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ロングディスタンス⑧

 彼に新しい携帯を渡すざっと一年前。重陽はゼミと独学で学習したプログラミングで、位置共有のアプリケーションを開発していた。

 多くのスマートフォンに標準搭載されている両者の承認を得るタイプのものではなく、特殊な動作を行わなければ解除のできないものだ。

 開発中、同室で同学部の御科には「犯罪者に片足突っ込んでて草」と釘を刺された。けれど、虎穴に入らずんば虎子を得ず。である。犯罪者──彼を痛めつける彼の恋人たちの動向を知るには彼らの思考回路を理解することが一番の近道だと思ったのだ。

 なので重陽は、心理系の単位も積極的に履修してきた。全ては、他ならぬ織部夕真が身を浸している暗い沼、そこから彼を明るいひなたへ引き上げるためである。そのために重陽はずっと、走り、学び、誠実に生きてきた。

「先輩。着きましたよ。おねむなとこゴメンナサイですけど、今更ですがウコンとお水飲んでください。じゃなきゃ明日に残りますから」

 三浦ハウスへ帰ってきて、二階にある彼の部屋へ忍び足で上がる。そして外開きのドアを開けて、四畳半の部屋の約半分を占めるベッドへ彼を降ろす。

 この家で内鍵が付いているのは三浦兄弟の部屋と事務室くらいのものだが、彼の部屋に限って言えば呑気や警戒心の欠如と言うよりはセルフネグレクトの気配が強い。

 高校の頃は「真面目で神経質」を絵に描いたような人で、彼しか使っていなかったあの暗室だって埃ひとつなく清潔で整理整頓が隅々まで行き届いていたというのに、今の彼の部屋はひどく雑然としていた。

 自分や先輩たちの運び込んだ段ボールが、まだ蓋を開けただけの状態で積み上がっている。机の上も辛うじてノートパソコンに向かうだけのスペースがあるだけで、あとはガムの包み紙やらスクラップやら印画紙やらが積み上がりっぱなしになっている。

「あー……悪い。まじでごめん。くそ死にてー」

 重陽が彼をシングルの折り畳みベッドに寝かせると、彼はひどく恥ずかしそうに体を丸めて壁に額を擦り付けた。

「はいはい。そうは問屋が卸しませんよ。いま水汲んできますから、大人しくちょっとだけ待っててくださいね」

 こういう状態の人間をへたに慰めたり鼓舞したりしてはいけない。というのは、講義で得た知識だ。重陽はただ彼にベッドの上のタオルケットをかけ、部屋を出る。

 落ち着け。落ち着け! ここで理性をフル稼働できなきゃ他の野郎どもと同じだ!!

「ろくっ! ごーっ! よんっ! さんっ! にぃーーっ! いっち! ぜろっ!!」

 呪文か祝詞のように唱え、顔を洗う。それに飽き足らず、頭から水をかぶる。

「よしっ! 大丈夫!!」

 自分へ言い聞かせるようにして口に出し、着ているTシャツで顔を拭った。冷静になれた気はしないものの、長きに渡って培ってきた空気読み振る舞いセンサーは機能を取り戻した。我ながら、実に「ちょうどいい」具合だ。

 感情に任せてことがうまく運んだ試しも、空気を読むことに終始して蟠りが残らなかった試しも一切ない。

 何事も中庸が肝心だ。そういう意味では、感情と理性が混沌として混じり合っている今の状態は、ひどく落ち着かないものの理想の状態であると言えるのかもしれない。

「先輩。お水とウコンです。着替えろとは言わないんで、これだけ飲んで寝てください」

 いつも弥生さんが包丁を奮っている台所で汲んできたコップの水と酔い止めの錠剤を持って彼の部屋へ戻り、ふらついたその体を起こす。

「うー……悪い。ほんとごめん。まじで死んで詫びる……」

 泥酔してべそべそと泣きぐずりながらそう言う彼の様子を観察しながら、重陽はそんな彼を抱きしめたくてたまらない思いをぐっと堪え笑いながら応えた。

「まあまあまあまあ、いいですって。そう言う日って誰にでもありますからね。おれは酒わりに強い方なんで、ゼミの飲み会じゃこういうの慣れっこですよ。だから酔い止めストックしてるんです」

