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#34 だから、全然OKじゃん!

 
バレーボールに熱を向けていた時期があった。
小学校4年から、中学3年までの間のことだ。
年齢で言えば、10歳から15歳。
多感も多感。
多くのものを、スポンジのように吸収する時間だ。

小学校で入ったクラブは、例年都大会出場しているようなチームだったこともあり、わたしは、学校が終わると、毎日チームメイトとバスに乗って練習に向かった。
加え、土日は試合or練習試合。年末と正月の三が日以外は練習、という練習づけの日々。

そんなチームで長らく指揮をとるのは、今の時代であれば即刻首が飛ぶであろう、ビンタ&蹴りが当たり前のように飛んでくるような監督だった。

30年も前であるから、痛みなど覚えているわけがない。
覚えているのは、その監督の下でバレーボールができて良かったと思える、幾つもの明るい記憶だけだ。

なぜなら監督は、ビンタも蹴りも向けてくる、現代では生きるのが難しい類の指導者であったが、わたしたちメンバーに、自分の時間というものを惜しみなく与えてくれたことは、確かだったからだ。

わたしたちが練習ばかりの日々を過ごすということは、イコール監督も同じ時間を過ごすということ。
加え、監督は、バスで体育館へ通うわたしたちを、練習後には、自家用車のバンに乗せ、ひとりひとりの家まで送り届けてくれた。
それこそ、連日、連夜だ。
試合でも、練習試合でも、古いバンにメンバーを乗せて。
確実に乗車人数オーバー。
窮屈で、食べ物や汗やたばこの匂いが充満する空間であったにも関わらず、全くもって不快ではなかった。

笑いや会話が途切れない日もあれば、試合前の緊張で車内が張り詰めた空気に染められていた日もあった。
勝利の興奮に、皆でバンの中で熱唱する日もあれば、監督の不機嫌さが、車内を重くする日もあった。

けれど、わたしたちの会話に、監督が声をあげて笑うとき、わたしたちはよく目配せをしながら、なんとなく嬉しい気分になったものだった。

時間も、感情も、景色も、経験も、本当に多くのものを共有した。
4年生から6年生にかけては、間違いなく、親よりも一緒にいた大人だった。

誰かに自分の時間を与える。
それが意味することを、当時は分からなかった。
それは、わたしが、子ども時間を存分に生きていた証だから、分からなくて良かったことだと思う。

けれどやはり、家庭を持ち、まだ幼きお子さんがいながら、膨大な自分時間をわたしたちに向けてくれたことへの感謝は計り知れない。

しかも監督は、周囲の大人たちとの交流をうまく取れていない人として、わたしたちの目には映っていた。
実際、変わった人扱いされている感は、色濃かったように思う。

けれど、ひとりでいい。
周りから自分がどう見られるかなんて、どうでもいい。
監督を象っているようなそんな自由奔放な佇まいを、わたしはひどく好んでいた。

きっと、そのような神経を持ち合わせていなければ、わたしの両親を含め、試合の度に応援にかけつける親たちの前で、その子らに往復ビンタをかますことはできないだろう。

指導という名目でのビンタを賞賛しているわけではない。
言葉だけで、こどもたちの意識を高めてゆく方法を選ぶことはできるし、それが立証され、そこにこそ価値があるという時代にもなってきてもいる。

けれど、わたしは、何度叩かれても、監督を嫌いになることはなかった。

なぜ……?

そこをじっと覗き込むとき、やはり、自分の時間を与えながら、その時の自分のベストだと思う(であろう)やり方で、真摯にわたしたちと向き合ってくれていた、ということが、子どもながらも感じ取ることができていたからだろう。

だから、人の輪の中で生きることを好まないような偏屈の塊のような監督でも、誰かが監督の影口を口にしている場面に遭遇するたびに、わたしたちは、監督が声をあげて笑ったときに目配せをして笑い合った時と同じように、影口をいった人へ怒りを抱いて、その人を睨みつけたりしていた。

きっと、大切だったのだと思う。

当時は、その不可思議な関係性について、思いを馳せることはできなかったけれど、大切だから、誰かが彼のことを悪く言うと怒りが湧いたし、彼が声をあげて笑うと、ただ、ただ、嬉しくなったのだろう。

そんな、小学校時代の監督と別れ、チームメイトとともにあがった中学校も、都大会出場常連校。そして、そこにいた監督も、ビンタ&蹴り炸裂指導の監督だった。

わたしはキャプテンだったこともあり、理不尽なビンタの雨を多く受けた。
大きな手が飛んでくる瞬間、下手に避けると鼓膜が破れる、という例を知っていたので、叩かれているときは、いっそ前にでて、雨が止むのを待った。

それでも「あきらかにとばっちりだろ……」という思いが過るとき、足は後退した。
後退しても追ってくる大きな掌に圧され、後退して、後退して、体育館から転がり出てしまったこともある。
今思い出すと、情けなくて、なかなか笑える。

