天下の険②
一月三日。朝七時三十分。夕真は粉雪の舞う函嶺洞門の真上をヘリコプターが飛んでいくのを見た。復路は毎年このポイントからと決めているが、どうしてか空撮用のヘリが飛んでいく時はいつもぽかんと口を開けてそれを見送ってしまう。
今日は喜久井にとって初めての箱根駅伝。夕真にとっては四回目の、そしてきっと最後の箱根駅伝になる。
青嵐大が箱根路を駆けるのは今年が初めてのことだが、夕真は毎年欠かさず往路・復路ともに交通機関を駆使して全区の撮影を行ってきた。
理由を尋ねられればいつも「趣味と実益を兼ねて」と説明してきたし、それも全くの嘘や建前ではない。けれど、本当の理由はほかでもない。自分がどんな状況で、喜久井がどこの区間を走ることになっても、絶対にシャッターチャンスを逃さないためだ。
おかげで往路の乗り換え対策は完璧だった。誤算があったとすれば如月の快走ぐらいのものだが、ああいう嬉しい誤算なら大歓迎だ。
そうして迎えたこの復路。喜久井は十区を走る。彼に襷が渡るのは恐らく昼の十二時過ぎなので、今頃はきっとまだホテルのテレビの前でそわそわしているに違いない。
今のうちに電話をかけておこうか。あんまり直前でも、また変に動揺させると悪いし。
と携帯を取り出して、当然のようにエールを送ろうとしている自分にはたと気がつき夕真の方が動揺した。
なんだかんだ、彼を応援することがすっかり体に染み付いているのだ。夕真は自他ともに認める連絡不精だが、喜久井が高校生の時から試合前に一言エールを送ることだけは欠かさなかった。誰の監視下にあって、何台もの携帯を取り上げられたり破壊されたりしてさえもだ。
誰かの成功を、達成を、喜びを祈って「頑張れ」と声をかける。とてもきれいなことだ。
他人に作り替えられてしまった自分に残っているのは傷跡や恐怖心ばかりだと思っていたけれど、彼は爪一つ立てず、優しさとその走り様だけで夕真を柔らかく癒していた。なんというヒーローだろうか。
鼻の奥がつんと痛み、目が潤んだ。きっと冷たい風を真正面から浴びたせいだ。そうに違いない。と思うことにして、メッセージアプリの履歴から喜久井のIDを開いた。その時だ。
「──もしもし」
『おはようございます先輩。応援をゆするためにかけました』
電話の向こうの喜久井に、早口で捲し立てられた。
「ばぁか。わざわざゆすられなくたって、今かけようと思ってたとこだよ」
『えっ、すごい。めっちゃシンパシー』
いや別にシンパシーとかじゃないし。レース始まったらこっちはそんな暇なくなるし。そっちはそっちでテンションもボルテージも上げてかなきゃだし。って考えたら今しかないし。
と、これまでの夕真だったらきっとそう返していた。
「……シンパシーか。そうかもな。俺も今、お前に応援を押し付けるためにかけようとしてたし」
『あはは! 押し付けるだなんてそんな。いつでもどれだけでも大歓迎ですよ。っていうかこっちとしちゃ、人生まるごとずーっと隣で応援し続けてくれたら超嬉しいんですが?』
いやにハイテンションな笑い声を聞いて、喜久井はやっぱりひどくナーバスになっているのだと確信する。
「おいおい。いいのか? そんな調子に乗って。お前、まだ走る前だぜ?」
『走る前に調子に乗らないで、いつ乗るっていうんですか。……トチったあとじゃ、調子に乗りようがないでしょ』
「大丈夫だよ。お前はトチらない。喜久井エヴァンズ重陽は、やる時ゃやるヤツだ」
『今朝、都大路の夢を見たんですよ』
「夢は単なる記憶の整理だ。きっと、同じ轍は踏まないっていう意気込みの表れだよ」
『あと靴紐切れたし』
「それはシンプルに、レース前に替えられてよかっただろ」