 屈託なく(見えるように)笑いながらそう言うと、彼はコップを両手で抱えながら目を瞠いて重陽を見つめた。

「お前、酒、飲むんだ」

「ええ、まあ……そんなに機会は多くないすけど、学祭の打ち上げとかゼミのコンパとかで。体重増えやすいんでレース前は遠慮してますけど、そうじゃない時は結構」

 ベッドの上に身を起こし、両手でコップを抱えている彼の喉仏が上下するのを見つめる。正直なところ性欲を持て余す。ひどく罪悪感を覚えて目を逸らし、隣に腰掛けて、彼の相棒とも言えるノートパソコンの乗った机の上に視線を移す。

 そして、無造作にそこへ置かれた一枚の写真に重陽の目は釘付けになった。

「先輩、おれの走った都大路のこと、覚えてますか?」

 コップを空にして口元を半袖で拭った夕真は、なんだかひどく苦いものを一生懸命に飲み込んだような顔で応える。

「ああ……覚えてるよ。大雪で、新幹線止まって。大変だった」

「……あの時、観てたんすね。言ってくれたらよかったのに」

 手に取ったそのL判の写真には、アスファルトに平伏し鼻血で雪を染めている自分の姿が捉えられていた。

「なんか……なんていうか、おれ、先輩に撮ってもらった自分の写真が好きです。こんな、情けないとこでも」

 自分が怒っているのか、喜んでいるのか、重陽には判別がつかない。

 ただ夕真のことも、彼の撮った写真も、とてつもなく愛おしいのだった。彼がどんな思いでシャッターを切ったのか、その瞬間の感情も、自分が地に伏して血を流したその瞬間の激情も、ただただありのまま、印画紙にはその全てが焼き付けられている。

「……ごめん」

 夕真はまた、いつかの自分がそうしていたようなへつらい顔で目を伏せて言う。

 あんたの「ごめん」なんてもう、耳にタコができるくらい聞いたよ! と暴れたい気持ちをぐっと堪えて、重陽はただ黙って手に取った写真を見つめる。

「……だって、お前はヒーローになりたいんだろ?」

 少しの気まずい間のあと、彼はそう言って続けた。

「俺はあの時、ギリギリでも間に合って、一目だけでも、お前が都大路の舞台を走るところが観られて嬉しかった。だからシャッターを切らずにいられなかったんだ。……でもそれって俺のエゴっていうか、単なる欲求だ。初めてお前のことを撮った時と同じだよ。撮られる側のことなんかなんにも考えちゃいなかった。俺はまた、お前が人に見られたくないお前のことをフィルムに焼き付けた」

 恥じるように、懺悔するように吐露した彼のことを、重陽はたまらず抱きしめた。

「……大丈夫です。大丈夫。おれは、先輩がそうやって本当のおれのことを撮ってくれることが一番嬉しい」

 腕の中にいる夕真は、力なく重陽の肩に額を預け、息を詰まらせしゃくり上げながら「ごめん」と繰り返す。

 重陽はそんな彼の両肩を掴み、少しだけ背を屈めて目を合わせ、覚悟を決めた。

「おれは、あなたのことがずっと好きでした。今だって好きです。先輩がおれのことどう思ってるとかはもうこの際関係ない。ただ、約束してください。あなたがこうして追ってくれてるおれがちゃんと箱根を走れたら、あなたは絶対に自分のことを大切にしてください。幸せになってください。それだけが、おれの願いです」

 酩酊して焦点の合っていない彼の瞳はそれでも、眼鏡の奥で戸惑いに揺れていた。

「き、喜久井……」

「はい」

「俺は、お前の、そういうところが、昔っから──」

「大っ嫌いでしょ? 知ってます。だから言ってるじゃないですか。先輩がおれのことをどう思ってるとかは関係ないって」

 彼は重陽の両肩を押して遠ざけ、俯いたまま黙っている。さしづめ「先を越された」とでも思っているんだろう。

 これに関してはきっと、彼が特別に不器用なわけではない。きっと自分が器用すぎるのだ。

 人の顔色を伺って、空気を読んで、先回りして、自分を殺して、冷や汗も脂汗もかいて、けれどそんなのをおくびにも出さず、へらへらとへつらって笑うことばかりが得意で。

 けれどそんな自分の走ってきた、ダメダメで情けない、地に伏して鼻血を垂らしてきた道が、彼のフィルムと心の底に焼き付いたのだとしたら──。

 重陽は生まれて初めて、自分の選んできた生き様を誇れるような気がした。

「──おれは、好きな人が傷ついてるとこなんか絶対見たくない。それって当たり前のことだと思いません? 先輩だって、まひるちゃんに変な虫がついたりしたらハラワタ煮えくりかえるでしょ」

