさん助けてもらったし、ずっと見て来たから。……だから、最後までちゃんとユメタのやり方を積み上げて欲しい。一つのボタンの掛け違えで全部ダメになるのを見るのは、もうたくさんだ」

 夕真の言葉は、同じ言葉を誰が吐くより重い。そう感じているのはきっと重陽だけではなかった。さすがに御科の顔は怖くて確かめられなかったけれど。

「タマっち。……一個だけ、教えてくんない?」

 そう発したのはノブタ主将の方で、夕真は彼の方を見ていつになく丁寧な口調で聞き返す。

「なに? ノブタ」

「……俺は?」

「そこかよ!?」

 間を置かずに夕真自身が鋭く突っ込んだのがツボに入ってしまい、重陽は堪えきれずに吹き出したのを咳でどうにか誤魔化した。

「そ、そりゃお前、当然ノブタだって、大事なチームのリーダーだよ」
「待てよタマっち。それって──」

「ユメタ。大丈夫分かってる。主務もリーダー。主将もリーダー。ライトウイングとレフトウイング。尾びれと背びれ。雷神と風神。それから、ええと……塩と胡椒だ!」

「いやそれはちょっとよく分からない」

 ユニゾンで言い返された夕真は、顔を耳まで赤くしている。重陽は、それもどうにか耐えた。しかし御科が「雷神風神まではよかった」と呟いたのが聞こえたところで腹筋が限界を超えた。

 ふと気付けば、つい寸前の剣呑な空気は主将と主務が夕真から強請り取った〝褒められ〟で一掃されている。重陽は「やっぱりウチはこうでなくちゃ」と強く感じほっとしたものの、同時に不安にもなった。

 箱根のあとのことを考える余裕なんてまだない。けれど今の四年生が抜けたあと、自分と御科が彼らのようにチームを引っ張っていけるイメージだけはどうしてもつかなかったのだ。

 ぎくしゃくした空気がなくなったおかげで、その後のミーティングでは普段どおり活発にアイデアを出し合うことができた。──が。だからと言ってドラスティックな解決策が編み出されたかというとそうでもない。

 結局最後は、土田コーチが「そろそろ区間のエントリーちゃんと決めるわ……」と唸ったのを合図に全員で部室を出た。夜間部の講義も間もなく終わる。

「──てかツッチー先輩さあ! エントリー決めんの遅くない!? いい加減こっちも心の準備とか始めたいんですけど!?」

 一度縮んだ導火線は、どうやら短いままらしい。夜闇に沈んでますます廃墟的な佇まいを見せるクラブ棟に鍵をかけたところで、しびれを切らしたようにユメタ主務が声を上げた。

「十二枚しかカードないんだから悩んでたって仕方ないでしょ! しかも半分は縛りプレー的に使いどこ決まってるじゃん!」

 確かに何十人も部員がいるようなよその大学でに比べれば、青嵐大陸上部はそもそも十二人しかいないのでほとんどスタメンを絞り込む必要がない。

 それに主力である上級生の適性と有希の走力を考えると、ユメタ主務の言う通り全十区間の内の五区間は自ずと決まってくるのだ。

 まず、御科の起用は五区以外には考えられない。彼は毎年十一月にターンパイク箱根で行われる箱根の山登り前哨戦「激坂最速王決定戦」でコースレコードを叩き出し、みごと王者の冠を頂いたばかりだ。

 それからノブタ主将とユメタ主務。二人の内のどちらかが一区で決まりだろう。二人の集団走の巧さは予選会で証明されている。

 その上で、往路の一区に起用されなかった方が翌日の復路に起用されるのであろうことはほぼ間違いない。監督車に同乗して沿道やメディアからの情報を収集・分析するという裏方の大役をこなすに足るメンバーが、残念ながらこのチームは四年の二人のほかにはいないからだ。

 有希はきっと花の二区だ。予選会では体調的なアクシデントがあって走ることができなかったが、走力的にはダントツ。記録会へはコンスタントにエントリーしていて少しずつ衆人環視のもとで走ることにも慣れてきているし、重要区間で起用しない手はない。

 そして自分だ。持ち味は自他ともに認める二段ロケット。そして、重量がありスピードに乗りやすい体は下り坂でこそ活きてくるはずだ。つまり復路のスタート──山下りの六区に起用される見込みが高いと言える。

 そう考え、重陽は密かに下り坂を思い切り駆け降りる練習を重ねてきた。入学前に手術した足首には今でも爆弾を抱えているが、他ならぬ箱根の舞台で自分の命を使い潰すことができるならそれはそれで本望だ。

