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きし方とゆく末②

 怒涛の更新率で居場所を報せてきていた喜久井の母は、ドアの窓ガラスにほとんど顔をくっつけたまま、どうやらお手製らしい青嵐大の応援小旗を振り夕真の目の前を通り過ぎて行った。

「……お分かりかと思いますが、あちらがうちの母でございます」

「分かった。完全に理解した。いいお母さんじゃないか」

 乗っている車両は報されていたものの、メリーさん──もといメアリーさんは自分たちの居た場所より少し先の降車口から新幹線を降りてきた。

「重陽! ゆーまくん!」

 喜久井と同じ赤い髪、そして緑の瞳の女性が、大きなスーツケースを引き満面の笑みで駆けてくる。そして彼女は息子よりも先に夕真をぎゅうっと力強くハグしたあと、慣れた仕草で喜久井と頬でキスを交わした。

「ああ、神様! 感謝します! やっとあなたに会えたわとっても嬉しい! はじめまして。重陽の母です。重陽が高校生の時からずうっとお世話になってたのに、今までご挨拶できなくて本当にごめんなさいね」

 夕真の知る限り喜久井家の公用語は英語だったはずだが、メアリーさんも日本語が話せないわけではないようだ。訛りはあるが流暢な口ぶりで、夕真の冷えた両手を握る。

「初めまして。織部夕真です。こちらこそ喜久井くんにはお世話になってます。僕もお会いできて嬉しいです」

 妹ともども……と言おうかどうか迷っているうちに、夕真もまた頬へ欧米式挨拶の洗礼を受けた。そして矢継ぎ早に、

「ゆーまくん、まひるちゃんそっくりでイケメンさんねえ! 女の子にモテるでしょ!?」

 とまた別のご挨拶を受けてしまい、見事に「はは……その節はどうも……」と目を泳がせながら愛想笑いを浮かべること以外を封じられる。

「ママ。あんまり先輩を困らせないで。まひるちゃんはまひるちゃん。先輩は先輩だから。それに、モテるとかモテないとか初対面の人に言うの失礼だからね!」

 喜久井がこれ以上ないほどに険しい顔で──しかし、母のスーツケースや肩にかけたバッグを息もつかせぬ動作で手に取りながら──忠告すると、メアリーさんは「オウッ」と声を上げて目を瞠り、その緑色の瞳にうるうると涙を溜めながら夕真の両肩を摩った。

「ごめんなさい。ゆーまくん。そんなつもりじゃなかったの。でも気を悪くしたわよね。本当にごめんなさい」

「ああいえ、そんな──全然気にならなかったですよ。彼はきっと本当にモテるから敏感なんでしょうけど、僕はその……妹と違って愛嬌がないので」

 夕真の脳裏に、あの頃二人でいた写真部の部室でのことがフラッシュバックした。

 走ることを「親孝行の一環」と言って、サルのおもちゃみたいに手を叩いて笑っていた、小さな小さな喜久井エヴァンズ重陽。彼があの時〝そう〟であった理由を、夕真は短い時間で瞬時に理解した。理解できてしまった。

 彼女は悪い人間じゃない。むしろ、愛情深い母親の鑑のような人だ。それが痛いくらい伝わってくるし、そんな母親のことがうざったくて鬱屈を抱えることだって、高校生にはありがちなことだろうと思う。

 だからこそ、彼ら親子が心の底から擦れ違ってしまっている──そして、まさに自分こそが彼女の愛しい一人息子を遠ざけることに加担しているのが悲しくて仕方がなかった。全部自分が悪いんじゃないか。そんな気がしてくる。

 気のせい。気にしすぎだ。それは分かっている。それも理解している。けれど、自分や彼がこの世に生まれ落ちるに至った愛情と遺伝子の連鎖が、夕真を責め立てて仕方がない。

「喜久井。大丈夫。ほんとに気にしてないから。むしろ『イケメン』なんて言われ慣れてないから照れちゃったよ」

 呆れと諦めと屈服の混じったような顔をしている喜久井には、そう言って笑いかけることしかできない。けれど彼の瞳には、ついさっきまで、本当の本当についさっきまで宿っていた光は、見出すことができなかった。