 夕真はやっぱり頷いたままでいたけれど、黙って小さくこくりと頷いて見せた。

「そういうことです。好きな人には、ずっと幸せでいて欲しい。できればおれが幸せにしたいからヒーローになりたいって、ずっと思ってるんですけど」

 さすがに少し照れ臭くて頬をかく。夕真はまだ泣きべそをかいていて、ちょっともう話をするのは無理そうだ。

「もう遅いんで、おれも寝ますね。っていうか駅伝部はみんなフツーに先輩のこと心配してるんで、あんま無茶しないでくださいよ」

 そう言い残して彼をベッドの上へ横たえ、タオルケットをかけ部屋の明かりを消して部屋をあとにした。

「はあーー……言っちまった。やっちまったあ……」

 思わず独りごちて、暗い廊下にへなへなとしゃがみこんだ。ややすると自分の部屋のドアが少しだけ開いて灯りが漏れ出し、その隙間から御科が顔を覗かせる。

「──乙」

「御科氏〜〜〜〜っ!!」

 彼の少し陰気な顔を見ると驚くほど緊張が解れ、たまらず声を上げて自室へ駆け込み二段ベッドの下段へダイブした。

「布団の上で枕に顔埋めて悶えてるヤツが目の前にいるの草。黒歴史確定?」

「いやっ! まだそうと決まったわけではっ!」

 腕の力で上体を上げると、御科は「ひひっ」とシニカルな笑いを浮かべ、ゲーミングチェアの上で体育座りをしたまま左右にゆらゆら揺れていた。

「というか、ついに思いの丈を?」

「みなまで言うなし……っ!!」

 そして再び枕に顔を埋め、じたばたと悶えながら「うおおおおん!」と慟哭する。

 これまでも態度ではあからさまに好意を示してきたと思うが、言葉できちんと伝えられたのはなんだかんだで初めてのことだった。

 そうしたあとの感想は「甘く見ていた」に尽きる。

 言い訳のしようが全くない告白をしたあとの自分の内心は、取り返しのつかないことをしでかしてしまった! という後悔と、自分にできることは全部し尽くした! という達成感の半々だ。

 けれどどちらの感情も平時に抱くものの重量を軽々と超えてしまっていて、気晴らしにソシャゲのガチャに小遣いを突っ込むという発想もピンと来ない。ただただ、枕に顔を埋めて「うおおおおん!」と唸ることしかできない。

「……ま。でも控えめに言って、織部氏は今夜のことを覚えてないでしょ。このカシオミニを賭けてもいい」

 と少し呆れたような口ぶりで言って、御科はPCへ向き直った。

「やかましいわ。カシオミニなんかイマドキの大学生が持ってるわけないだろ」

 古のタネ銭文句に少し腹が立って、枕から顔を上げ反論する。

「あるよ。カシオミニ。こんなこともあろうかと」

 しかし御科はディスプレイから目を話すことなく机の引き出しを開け、もはや骨董品とも言える高機能電卓を取り出し重陽へ放る。

「マジかよ初めて見たわ……ぐうの音も出ん。御科氏オタクの鑑かよ……」

「まさに今この時! にしか役に立たんがな。……しかし、カシオミニのネタが通じる相手のためオークションで競り落とした甲斐もあるというもの」

 動画の編集を進めながらまた「ヒヒッ」と笑みを浮かべ、御科は肩を震わせる。「カシオミニ」は重陽の手の中で、絆だとか、運命だとかいう言葉の持つ光と同じ光度でその存在感を放っている。

「……御科氏は、生きてるの辛すぎワロタ。みたいなことってある?」

「ありよりのあり」

「どんな時よ」

「ガチャ爆死──」

「いやそういうのいいから」

 重陽が食い気味に遮ると、御科は背中で不満を語りながら黙って傍のボトルガムへ手を伸ばした。そして一気に数粒のガムを口の中へ放り、それを噛みながらやがてまた口を開く。