『それに』
「大丈夫。落ち着け。大丈夫だから」
昨日の時点であれだけ顔を青くしていた喜久井がどれだけの不安と緊張を抱えているのかが、夕真には手に取るように解った。
「喜久井。頑張れ。応援してる。……それと、今までずっと応援させてくれてありがとう」
喜久井のことが好きだ。ずっと好きだった。幸せになってほしいと思うし、自分にできることはなんでもしてやりたいと思う。この五年間、ずっとそう思ってきた。
『最後みたいに言わないでください』
なのに、どうしてもしてやれそうにないことがある。嘘を吐かなくてはいけないことが、歯痒くて歯痒くて仕方がない。
「……そうだな。ごめん。これからも期待してるよ。もちろん今日の走りもさ。ずっと応援してる。俺には応援ぐらいしかできないけど」
『いえ。充分です。……こっちこそなんか、弱気な声聞かせちゃってすみません。でも今のでめちゃくちゃ元気出たんでもう大丈夫!』
そう言って、喜久井はどうやら携帯をどこかに置いたようだった。ごそごそと何か立ち上がりでもしたような音がして、何事かと首を捻っていたそのうちに──。
『ヒーーローー見ッッ参ッッ!!』
夕真の耳を、そんな咆哮が劈いた。
『必ず助けに行きます。だから、あと少しだけ待っててください』
そう言って、喜久井は一方的に電話を切った。
「助けに……?」
脈絡なくそんなことを言われて、思わず復唱する。
喜久井には、織部夕真がまだ「助かって」いないように見えるんだろうか。
だとするなら心外だ。彼は充分、夕真のことを助けてくれた。もう大丈夫──とは、百パーセントの気持ちでは言い切れないが、ここから先はひとりでいかなきゃ。と清々しく前を向くことならできている。
とは言え、待っていなければいけないのは確かだ。今日ばかりは待たせるわけには行かない。
彼が駆け抜けてくるその道の先で、ゴールテープを切るその姿を写真とこの目に焼き付けるため、夕真もまた今日この日まで長い長い道のりを駆け抜けてきたのだから。
重陽にとって、鶴見市場駅は苦い思い出の地だ。
忘れもしない、高三の夏。オープンキャンパスで東京に来て、浮かれポンチな気分のまま夕真の買ってくれたチケットでお笑いのライブを見て、彼に恋人として丹後を紹介され、自棄っぱちになってそのまま一区のコースを駆け抜けた。
そんな夏と、季節は真逆。コースも真逆。時間だって昼と夜で真逆。なのにどうしてか、重陽の心臓だけがあの瞬間にタイムリープしたみたいにばくばくと音を立てている。
「……熱い」
知らず識らず発していたようだ。そのことを重陽は、付き添いのノブタ主将が「ん」と腕を伸ばしてきたことで気付く。
「脱ぐか? ベンチコート」
「へ?」
「いや、今『熱い』って」
「あー……そう、ですね。もうそろそろ、準備します」
駅伝部のグループラインへ有希が矢継ぎ早に打ち込んでくる情報を目で、ラジオの中継を耳で追いながら、重陽はコートを脱いでノブタ主将に渡した。
青嵐大駅伝部にとって復路は波乱の幕開けとなった。
まず、七区を走る予定だった一年生が発熱し綿貫にチェンジ。そして六区の濱田は作戦通り凄まじい勢いで下り坂を駆け降りて行ったものの、雪で濡れた路面に足を取られて派手に転倒した。
濱田は幸いレースにこそすぐに復帰したものの、なまじ猛スピードで突っ込んでいたので恐怖心も強かったんだろう。その後の走りは慎重なものになり、必然的にスピードも落ちた。
そうした形で青嵐大は六区で六校に抜かれ十四位へ後退。しかし七区、八区で後輩たちが粘りの走りを見せて少しずつ借金を返し、順位は十二位まで浮上。
