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なぜ日本人は魚介類を食うのか

何故日本人は魚介類をこんなにも食べるのか

◇最初の考察 

そもそも日本は土地が狭く土壌が豊ではなくて肉にする家畜を育てれておらず肉類も昔の人々は食べれていなかったから。そして海の方が広いから

◇まずは食肉事情について考えてみよう。

●豚肉について
そもそも養豚が始まったのは江戸時代からだそうだ。イノシシは旧石器時代から狩猟され食べられていた。
弥生時代には家畜化された豚が中国大陸から持ち込まれたらしい。

しかし,仏教の普及とともに食肉そのものが徐々に避けられるようになり、平安時代には日本で豚を飼育する文化はほぼなくなった。
例外は琉球(沖縄)と琉球から養豚を取り入れた薩摩藩(鹿児島)
明治時代になると世間一般にも豚肉料理が広まり、よく食べられるようになった

●牛肉について
弥生時代に、朝鮮よりやってきた渡来人が牛肉を食べる文化を日本に伝えたらしい。飛鳥時代以降、農耕や宗教などの理由から日本ではたびたび
「肉食禁止令」が出され、肉食の禁止をしていたという記録がある。江戸時代には高価な滋養の「薬」として牛肉を食べる文化があった。
一般に牛肉が食べられるようになったのは明治の文明開化以降

つまりは100年ちょっとしか豚肉や牛肉を食う文化が無かった。

●鶏肉について
家鶏が日本に伝来したのは農耕が始まった弥生時代。養鶏は奈良時代からだそうだ。鶏肉が広く食べられるようになったのは江戸時代になってからのこと。
古墳時代から飛鳥時代までは卵を取る目的で鶏を飼育し、その後卵を産まなくなった鶏を食べる習慣があった。また飛鳥時代からは宗教の関係で肉食が禁じられた。

平均身長について
太古の古墳時代,日本人の平均身長は男性 で163㎝,女性で151㎝だったが,江戸時代 には男性で157㎝,女性で145㎝
牛肉や豚肉を食べれないインド人も平均身長が160cmほど

◎時代ごとの食事について

〇縄文時代
稲作はまだしていないため米などはない。狩猟や採取をして食事を確保していた。狩りもとれないときがあるため魚や貝をよくたべていた。貝塚は日本列島に2500箇所。獣よりは魚をよく食べていたようだ。縄文時代後半では網で漁猟もしていた。

〇弥生時代
普段の食事は雑穀ひえ粟、麦と魚、三菜を食べていた。
弥生時代は1300年もあった。中国から稲作が伝わり稲作が始まった。口噛み酒も造られていた。稲作で川から水を引いたので魚もとりやすくなった。
小豆や大豆、モモ、アンズ、スモモなどの果実やスイカやカボチャなどのウリ科も栽培されていた。豚を飼う習慣もついた。

〇古墳時代
三菜類、魚、干物、ドングリ、野菜スープ 貴族はツボで蒸した玄米、口噛み酒、漬物、魚や肉、三菜、あんこ餅や木の実果物を食べていたそうだ
魚を土器で蒸して食べたりもしていたようだ。稲作の技術を底上げした。馬が渡来してきたのは弥生末期ごろ。馬が農作に使われるようになった。
弥生時代までは炉で調理をしていたが竈で料理するようになった。迷信で稲作中に肉を食うと収穫がよくなくなるというものがあって肉を食わなかったそうだ。鹿やイノシシは田んぼなどを荒らすので出たら狩って食っていた模様。

〇飛鳥時代
牛乳は身分の高い人しか食べれていない。魚や酢の物をたべていた。一般の農民は稲やトウモロコシ、小麦を食べていた
飛鳥鍋→鶏肉白菜ネギジャガイモ牛乳をいれた鍋

〇奈良時代
雑穀、貴族や豪族は一汁三菜。農民はそこまで食べれてない。雑穀と漬物とか。牛乳は飛鳥時代からあったそうだ。
肉食禁止令はでていたが守られていなかったようだ。田んぼをあらすイノシシやシカを狩れたら食べていた。
ソーメンやせんべいの元になるものがあった。卵も一時期仏教で禁止されていたが殺生に値しないことになった。砂糖が輸入されたのは奈良時代。
平安末期ごろか鉄や高温で焼いた陶器や瓦器の釜が普及してきて、お米を「炊く」ようになり、炊いたお米は柔らかいので、

〇鎌倉時代
玄米主食、味噌汁(カブ,大根、サトイモ)お吸い物,魚
※梅干しと納豆、醤油がここで登場、味噌も一般的ではなかった。この時代は米は炊かず土器で蒸した玄米を食べていた。昆布だしは、鎌倉時代から室町時代(1300年代前半)に生まれた