 東京駅から在来線に乗り換え上野に着くと、今度は喜久井の父が車で迎えに来てくれていた。国際政治を専門にしているジャーナリストだというのを聞いたことがある。

 畑は違えど同じ報道の仕事をすることになる夕真としては、現場の生の声を聞ける機会はいくらあってもあり過ぎることはない機会だ。そして幸いなことに、彼の父も夕真の写真に好感を持ってくれていた。

 ──幸い。というより、助かった。矛先が就職や進路の話に向いている間は、夕真と彼らの一人息子は単なる「被写体とカメラマン」であり「気心の知れた先輩と後輩」でいられたからだ。

 喜久井の祖父母宅。つまり彼の父の生家は、商店街の中にある老舗の仕立て屋だった。ショーウィンドウの一角には品格のあるスーツとともに、フレームに入った箱根駅伝のポスターと夕真の撮った予選会の写真を引き伸ばしたもの。それにスポーツ新聞のスクラップや喜久井家の家族写真などが飾られた特設コーナーが作られている。

「うわあ……ありがとうございます。こんなにいいところに、大きく写真を飾っていただいて」

 それは、夕真の心の底から出た言葉だった。最も敬愛する選手の家族にこうして誇らしげに自分の撮った写真を飾ってもらえるというのは、ひとりのカメラマンとして純粋に喜ばしいことだ。

「とんでもない! こちらこそ、うちの孫をこんな男前に撮っていただいて、お礼の言葉もありませんよ。あたしらも立川には応援に行きましたけどね、びゅん! ってすぐに通り過ぎていっちまうもんだから、こうして腕の立つ人に写真に残してもらえて有り難いったらない!」

 そう言ってくれたのは、現役のテイラーだという喜久井の祖父だ。その横でにこにこと頷いている彼の祖母は、目元の優しいところが喜久井によく似ている。

「……ふふっ」

 改めて見てみると、喜久井は両親と祖父母の顔立ちが見事に折り重なり混じり合った顔つきをしている。それがなんだか微笑ましくて声が出た。

「どうしました? 急に笑い出して。あ、玄関そこ段差キツいんで気をつけてください」

「いや、悪い悪い。なんかやっぱお前、ご両親にもお祖父さんにもお祖母さんにも似てんなって思って。それに、前に見せてもらったお母さん側の親戚も似てたし」

「そうですか? 確かにママ側の親戚とは全然見分けつかないってよく言われますけど……あ。でも、高二までは小柄だったし、パパの面影強かったかも」

 喜久井はそうして、誰の前でも臆面なく両親を「パパ」「ママ」と呼ぶ。二十歳を過ぎてもずっとそうだ。織部家はそもそもずっと「父さん」「母さん」の家なので一概に比較はできないが、自分の家族愛に自覚とプライドがないと、なかなかこうはならないんじゃないかと思う。

 店舗の奥にある住まいへ通されると、ドラマの再放送でよく見るような住居空間が広がっていた。

 居間にはこたつがあり、その上にはみかんの入った籠があり、花模様のガラス戸で仕切られた台所兼お勝手と、襖で仕切られた客間がある。三浦ハウスほどではないにしても、相当にトラディショナルな間取りだ。

 手洗いうがいもそこそこに通されるがままこたつへ入ると、次から次へとご馳走が出てきた。大晦日の食卓で、駅伝と写真と、家事と仕立てと、商売と報道の話をした。楽しかった。どんな話を聞いても、喜久井家はとても幸せな一家だった。自分の家と同じように。