「いやでも俺にも色々さあ、考えがあんのよ。仮にも一応? 指導者のハシクレ? としてさあ」

「何言ってんの? ハシクレ、じゃなくて立派な〝指導者〟だかんね? 自覚持ってもらわないと困りますよ? 安くないギャラ出してんすからね?」

 ユメタ主務にじと目で詰め寄られた土田コーチは、同じ顔をしたノブタ主将からも逆方向から詰められ胃弱代表みたいな表情を浮かべていた。やっぱりこの二人には天地がひっくり返っても敵う気がしない。

「まあ……そうだな。お前らの言うとおりだよ。俺もいい加減、腹くくって今晩中にはエントリー決めるよ。明日、練習後の全体ミーティング組んどいて」

 土田コーチはそう言ってたじたじと応えた。少し気の毒だとは思ったものの、いよいよ自分が箱根路のどこを走るのかが決まると思うとワクワクが止まらなかった。

 そのせいか、晩はなかなか深く寝付けなかった。まどろみ始めると瞼の裏に、坂を駆け降りる時の景色が風まで感じられそうなほど鮮やかに映るのだ。

 下り坂の重力に身を任せると、普段は邪魔くさいほど大きく重たい体が嘘みたいに軽やかに感じられる。勢いとスピードに乗れば乗るほど、自分が自分じゃないみたいに自由な気持ちになれる。箱根でもそんな気持ちを味わえたら最高だ。

 そういうことを考えながらうとうとするたび、不意に足がもつれるような感じがしてはっと意識が覚醒する。重陽は、その繰り返しの内に朝を迎えた。寝たような寝ていないような、夢を見ていたようなそうでもないような、妙な感覚だった。

 青嵐大駅伝部には全員揃っての練習があまり多くない。これは重陽が入学する前からの伝統である。今の主将と主務からしてそうだが、昔から家業の手伝いやアルバイトをする学生が多いためだ。

 そういう「無理なく楽しく戦力アップ!」な部ではあるものの、隔週土曜だけは極力スケジュールを合わせて全体練習を行うことになっている。

 たまにどうしても予定を合わせられないメンバーがいたりもするが、箱根駅伝への出場を決めてからはいい意味でメディアに取り上げられる機会も増えたためか、練習への参加に協力してくれる人たちも周りに増えたようだ。

「よーし今日も全員揃ってるな。始めるぞー」

 十二人のメンバーを前にそう発した土田コーチは明らかに徹夜明けだった。

「ラインでも連絡したとおり、今日は練習後のミーティングで箱根の区間エントリーを伝える」

「はあい! コーチ!」

「なんだノブタ」

「区間の対策練習に時間割きたいんで、決まってんなら今教えてくださあい」

 口調はいつもどおりおちゃらけているが、ノブタ主将の目は笑っていない。きっと彼も自分と同じように、寝たんだか寝てないんだか分からない一晩を過ごしたんだろう。

「それなあ。……大枠は決まってんだけど、ちょっと決め手に欠けるとこあってさ。練習見て決めたいから、悪いんだけどみんな今日んとこはソワソワしながら走って。いじょー」

 あくび混じりにそう言われ、有希以外の全員が「ええー」と不服の声を上げた。しかし、下級生たちはみんなどこか斜に構えながらも、常ならぬ気迫を纏いアップに入る。

 重陽は高校駅伝県大会のメンバー発表の日を思い出し、そっと有希の様子を伺ってみた。彼はこの段に至ってもまだ携帯はおろかパソコンも持っていないので、土田コーチの言ったとおり今日の練習後に箱根の区間エントリーが伝えられるというのは初耳だったはずだ。

 にもかかわらず、彼はやっぱりあの時と同じ無表情でストレッチをしている。相変わらずの極端なマイペースだ。

 重陽はきっと、高校時代の有希を知らなければ「なんなんだよコイツ」と思っていたに違いない。だから、まさに今そんな素振りを見せない一年生や二年生を見て彼らを尊敬した。もしかすると十八歳と十九歳の間にはそれだけ大きな隔たりがあるのかもしれないけれど、それを考慮してもやっぱり後輩たちは同じ年の頃の自分よりもずっと大人に見える。

 いかんいかん! 練習に集中! と重陽は、ストレッチの終わりに両手で腿と頬を叩いた。

 人のことが気になるのは自分に欠けているところがあって、そこから無意識に目を逸らそうとしている証拠だ。自分は一体なにから目を逸らそうとしているのか。その正体をきちんと見定めないと永久に目を泳がせ続けるはめになる。

 今回は「一発勝負のタイムトライアルで決める!」ということもなく、日暮れ前にはいつもどおりの全体練習を切り上げた。この練習で一体何を見られたのかが今ひとつピンときていない様子の下級生たちは、やっぱり少し訝しげな顔だ。