そして九区では今、御科が前方で長らく並走状態にある十一位の東武大と十位の鹿沼大をロックオンした。
「いいぞ御科! そのまま上げて来い!!」
ノブタ主将の持つタブレットに映っている御科は、いっそ不気味なほどいつも通りの淡々としたピッチを刻んでいる。静かだが力強い走りだ。折しも舞台は横浜駅前。コース上で最も人出の多いポイントと言ってもいい。
自分と同じく声援を力にするタイプのランナーであれば、きっとこのポイントではテンションが上がるに違いない。──が。きっと後ろについてくる御科の存在には気付かないだろう。
土田コーチもそれを狙って彼を九区に入れた節があり、彼もまたそれを理解している。現に御科は、高架下の声援が一際大きく聞こえるタイミングでぴったり東武大の選手の後ろに位置取った。まるで影踏みにでも興じるように。
「……ノブタ先輩。おれ、ちょっと走ってきます」
重陽は居ても立ってもいられず、イヤホンと携帯もノブタ主将に預けた。
「動いてないと緊張でどうにかなりそう」
「了解。でもほどほどにしろよ。あいつのことだ。ちょっと目ェ離した隙にすぐ来るぞ」
ノブタ主将は少し興奮気味の早口で言って、重陽のイヤホンと携帯を自分のポケットにしまおうとした。が、ほぼ同時に駅伝部のグループラインに有希からのチャットが飛んでくる。
「ほらもう言ってるそばからこれだもんよ! 新子安で二人まとめてドンして十位だ!!」
「いいいいいいいってきます!! 三分だけ!!」
重陽は声を裏返し、慌てて待機場所のテントを飛び出した。レース前はいつだって緊張するものだけれど、やはり箱根は別格だ。
今日までしっかり練習は積んできたし、そんな重陽を信じてチームメイトたちはアンカーを任せてくれた。都大路の時と違って夕真もしっかり見守ってくれているし、朝には声も聞いた。
なのに、なのにだ。やっぱり怖い。自信が持てない。なんだか足元がふわふわして、まるで自分の足じゃないような感じがする。
予選会とは全然違う。復路のスタート前にはまだ「ヒーロー見参!」なんて言って見栄を切っていられたが、今この段に至っては口が裂けてもそんなことは言えない。全くもって見参できない。
「ああもう! しっかりしろ重陽!! ここでやらないでいつやるんだ!?」
中継所の喧騒を少し離れ、自分で自分に喝を入れた。その時だ。
「あっ!」
と大きな声がして、重陽は振り返った。
そこにはダウンベスト姿のおじさんがいた。彼は重陽の顔を見ると、数年ぶりに会う親戚の子へ向けるような笑顔を浮かべて歩み寄ってきて、
「頑張って!!」
と肩を叩く。その瞬間、重陽も思い出した。
「ああっ! はいっ! 頑張ってきます!!」
重陽がそう応えると、おじさんはニコニコしながらそばのマンションへ入って行った。やっぱり地元の人だったのだ。
思わぬ再会のおかげで、少し落ち着いた。世界は鏡だ。自分にも他人にも常に誠実であれ。そんな自分の原点を思い出すことができたからだった。
おれは今まで、走りに誠実だったか? イエス。
仲間たちには? イエス。
じゃあ大丈夫。世界は鏡だ。
「──おっ。イイ面構えになって帰ってきたな」
待機場所のテントへ戻ると、ノブタ主将はそう言ってほっとしたように目を細めて見せた。三分前の自分はどれだけ情けない面構えをしていたんだろうか。
「心配かけてすみません。ちょっと体動かしたらだいぶ落ち着きました」
「ならオッケー。派手にロケットぶっ放して来い!」
どん! と強く背中を叩かれ、戻ってきたばかりのテントから再び押し出された。そして係員に促されるまま、東武大、鹿沼大の選手とともに中継ラインに並ぶ。
「御科氏!」