「──そう! まひるちゃん、山梨の女子体へ進んだのね! 彼女、お正月はご実家? 箱根には応援に来ない?」

 流れでまひるの話になるのは自然なことだった。

「はい。フィールド競技はシーズンオフなので、自主トレはしてると思いますけど年末年始は実家のテレビで駅伝ざんまいでしょうね」

 おばさま。普通、何年も前の元カレの応援には来ませんよ……。と喉元まで出かかったがどうにか飲み込み、事実を述べるにとどめる。

「そうなの。久しぶりにまひるちゃんにも会いたかったけれど……でも可愛い子どもたちが二人ともいないんじゃご両親やおじいちゃまが寂しいものね。ゆーまくんも、たまには帰ってあげてね。あなたたちもよパパ! 重陽! ママがおうちでどれだけ毎日寂しい思いをしてるの思ってるの!」

 少しだけれどアルコールの入った彼の母は、輪をかけて口数多く率直に愛を語る。

「もうそれ耳タコだよママ。っていうか、盆と正月には東京で会ってるんだからいいじゃん。フツーそんなもんですよねえ? 先輩」

「まあ、うん……実家から離れて進学した学生とか、寮暮らしならそんな感じですかね……」

「うそでしょ!? 信じられない!! そんなの、どこのお母さんも『寂しい』って思ってるけど言わないだけよ!」

「……だってさパパ。フリーランスなんだから、たまには休み作って帰ってあげなよ」

「全くもってぐうの音も出ません」

 つとめて気配を消していたと見える。彼の父は口をつけようとしていたお猪口を置き、面目なさそうに背中を丸めた。

「でもね、ママ。あの小さくて引っ込み思案だった重陽がこんなに逞しくなって、僕らの目の届かないところでこんなにいいお友達を作って、それだけで充分幸せなことだと思わない?」

 そして彼は、優しい口調で妻へ語りかける。その声や眼差しを、確かに夕真は知っていた。何度も聞いたことがあった。見たことがあった。

「……買い被りですよ。駅伝部は、僕よりずっと気のいい奴らばかりです」

 こんなにいいお友達。最初からずっとそういられたら、この瞬間はどんなにか楽しかったろう。と夕真は、除夜の鐘を聞きながら夢想せずにはいられなかった。

 例年であれば「ゆく年来る年」が始まったのを合図に初詣へ出かけるらしい。しかし今年は喜久井が大一番を控えているので外出は控え、そのままこたつで「明けましておめでとうございます」と恭しく頭を下げあってお開きとなった。

「重陽。押し入れにもう一つ電気ストーブあるから、寒かったら点けるんだよ。織部さんも、何かあれば遠慮なく言ってやってくださいね」

 客間に寝支度を整えてくれた喜久井の祖母は「おやすみなさい」と静かに襖へ手をかけた。夕真と喜久井もそれぞれ「ありがとうございます。おやすみなさい」「おばあちゃんおやすみ」と挨拶をして、何とはなしにお互いを見る。

「明日、ニューイヤー駅伝観るなら朝早いだろ。さっさと寝よう」

 目を合わせはしたものの、後ろめたさが溢れて来てすぐに下を見た。

「乾燥機かけてもらったばっかりだから布団もふっかふかで温かいし、柚子湯までもらったし、秒で意識なくなりそうだ」

「ほんとですね。ここんちもまあまあ古くて冷えるけど、三浦ハウスに比べりゃ新築ですから」

 贅沢言えませんけど。と付け加え、喜久井は満ちたりた声でくすくすと笑った。

 愛って、なんてきれいで温かいものを生み出すんだろう。と感じる。厳かな心持ちだ。母親とは距離が近過ぎたあまりか折り合いがつかないことも多いんだろうが、それでも喜久井は彼女から大切に大切に扱われ、そして彼の父も、祖父も祖母も、みんな喜久井のことが何よりも大切なのだと痛感した半日だった。

「それじゃ、電気消しますね。おやすみなさい」

「ああ。おやすみ」

 照明が落とされると、天井の高い客間は深い闇に沈む。襖の向こう側ももう、明かりは消えているようだった。

「えへへ。一緒に寝るの初めてですね。緊張するなあ」

「今年も去年も夏合宿で雑魚寝しただろ」

「いやあれはノーカンでしょ。っていうかキツ過ぎてそれこそおやすみ三秒でしたもん。先輩はいつまでも夜更かしして記事書いてるし。そういやちゃんと寝顔見たことないです」