 クールダウンや片付けを終えて部室へ戻ると、テーブルの上にはペットボトルの麦茶と山積みのみかんがあった。夕真からの差し入れのようだ。

 当の彼はというと、集団走の途中で取材を切り上げどこかに行ってしまった。もっとも、駅伝の区間エントリーは機密中の機密情報。チーム外の人間においそれと知られるわけにはいかない。それを彼も知っているので席を外したんだろう。

 メンバーはめいめい椅子を引き定位置に着く。差し入れには誰も手を出そうとしなかったが、腹の虫が鳴きそうだった重陽は結局「いただきます」とテーブルの真ん中へ腕を伸ばした。

「みんなお疲れ。腹も減ってるだろうし一息ついてから……と思ったけど、さすがにそんな雰囲気じゃないか。喜久井はヨユーみたいだけど」

「んむっ!? そっ、そんなことは──ったあーッ!!」

 苦笑いで茶化すみたいに名指しされ、慌ててみかんを剥いたら汁が目に入って悶絶した。ぴりっとした空気が少し和む。何よりなことだが少し情けない。大事の話の前に、何が悲しくておれはみかんの汁で目を……。と思うと、別の涙も出てきそうだ。

「──まあでも、みんなも好きに水分補給とかしながら聞いてくれ。たぶん長い話になるから」

 いつものタブレットを脇に抱えた土田コーチがそう言ったので、重陽は「こうなりゃヤケだ」とばかりに二つ目のみかんへ手を伸ばした。ビタミン摂取は風邪予防にもなる。

「まず、どういう基準でエントリーを決めたか。つまり、箱根駅伝っていう二日がかりのレースにどういう方針で作戦を立てたかを先に伝えておく。──作戦名はずばり『箱根駅伝下見リアルタイムアタック大作戦』だ!」

「箱根駅伝下見リアルタイムアタック大作戦んんんん!?」

 ノブタ主将とユメタ主務がユニゾンで声を裏返した。御科は「おもしれー奴」といった風情で静観の構え。後輩たちは──剣呑な主将や主務の様子にビビっているのもいれば、図星を突かれて目を泳がせるのも、耳を疑って隣のチームメイトに「今なんて?」と小声で確かめているのもいる。

「……ま、そうだな。フツーは箱根に下見もクソもないもんだ。でも究極、お前たちはなんのために箱根駅伝を走るんだ?」

 土田コーチは少し声を大きくして、車座になっているメンバーを見回した。

「お前たちは、箱根駅伝を走ることで何が得たい?」

 重陽が眼球を犠牲にして和ませた空気は、その一言で一瞬にしてもとに戻った。土田コーチの問いかけに対する反応は、やっぱり様々だ。

 重陽も考えた。自分はなんのために箱根駅伝を目指してきたのか。箱根駅伝を走ることで、何を手に入れたいのか──重陽にとっては今更すぎる自問自答だ。

「思うんだけどさ。それってたぶん、ひとりひとり違うんじゃないかな。どう走りたいとか、走ったあとでどうなってたいとか。……でも誰にでも当てはまるキーワードでその『なんのため』を言うとすれば、それって『未来のため』なんじゃないかって思ったんだ。だってそうだろ? 箱根駅伝のために人生があるんじゃない。今よりもっとイイ感じに生きたいから、箱根を走りたいんじゃん。死ぬ気で走るとか死んでもいいとか、そんなんものの例えだろ。実際死なないし!」

 土田コーチの持論を聞き、重陽は「確かに!」と思わず頷いた。

 自分らしく自由に生きることができる未来。好きな人が夢を見続けられる未来。そのために重陽はこれまで走ってきたし、これからだってきっとそうして生きていく。

 その途中に箱根駅伝があって、確かにこの大会は華やかだし、自分たちにとっては間違いなくターニングポイントになるレースだけれど、人生というもっともっと長い道のりの上では単なる通過点のひとつでしかない。

「──だから俺は、このチームの指導者として、チームの『未来』とお前たちの『未来』を考えた。寝ないで考えた! 俺はノブタとユメタの四年間を絶対に無駄にはしないし、今の三年以下を必ず再来年の箱根にも連れていく。俺にはその義務がある!!」

 土田コーチはタブレットの画面にかかったカバーを上げ、力強くそれをテーブルの上へ置いた。

「これが俺の『箱根駅伝下見リアルタイムアタック大作戦』だ!」

 啖呵を切るようにして置かれたタブレットを、みんながみんな衝突せんばかりの勢いで覗き込む。そして全員で、

「ええええええええ!?」

 と大絶叫を上げた。


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