最初に直線へ飛び込んできたのはやはり彼だった。重陽が名前を呼ぶと、御科は握りしめた襷を一度天高く掲げた。そしてどこにまだそんな力を残していたというのか、
「力こそパワーッ!」
と雄叫びを上げ両手で引き絞るようにした襷を前へ突き出す。重陽もまた心得たとばかりに張り詰めた襷をしっかと掴んで、
「速さこそスピードッ!」
と応え、自慢のロケットスタートで中継所を飛び出した。
喜久井が肩に襷をかけ鶴見中継所を飛び出していくのを、夕真は京急線のつり革を握りしめながら固唾を飲んで見守っていた。
十位で襷を受け取ったとは言え、後続との差は約十秒。ほとんどあってないようなものだ。なので喜久井も、いつも以上にハイペースで突っ込んでいったに違いない。
『青嵐大がみるみる後続を突き放していきます。そろそろ前を走る城南国際大の背中も見えてくる頃でしょうか』
鶴見で繰り上げスタートが終わった頃。映像がシード権争いを追う中継車からのものへ切り替わり、実況のアナウンサーが伝えた。
『青嵐大の喜久井くんはいつもスタートがいいですね。体格をうまく活かした段階的な加速やスパートも彼の持ち味です。これは青嵐大、初出場でシード権獲得も夢じゃないですよ』
実況・解説ともにポジティブに喜久井の走り様を伝えている。しかし五キロを過ぎて、夕真は彼の走りが微妙に横ブレし始めたことに気付いた。
「ああっ、くそ!」
しかし中継映像は、トップをひた走る東体大の様子へスイッチする。ラジオはどうかといくつかのチャンネルをザッピングしてみたものの、まるで意地悪く示し合わせたかのようにシード権争いを伝える局がない。
気のせいだ気のせい! 何も心配ない。あと少し、頑張れ喜久井。頑張れ!
どれだけ念じようとも届きはしないエールを、虚しくもどかしく思いながら窓の外を見る。京急線はほとんど十区のコースをなぞるように通っているが、電車の中から見えるのは何重にも折り重なった人の頭ばかりだ。
『あっ。青嵐大の喜久井選手が右足を叩きながら走っていますね。何かアクシデントでしょうか』
ラジオの実況アナウンサーが伝えるのを聞いて、ひゅっと息が詰まった。映像の方はまだトップの東体大を映している。
そっちは完全試合の一人旅なんだからもういいだろ! 長いんだよトイレタイムが!! と夕真は心の中で毒づき、舌を打つ。
このまま京急線に揺られ品川まで行き地下鉄かJRに乗り換えれば、ゴールには確実に間に合う。しかし、途中下車をするとなると賭けだ。ゴール周辺の入場規制開始前に間に合わないかもしれない。
待っていてくれと言われた。待っていると約束した。けれど、今の喜久井に本当に必要なのは果たしてゴールでただ「待っている」ことなんだろうか。
迷いに迷って、夕真は「なるようになれ!」と青物横丁駅で電車を飛び降りた。全速力でコース沿道へ向かう歩道橋を駆け下り、青スポの腕章を強調しながら「すみません、すみません!」と人波の間をぬう。
なだらかなカーブを描くコースの向こうから中継車が見えてきた。最後に夕真が見た時は、喜久井はそのすぐ後ろを走っていた。しかし今は喜久井より前にひとり。シャドウブラックのユニフォームに身を包んだ東武大の選手が走っている。
夕真は腹側に抱えたリュックから望遠レンズを取り出し、カメラへ取り付けた。そしてそれをいっぱいにズームしシャッターを切る。写し撮った彼の走りは直前よりもさらに左右へぶれ、その表情は戸惑いに白く揺れていた。
「喜久井ーーーーっ!!」
喉が爆発したのかと思った。そのくらい、大きな声が出た。喜久井は頭をゆらゆら揺らしながら夕真の方を見た。ファインダー越しにではなく視線が交わる。