「お前、よりにもよって自分の親戚んちで何バカ言ってんだ。TPOってもんを弁えろよ」

「だぁいじょうぶですって。パパとママは夫婦水入らずで初詣に行きましたし、じいちゃんはお得意さんと飲みに行きましたし、おばあちゃんはもう二階の寝室です」

 一つ一つ外堀を埋めでもするように発しながら、喜久井も夕真の隣の布団に入る。

「わ。ほんとだ。布団、ふっかふか」

「だろ? だからさっさと寝ろ」

「それは無理でしょ」

「俺はもう寝た。はい爆睡」

「いや起きてる起きてる。鉄板ギャグあざーす!」

 うるっせえな……と心の底からイラっとしたが、同時に、深い闇の中に懐かしい光景が浮かんで見えた。

 グラウンドの見下ろせる、真南に向いた写真部の部室。真昼の暖かい陽の光が、彼の赤い髪と緑の瞳をきらきら照らしていてきれいだった。

「……喜久井」

「はい。なんでしょう」

「どうしてまひるじゃダメだったんだ?」

 夕真は天井を見つめたまま尋ねたが、喜久井がもぞりと寝返りを打ちこちらを向いたのが分かった。

「どうしても何も……フラれたのはおれですけど」

「それは知ってる。まひるにも何年か前に聞いたよ。……でも、好きでい続けることだってできたはずじゃないのか。まひるを選ぶことだって──」

「ごめんなさい。……それについては、おれも先輩に謝らなくちゃいけない」

 少しだけ暗さに目が慣れて来た。首だけ少し横へ傾けて喜久井の方を見ると、彼は羽毛布団に包まったまま、体ごとまっすぐ夕真の方を見ていた。

「まひるちゃんのことは好きでした。でも、一番じゃなかった。あの頃もおれが一番好きなのはずっと先輩で、でもあのハーフの日に先輩に『迷惑だ』って言われてちょっと〝あてつけ〟みたいな気持ちもあった。……大切な妹さんに不誠実をはたらいてしまい、本当にごめんなさい」

「……そうなんだ」

 薄々、そうなんじゃないかと思っていた。けれど彼自身の口から聞くと、改めて腹立たしい。

 一番じゃなかった。というのは自分もどうこう言えた口ではない。それは百も承知だ。けれどあの頃「重陽先輩に告白された!」と満開の笑顔を咲かせて喜んでいたまひるの愛くるしさを思い出すと、喜久井の行った「不誠実」はどうしても不愉快だ。あの時は、自分も辛くはあったけれど。

 つまり、そう。それだけ夕真も、家族のことが大切だ。愛しく思う。

 だからこそ、もし万が一まひるが卯木と「添い遂げたい」と言い出したら──夕真はきっと、味方になってやりたいとは思うが「よく考えろ。俺には勧められない」と忠告するだろう。

「でもまあ、いいよ。それは済んだことだ。まひるだって、そんな何年も前のこともう気にしてない。だから、俺が聞きたかったことはそういうことじゃないんだ。言いたかったのも、そういうことじゃない。俺が本当に言いたいのは──」

 不安げな喜久井の顔が、暗がりの中に薄く見える。考えに考えた結果のことを、今ここで言わないことの方がそれこそ「不誠実」だと思えこそすれ、やっぱり目を見て告げる意気地はなくて夕真はまた天井を見る。

