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Ready steady go

 青嵐大学駅伝部が初めて走った箱根駅伝の成績は第十位となり、翌年のシード権を獲得した。しかし、それはそれとして。

「十区の選手がゴール直前で行った、相手を煽るようにも見えるあの行為はいかがなものか」

 であるとか、

「ゴールテープの向こうにいた学生記者。彼はなにをふざけた声援を送っていたんだ?」

 であるとか、

「いやいやふざけちゃなんかいない。あれは純愛だ」

 であるとか、

「それで結局、あの二人は恋人同士なのか?」

 であるとか、まあとにかく。

 相も変わらず青嵐大駅伝部はネット上を中心にさまざまな論争を呼び、誰かにとっては最高のヒーロー、また別の誰かにとっては最低のヒールだったりする。

「でもさあ、タマっちのプロポーズはともかくとしてだよ。喜久井がぬけぬけ病でストップしちゃったのはしょうがなくない? 結局あれがあの時できたベストな対処法なんだしさあ。煽ってるっていうのはちょっとひどかったよ」

 ユメタ主務は、卒業式を迎えてもまだそんなことを言って口を尖らせている。

「コラとかめっちゃ作られたしな。片っ端から通報してやったけど。ってか俺らのショーゾー権はどこいっちゃったんだ?」

 ノブタ主将もまた、ユメタ主務とおそろいの紋付袴で首を捻った。

「一般的に、競技中選手の撮影はプレーの妨げにならない限りは触法しないな。公開もそうだ。ただ、競技中の写真でも誹謗中傷にあたるようなコピーをつけてSNSにアップしたり、あとエロ目的の撮影は当然NGだ」

 紋付きの双子に挟まれたスーツ姿の夕真は、二人の疑問にそう答えて眼鏡のブリッジをついっと上げて見せる。

 固そうなシャツの袖口から覗く華奢な手首は実にセクシーだが、曰くエロ目的の撮影は触法行為なので重陽はそれを自身の網膜に焼き付けるにとどめた。というかそもそも、夕真はアスリートではなく私人だ。

 三月を迎え、兄弟の卒業と引退をもって三浦ハウスは解散となった。この囲炉裏のある築九十年の古民家は、四月から正式に青嵐大学陸上部長距離部門寮「三浦寮」として運用される。

 旧三浦ハウスの住人のうち、夕真を含む四年生は全員退去。代わりに地方からの新入生が三人と、大学側と正式に長距離部門の監督として契約を交わした土田(元)コーチ。それに、アパートで一人暮らしをしていた有希が新たに入居することになっている。実家組は変わらずだ。

 夕真は就職先の近くに新居を借りた。三浦兄弟が立て替えていた諸々の借金は実際のところとっくのとうに返済は終わっていて、余った分の働きに対して支払われたギャランティで彼は新居で使う家具を購入──するのかと思いきや、カメラのレンズを買っていた。浪費が心配でたまらない。

 そんな次第で、彼の新居にあるのは三浦ハウスで使っていてそのまま譲ってもらった古い折り畳みベッドとテーブル、それに、御科のおさがりである壊れかけた本棚だけだ。

「殺風景を通り越して、座敷牢感すらある……っ!」

 あっという間に引越しが完了した夕真の部屋の有様を見て、重陽は正直なところ少し引いた。

「先輩! もっとこう、ねえ! フレッシュな新生活を楽しみませんか!?」

「残念ながら、当面そんな暇はない。会社の仕事と個展の準備にてんてこまいだよ。どうせ寝に帰ってくるだけだし、布団さえあればいい。まであるぞ」

 と言って夕真は段ボールから厚紙のストレージボックスや印画紙を取り出しては、丁寧に、几帳面にラベリングして棚へしまっていった。座敷牢感の否めない部屋ではあるが、その一画だけはなんだか懐かしくてほっとする。

 夕真が三浦ハウスに合流した頃から撮り始めた駅伝部の写真は、ずっと部のSNSと「ファンナーズハイ」のフェイスブックで公開されていた。その写真で個展を開かないかと夕真に声をかけてくれたのは、青嵐大のOBでもある夕真の就職先の社長だという。

 はじめは「プレッシャーで胃袋ひっくり返りそう」と言っていた彼ではあるが、高校の卒展以来になる個展の準備はなんだかんだで楽しそうだ。重陽自身は〝ぬけぬけ病〟のせいでまた思うように走れない毎日が続いているので、少し羨ましい。

「あのー……なんか、お手伝いできることあります?」

 楽しそうに写真用品の整理をしている彼を眺めているのはもちろん飽きないが、やっぱり少し手持ち無沙汰になった。

「じゃあ、晩飯食えるところと風呂屋探してくれるか。ガスの開栓、間に合わなかったんだ」

「了解です。ご飯、なに食べたいです?」

「なんでもいいよ。お前の好きなとこで。……あ、でもどっかビール飲めるとこがいいな」

「えー? 先輩泣き上戸だからなあ」

 夕真は、これでなかなか結構な酒乱だ。秋口にコンビニで拾って帰ってきた時もそうだったけれど、大学の送別会シーズンはしょっちゅう三浦兄弟から「お前のダーリンどうにかしろ!」とクレームを受けた。

 でもまあ、それはそれ。これはこれ。念願かなって公式(?)に「ダーリン♡」呼ばわりできる幸せは、今でもたまに「夢か? それかおれ、もしかして死んだ? ここは天国?」と錯覚することもしばしばである。

「くれぐれも飲みすぎないようにしてくださいよ。連れて帰ってくんの、結構大変なんですから」

 たとえば、こんな小言を言える時とか。ごくごくたまーに、手をつなぐ時とか。

「そこはお前が見張っててよ。ってかそうだ。そもそも帰ってくんのも面倒だし泊まりゃいいのか。風呂も入れるし」

「え、今から旅行ですか? 箱根とか? 振り返り取材?」

「は? いや、どっかそこへんのホ──」

「ほ?」

「──なんでもない忘れろ今すぐ忘れろシャワーは水でいい!」

 なんだこれは。夢か? とさっそく思う。高校生のおれよ。見てるか!? と過去の自分に向かって、重陽は大きく手を振る。

 彼の顔が耳まで真っ赤なのはきっと、今が夕方でカーテンのかかっていない窓から西日が差しているからばかりではないはずだ。

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