その時、彼の目は「助けに行く」ではなく「助けてくれ」と言っていた。夕真にはそう見えた。
「待ってるから! 頼むから! 一秒でいいからはやく来てくれーーっ!!」
あいつにだけ伝わればいい! そんな思いで独特の声援を送り、夕真は踵を返す。あえて反応は確かめなかった。というより、その時間も惜しかったのだ。次に来る急行に乗れなければ、ゴールに間に合わない。
夕真はつい寸前に駆け下りた歩道橋を今度は二段飛ばしで駆け上がり、勢いそのまま改札にICカードを叩きつけて辛くも急行電車に飛び乗った。爆発した喉の奥で、今度は肺が悲鳴を上げる。
自分はたったのあれしき走っただけでこの有様だというのに、彼はもう何キロを全力で走ってきただろう。今日だけのこのじゃない。今日まですべてのことについて。
そんなことに思いを馳せると自然に涙が溢れた。やっぱり喜久井はずっと「助けてくれ」と言っていた気がする。今朝聞いた「助けに行きます」だって、きっと彼なりのSOSだったのだ。
喜久井はずっと「先輩にとってのヒーローになりたい」と言っていた。ヒーローをヒーローたらしめるのは助けを求める人の声だ。もしかしたら、自分が彼のためにできることは前を向いてひとりで生きていくことではないのかもしれない。
『さあ熾烈を極めてまいりましたシード権争いの模様。現在九位に城南国際大、十位に青嵐大、その三十秒ほど後ろに東武大がつけています。青嵐大の喜久井選手は序盤に比べかなり失速しているようですが、十二キロのポイントでかなり持ち直しましたね』
『はい。時折右の腿に刺激を入れながら走っているのが気になりますが、前によくついて行っています。ただ、もしかすると〝ぬけぬけ病〟の症状が出ているのかもしれません』
解説を聞き「そんなまさか」と「そんな気がした」が同時に頭の中を駆け巡り、夕真は恥も外聞もなくその場にしゃがみこんで泣き声をしゃくり上げた。
プロアマ問わず、多くのランナーを苦しめる局所性ジストニア──通称〝ぬけぬけ病〟は、走行中に突然足から力が抜けてしまう奇病だ。痛みはなく、ただ「力が抜ける」という感覚だけがあることから〝ぬけぬけ病〟や〝ぶらぶら病〟などと呼ばれている。
原因は同じ動作を反復し過ぎることによる脳機能のバグだとか、筋肉のコンパートメント内圧上昇だとか言われているが、結局のところは不明。しかし、この原因不明の奇病によって引退を余儀なくされた実業団選手や学生ランナーは少なくない。
急行電車はやがて品川駅に到着し、夕真は顔を上げ電車を降りた。乗り換え案内によればJRの方が若干早い。横須賀線のホームへ駆ける。
東京駅で降り、あとはただひたすら走った。体が重い。息が苦しい。でもきっと、喜久井の方が万倍辛い。「待ってる」ではなく「待ってろ」と思った。
「タマっち! こっちだ!!」
地下鉄の出口を駆け上がったところでノブタと会った。大手町には既に、監督車に乗っている土田コーチと有希以外の駅伝部員が揃っている。
「ノブタ! 今の順位は!?」
「そんなの分かんねえよ! もうどこの局も優勝インタビューしかやってないんだから!!」
そう話しているノブタも涙目だ。
「もう何位だっていいよお! 喜久井がちゃんと帰ってきてくれたらそれでいいってばあ!!」
ユメタに至っては号泣だった。御科でさえぎゅっと唇を噛み締め、携帯ではなくじっとコースの先を見据えている。
前人未到の完全試合新記録で優勝を果たした東体大から遅れること約五分。二位、三位、四位と立て続けに選手がゴールテープを切った。喜久井の姿はまだ見えてこない。