「──俺がここに来た時、丹後さんがもうダメになってたのを思い出す時」

 御科の発した意外な答えに、重陽は思わず顔を上げ彼の背中を見つめた。御科は、重陽に背中を向けたまま続ける。

「まあ、俺がヒイヒイ言いながら月あたり五百キロも六百キロも走ってんのは? タダの推し活の一環なんで? 別にどこでだって走ってたとは思うんですが。……でも、俺が走ることにそれ以外の意味と価値をくれたのはあの人だったわけで」

 容易に想像がつく。重陽にとっても丹後尚武は「そう言う人」だった。田舎で燻っていた自分を見つけてくれて、待っていると言ってくれた人。

「……わかるよ。おれも──」

「分かってたまるかよ」

 音を鳴らしながらガムを噛み、御科はもう一度重陽の言葉を遮った。

「織部氏が悪くないのは分かってる。知ってる。でも、丹後さんをああしたのは誰だ? いやもしかしたら、もともとそういう資質のある人だったかもしれないけど。でも少なくとも、トリガーを引いたのはお前の愛しの先輩だ。だから俺はたぶん、一生織部氏が嫌いだ」

 そんな御科の言葉に、重陽は何も言って返すことができなかった。きっと自分たちは同じ人に対して同じ苦い気持ちを抱いているに違いないのに、確かに彼の言う通り、自分には共感を示す資格なんておそらく一ミリもない。

「……変なこと聞いてごめん」

「ザッツライ」

「でも、答えてくれてありがとう」

「お、おう。いいってことよ」

 御科は少し意外そうに、戸惑ったようにそう応えて箱からティッシュを引き抜いて、その中にガムを吐き出した。

「──俺らから上の世代にとっちゃ、あの事件は誰が悪いで片付く問題じゃないでしょ。正解なんてどこにもない。建前上『ドラッグ、暴力、ダメ絶対!』って言うしかないわけだけど、内心の自由ぐらい許されたいもんですな」

 自虐めいた口ぶりで、けれど確かな主張を以って御科は肩を丸めてぼそぼそと発する。

「そうだよな。それは一応、理解してるつもり」

 重陽がそう答えると、御科は「ならいいよ」と寸前よりは少し穏やかな声で応えた。

「喜久井氏は森で、俺はタタラ場で暮らそう。共に生きよう」

「それ、ヤックルに乗って会いに来てくれる流れ?」

「バカ言うんじゃないよ。走っていくわ──と噂をすれば」

 彼の傍で震えたスマホを手に取り、御科はそこでようやく菊井の方を向く。

「丹後さんからラインだ。予選会見にくるって」

「嘘だろっ!?」

 思わず声を裏返した重陽とは対照的に、こともなげに言った御科は再びガムを口の中へ放る。そしてその糖衣をじゃりじゃりと噛み砕き、携帯に顔を向けたまま目線で重陽を一瞥してから、その画面を「ん」と重陽の眼前に突きつけた。

「俺は、タタラ場の住人」

 その画面には確かに「丹後尚武」の名前があり、頻繁にメッセージをやり取りしている様子が伺われた。

「絶賛保護観察付き執行猶予中。その保護司のあっせんで埼玉の某接骨院に業務委託で勤務」

「ずっと連絡取り合ってたの……?」

「まさか。捜したに決まってんだろ。でもあの人、施術の腕はさすがの一級品だぜ?」

 そう言って御科は少し得意げに口角の片側だけを上げて見せ、さっと重陽の目からその画面を取り下げた。

「ウチの首脳陣は対外的にこの人と関わり持つわけに行かないだろうけど、コーチは連絡取ってんじゃない? 知らんけど。別にわざわざ聞くことじゃないし、俺も話したいとは思わないし」

 重陽が一瞬だけ浮かべてしまった警戒の表情を、御科はきっと見過ごさなかったのだろう。まるで自分の殻に閉じ籠もりでもするかのように椅子の上で膝を抱え、高速の指さばきで返信を打つ。

「……心配しなくたって、織部氏があれからもDV野郎製造機なこととか今は三浦ハウスにいることなんかは言ってない。ただ、あの人がバイト先とか変えてないことについては俺は知ったこっちゃないからね。その辺のデモデモダッテに付き合う気はないから」

 そう言って御科はいつものギークな笑い声を上げ、またパソコンのディスプレイに向き直る。彼がごついワイヤレスヘッドホンを付けたのを、重陽は拒絶の一種と捉えた。

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