けれど、やはり、小学校の時と同様に、叩かれても、わたしは、監督への不満を持つことはなかった。

単に、麻痺しているだけ。
そのような指導に疑問を持つ前に、それが当たり前になってしまったから。

もしかしたら、そういうことなのかもしれない。

けれど、わたしは、当時、そのチームでバレーボールができた自分の時間を、今でも大切な時間だったと思っているものだから、当時のことは、それすらも込みで、良き時間だったと思えるのだ。

弱小チームで、ビシバシ叩かれるなら、その関係性に納得するのは難しかっただろう。
けれど、わたしたちは、区内では負け知らずだった。
重ねた練習で得た自信から、負ける、という気が過ることすらなかった。

当時のルールは6人制で、15点先取で、2セット先取勝ち。
相手によっては、サーブのみで勝利できる試合も、少なくなかった。

サーブを相手コートに入れ、相手がレシーブをして、攻撃を組み立てるのだが、攻撃の大元のレシーブが乱れれば、ベストな攻撃が生まれないのは必至。

毎日の練習に加え、中学では朝練もできたから、小学校からのチームメンバーは皆、狙った場所に、確実にサーブを打つことができた。
レシーブが得意ではない選手を見つければ、そこへ、確実に、何度も。

ネット越しに、一点集中された、相手の子の心が折れてゆくのが見える。
顔が曇り、半泣きになる子もいる。
その子の波動に比例して、相手チームの士気が落ちてゆくのも、手に取るように分かる。

無論、15点分、たったひとりに向けサーブを放つことはしない。
取って4点。
次いでコースを替える。

「5」

チームメイトがサーブを打つ前に、わたしが指示を出せば、サーバー(サーブを打つ人)は確実に5番の元へとサーブを放つ。
相手の5番は、自分のところへ飛んでくる、と身構えることで、身体も心も緊張して、普段なら捉えられるボールでさえはじいてしまう。

ナンバーコールは、ひとりで充分。
もうその時点で、相手の士気は完全に落ち、勝ちは確定する。
その後は、サーバーがランダムにサーブを打つことで、15点に辿り着く。
こちらのコートに、一度もボールが返ってこずに、だ。

えげつない、心理戦。
美しい勝ち方でない、と言う人もいれば、子どもらしくない勝ち方と言う人も、いたかもしれない。
それこそ、現代なら、携帯で動画など撮られて身勝手に拡散されれば、叩かれる対象になる行為かもしれない。

けれど、そこは勝負の世界。
勝つために努力をしてきた者が、その場を支配することができる。

だから、わたしたちは(わたしは、かもしれないが)、試合の中で、そのような流れを生み出すことへの申し訳なさを持つことはなかった。

そのことで、心のダメージを受けるであろう、相手方の心情を汲み取ることができなかった。
それが事実だったかもしれない。
または、監督がわたしたちに向ける攻撃性が、わたしたちの攻撃性を育くみ、そのような戦い方をしていた、もしくは、負けて叩かれたくない、という一心で、どんな手を使っても勝つ、みたいな思考に縛られていたのかもしれない。

けれど、それすら別にいいと思っているのだ。
なぜなら、都大会に出れば、あっさり形成は変わり、我がチームがそちらの立場になることは分かっていたし、実際に経験もしていた。

勝敗の背景にあるものが何であるかを知っていたからこそ、私たちは、大敗することがあっても、潔く負けを認めることができたし、相手の方が格段に上、だと感じると同時に、相手へのリスペクトのようなものも抱くことができた。

メンバー6人の身長差で負けることもあるが、それを差っ引いても、勝利するチームが重ねてきた練習時間を想像することはできたからだ。

上には上がいる。
けれど、その上にいる人たちを、素直に賞賛することもできる。

そんな考え方を持つことができただけでも、6年間バレーボールに費やした時間は、わたしにとっては宝であるし、中学に上がってすぐに髪を染めるような生意気なわたしを、責めることなく、都選抜に推薦してくれた中学の監督には感謝しかない。

そして、その一連の流れの後ろで、小学校の監督が働いてくれていたことを知った時、わたしは初めて、自分が誰かに認められるということの安堵や、喜びを知り、泥臭くとも、努力を重ねれば、見てくれる人はいるのだということを知ったような気がする。

端から見れば、監督が暴力によって選手をコントールし、その代償として強くなったチーム、として映っていたかもしれない。

けれど、わたしは、2人の監督の下で重ねた時間の中で、バレーボールを嫌いになることも、練習に行きたくないと思うこともなかったし、30年以上も交友のある当時のメンバーと話しても、当時の監督等の行為を、責めるメンバーはいない。

端から見ていびつに見える関係でも、双方がその関係性に納得しているのであれば、それはそれでいいんじゃない?

そう思うわたしは、やはりどこか、麻痺していたのだろうか?
麻痺しているのだろうか?

他人同士の関係性について、特に興味を持たないわたしだから、そう思うのだろうか。

正解は見つからない。
けれど思うのだ。

どの時間をとっても、わたしを創ってくれた時間。
それに、あの時間を共有したメンバーのうち数名は、いまだに付き合いのある仲なのだから、あの時間は大切な時間だったのだ、と。
だから、全然OKじゃん、と。

前作からのもらいワード……「重ねてきた」


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