見出し画像

#32 どの姿も美しい


夜が好きだ。
夕刻から夜にうつりゆく時間に、心が波うち、躍動し始める感がある。

月も好きだ。
闇に染まった夜空に、浮かぶ月をみつけるたびに、

「あ、そこにいたのね」
とか

「っよ!」
みたいな感覚を抱く。

19日の早朝に満月を迎えることもあり、今宵は月が綺麗だ。満ちてゆくエネルギーの分、発光もつよく見える。

三日月も上弦や下弦の半月も好きだが、やはり、夜空を背景にして強い発光で存在を示す満月は、ひどく魅力的だ。
見飽きない。
本当に、見飽きない。

もしも、縁側に座り、満足するまで見ていてもいい、と言われたら、わたしはその時間に浸りきるだろう。
だが、残念ながら、我が家に縁側はない。
だから、月が美しい夜は散歩に出る。

家からでて、左に歩き出すか、右に歩き出すかは、その日の気分で。
何分歩くかも、何時間歩くかも、決めずに。
耳にイヤフォンをさし、お気に入りの曲をループで聴きながら、夜道をひとり歩く。

一日が終わってゆく。
今日の日を、わたしはどのように過ごしたんだっけ……と思考を巡らせているうちに、路地をでたところで月を見つけ、巡らせていた思考がわたしから離れ、離れたままもどらない。

しばし、月を見上げながら歩く。
地球からいちばん近い天体とは言え、38万㎞。
飛行機で約16日、新幹線では約50日、歩いて向かったら11年かかる距離。
そんな、遥か彼方の天体を、悪天候や新月をのぞけば、いつでも肉眼で見上げることができるなんて、神秘でしかない。

そして、わたしが呆けた様に月を見上げて、ひとつの夜を過ごすように、見知った誰かも、見知らぬ誰かも、どこかで、今、この瞬間に月を見上げているのかもしれない……という想像は、なんとも心をあたためる。

いつかのわたしが、月を見上げて泣きながら歩いた夜のような時間を、今、誰かが、ひとりきりで過ごしているかもしれない。

いつかのわたしが、愛しい誰かと、共に月を見上げて至福の時間を過ごしたように、今、どこかで、誰かが、同じように満ち足りた夜を過ごしながら、夜空に浮かぶ月を感じているかもしれない。

そんないくつかの想像は、その想像のなかで生きる誰かと、いつかのわたしを重ね合わせる。
重ね合わせたとき、その想像のなかの誰かは、わたしになる。
だから、わたしになった想像のなかの誰かが幸せなら、その時間を存分に堪能してほしいと願いたくなるし、泣いているなら、少しでも早く、心穏やかになれる日が訪れることを願わずにはいられなくなるのだ。

もしかしたらわたしは、日ごと形を変えゆく月を見上げてきた時間の中で、感情も、状況も、必ず変化を見せるということを、学んできたのかもしれない。

鋭く尖りながらも、美しい姿を見せる三日月も、究極の光の円として堂々たる姿を見せる満月も、どんな姿でも美しい月に、わたしは憧れているのかもしれない。

だって、欠けても満ちても美しいなんて、素敵すぎるもの。

さて、夜も満ちてきたところで、散歩に出かけようかしら。


前作からのもらいワード……「背景」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?