その内に如月が「ち、中継! そろそろシード権争い映してるかもです!」とぶるぶる手を震わせながら自分の携帯を取り出した。
それを合図にして、駅伝部員たちはみな我先にとそれぞれのデバイスで配信を見ようと躍起になる。多くの人出のせいか、誰の手元でもなかなか動画が立ち上がらない。
「あ! 繋がりました!」
濱田がその長い腕をぴんと伸ばし、メンバーの輪の中心へ携帯を差し出す。
喜久井は日本橋三越前を蛇行しながら走っていた。順位は十位。ただ、後ろから追いかけてきている東武大の選手から逃げ切る力があるかどうかは、かなり怪しいように見える。
「喜久井! 喜久井!! 頑張れ!! あとちょっと!!」
ユメタがじたばたと地団駄を踏みながら叫ぶ。
「ああもうなんで今日なんだよ!? 神も仏もあったもんじゃない! なんだよぬけぬけ病って!」
「局所性ジストニア──」
「うるせえよ御科! そういうこと言ってんじゃないんだよお前空気読め!」
「──あそこまで症状が出てたら、一回止まるしかない。でもリズムを変えれば、また走れる」
夕真の気のせいでなければ、御科は少し震えた声でそう言ってふらふらとゴールテープ前へ進んでいった。
「実際、織部氏が青物横丁で声かけした時。それでリズムが変わって持ち直して──」
御科の言葉の語尾は、交差点を曲がって行った中継車の陰から喜久井と東武大の選手が姿を現したことによる歓声で掻き消された。両者はほとんど横並びだが、気持ちほんの少しだけ喜久井が前を走っているように見えなくもない。
「止まれるわけがない!!」
と絶叫したのは、六区で転倒した濱田だ。
「あとほんの何百メートルかですよ!? 止まったらそこで終わりじゃないですか!!」
しかし、そのゴールのほんの何百メートルか手前で、喜久井は両膝に手をつき、立ち止まった。
沿道から、ビルの上から、悲鳴に近い声が上がる。並走していた東武大の選手でさえ、あまりのことに一瞬喜久井の方を見た。
「喜久井ぃーー!!」
夕真は何年もずっと彼を見てきた。誰よりもずっと熱く見つめ続けてきた。
なので夕真には、彼にかけるべきたったひとつのエールの言葉が分かっていた。
「結婚しよう!!」
喜久井は、まるで止まった時が動き出すみたいにして再びその場を駆け出した。その様はロケットというよりは真っ赤な火球だ。ここまでの蛇行した動きがまるで嘘みたいに、まっすぐゴールへ飛び込んでくる。
東武大の選手も、当然のことスパートを駆けてくる。両者は必然的にまるで短距離レースのようなデッドヒートを演じ、ほとんど同時にゴールラインへ雪崩れ込んだ。夕真はただじっとその姿にとっておきのレンズを向け、ただただじっとシャッターを切り続けた。
「喜久井! 喜久井!! お疲れよくやった!!」
主将のノブタが涙声で言いながら、彼の両肩をタオルで受け止めた。喜久井はぜえぜえと咽び喘ぎながらノブタの手を取り、しかしすぐに離して何かを──誰かを探している。
そんな彼と、やはりファインダー越しに目が合った。夕真は最後までシャッターを切り続けた。
「先輩。聞こえた。おれ、ちゃんと聞いてたよ」
夕真はそこでようやく観念し、カメラのレンズに蓋をした。
「……聞こえてなくたってよかったんだ。何度だって言うから」
喜久井はまるで産声を上げるみたいに泣きじゃくり、ビル風に吹かれてもなお熱い両腕で夕真をカメラごと抱きしめた。勢い余って尻餅をつく。
「喜久井。俺たち、結婚しよう」
それが、夕真と重陽との馴れ初めだ。
強い風に雲がたなびく初春の日、夕真は長い長い初恋のゴールテープを切った。
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