「──俺には、本当の意味では、お前を幸せにすることはできない。ってことだ」

 二組の布団の間に、分厚い沈黙の壁ができたような気がした。微かに除夜の鐘と、年越しで羽目を外しているのであろう酔っ払いの歌い声が聞こえる。

「本当の意味って……ごめんなさい。ちょっと何言ってるかよく分からないです」

 寸前の殊勝な声色とは打って変わって、怒気が滲んでいた。

「おれ、先輩に『幸せにして欲しい』なんて言ったことないでしょ」

「俺はお前には幸せになって欲しいと思ってる」

「それは嬉しいですけど、じゃあ──」

「喜久井。愛してるよ。お前を好きになれたことが、俺が生きて来た中で一番の宝物だ」

 初めてきちんと口にした。言葉にして発すると、気持ちというのは何倍にも膨れ上がり心という器から溢れて止まらなくなるのだというのを、夕真はこれ以上はないというくらいに実感した。

「だから、俺はお前の家族を不幸にしたくない。戸惑わせたくもない。そうしないようにお前が今までどれだけ必死に生きて来たか、知ってるから」

 喜久井はしばらく黙っていた。言葉を選んでいるような沈黙だった。除夜の鐘も、調子っ外れな酔っ払いの歌も、もう聞こえてはこない。

「……おれの家族をナメないでもらっていいすか」

 喜久井は、いつになく剣呑な声で応えた。

「そりゃ確かに、おれが男の人を『恋人です』って連れてきたらみんなびっくりするし戸惑うとは思いますよ。でも、おれの家族の幸せは、おれが幸せでいることです。じいちゃんばあちゃんは昔の人だしママは敬虔なカトリックだけど、ちゃんと話せば理解してくれない人じゃない」

「俺もそれは知ってる。でも、その時になってみないと分からない」

「いや、知らない。絶対知らないです。っていうか先輩、自分の頭にブーメランぶっ刺さってんの気付いてます? あなたの家族には、あなたの幸せ以上に大切なものがあるとでも?」

「そんなことはない。それぐらい俺だって理解してるさ」

「いいえしてませんね。ちっとも理解なんかしてない。第一、おれもあなたも何も悪いことなんかしてない。胸を張って生きていけないなんて道理があっていいわけがない。こんなことでケンカしなきゃいけないこと事態がまず『くそくらえ!』って話なんですよ」

「ああ。そうだ。お前の言うとおりだよ喜久井。俺だって思うさ。『くそくらえ!』ってな。──分かってる。全部知ってる。理解してるんだ頭では」

 喜久井はこんな時、いつだって正しいことしか言わない。それに救われることもあったとは思うけれど、どちらかと言うと傷ついて来たことの方が多かったかもしれない。

「……でもごめん。お前の言ってる正論が、なんだかすごく痛いんだ。たぶん、臆病なんだと思う。傷つきたくないんだ。でも、これが俺だから。きっと、変わらないから」

 こんな文脈でしか「愛してる」と言えない自分を、夕真は好きか嫌いかで判断できなかった。ダメなところだとは思うけれど、仕方がないとも思う。何かをさぼってこうなったわけではないからだ。

 夕真は夕真なりに、ベストを尽くして生きて来た。最高の初恋に落ち、最高の失恋をして、思い上がりかもしれないが、この世に「喜久井エヴァンズ重陽」というヒーローを生み出すのに一役買った。

 その上でまだこんなに心が痛みを訴えるのなら、彼の手を取って生きていくことは、少なくとも今の夕真にとっての「幸せ」ではないんだろう。それに、自分が傷ついたのと同じ分だけ相手のことを傷付けてしまうのも怖くて仕方がない。

「──わかりました。全然わかりたくねーけど。ひとまず、そちらの主張は把握しました」

 恨めしそうな眼差しを頬に受け、居た堪れなくて背中を向けた。

「でも先輩。おれ、まだ箱根駅伝走ってませんから」

 そんな卑怯者の夕真の背中に向け、喜久井は宣戦布告でもするように言ってのけた。

「ゴールで待っててください。絶対に、誰より速く駆けつけますから」

「……意気込みとして聞いておく」

 ここで「待ってる」と言える自分だったらどんなによかったろう。と思わずにはいられなかった。けれどそういう「理想の自分」でいられる人間が、一体この世にはどのくらいいるんだろうか。

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