〇室町時代
貴族は白米、武士はあらびきの玄米一般は雑炊、雑穀ご飯、武士は一日二食で玄米五合。醤油と砂糖が普及し始める。それまではお酢で刺身を食べていたそうだ。貴族の間では肉が食べれない分乳製品が人気だった。酪や蘇と呼ばれるものを食べていた。この時代牛乳も税の一部だった鰹だしは、室町時代前半

〇安土桃山時代
雑炊メイン、一汁三菜の食事。懐石料理的な感じ。これまで武士などは冷めた料理を食べていたがやっとここで温かい料理が食べられるようになったとか。鶏肉も食べるようになったのはこの時代。ポルトガル人の渡来で彼らが鶏肉や卵をおいしそうに食べるのを見て日本人もいっせいに食べ始めたパン、天ぷら、カステラ、ワイン、タバコも南蛮から渡ってくる。かぼちゃ、さつまいも、唐辛子もこの頃輸入された。一般には出回らなかった

〇戦国時代
玄米、ひえや粟 雑穀、野菜。漬物。味噌は庶民にも食べられていた。一回の食事で農民が食べる主食は2~3合。白米は年貢。

〇江戸時代
玄米ご飯メイン。うなぎのかば焼きは江戸時代から そばもあるがうどんのがメジャー、軽食でお菓子扱いだった。天ぷらが流行ったのも江戸時代中期。1日3食たべるようになったのは江戸時代から。

〇明治,大正時代
西洋料理が入ってくる。あんぱんなど日本人に合うものが流行ったので日本人向けに改良された洋食がはやった。
牛肉は明治時代文明開化で明治政府が国民の体格をよくしたくなって牛肉を食うように広めようとした。牛は農耕で使っていたので今まで食べられていなかった。

牛鍋は幕末からあったがやっとこの頃になって広まる。すき焼きもこの頃からでてくる。牛丼などの店も増えた。トンカツも牛肉が流行りすぎて不足したので豚へと移行、
ライスカレーもイギリスから伝わったカレーを米にかけた。

※参考文献 ユーチューブ ゆっくり歴史グルメなど

◇魚を食べる理由

牛馬を放牧するより稲作を優先してきた。日本は国土が狭いので、牛馬一頭を放牧する土地面積を考えると、米を栽培した方がはるかに生産効率がよい
明治の文明開化まで肉をほとんど食べなかった日本人の副食は、野菜と魚が中心だった。

日本列島は南北に長く、海、山、里に囲まれているので、さまざまな野菜や魚が豊富に手に入る。そうした自然の恵に支えられ、多彩な食材で作られてきたのが和食である。かつ日本は海に囲まれた島国であり、魚介類が豊富に採れた。

地理的な理由だけでなく、節目や祝いの席で、海産物に独自の意味を与えて重宝した。昔から魚を捕る機会は多く、縄文時代中期(約5000-4000年前)からすでに魚食をしていた記録が残っている。親潮と黒潮の流れが小魚を沿岸近くに運び、それを追って大きな魚たちが集まってくるので、豊かな漁場が沿海に数多くあった。

日本は国土の中央に山脈が走っており、年間2000ミリ近い雨量があります。大量の雨は山脈で分かれて太平洋側と日本海側に多くの川を形成しながら流れ落ちこれによって清流にアユ、ウグイなどが育ち、淡水魚にも恵まれた。
さらに稲作民族なので水田のために用水池や沼があり、そこにも魚がいるという状況であり、今から100年ほど前まで日本人はほとんど肉食をせず、魚を主な動物性たんぱく源としてた。

和食は7つの主材と1つの副材で成り立ってる。主材とは根菜類、菜っ葉、青果、山菜、大豆を主とする豆類、海藻、米を主とする穀類。
これに副材である動物性たんぱく質、つまり魚・肉・卵などが加わる。魚は動物性たんぱく質のなかでも日本人が長い歴史の中で食べ続けてきたという点で、和食文化には重要な存在だった。

動物への畏敬の念と愛護精神が強い日本人は、飢饉のときですら四足動物を食べなかったといわれる民族だったが、
魚だけは命をいただくことへの感謝を持ち、はらわたや骨まで無駄にせず食べてきたのです。クジラも隅々まで利用していたとか。

まとめ

ようするに日本は昔仏教があったために肉食は禁じられていたし、ジビエ類も頻繁には撮れず川や海でとれる魚の方がより入手しやすかったため。
牛や馬は農耕などで使っていたので食べていなかったから。

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