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【エッセイ】架空の信仰をつくってみたことについて

つい5分ほど前、架空の信仰をつくろうと思い立った。

わけを説明する。わたしは小説を書いて時々公募に出してみたりネットに掲載してみたりしているのだが、書きたいと思った小説のジャンルが曖昧で、どの賞からもカテゴリエラーとして弾かれてしまいそうな気がしたのだ。

その小説を書きたいという思いは強い。きっと良い話になると感じるし、達成感も得られるだろう。しかし、膨大な労力と時間をかけて書いたものが梨のつぶてとなったとき、「わたしが満足できたのだから良いか」とハッピーに考えられるほどわたしの内的世界は強くない。
わたしは、ひとりぼっちが怖いのだ。自身の書く小説を通して誰かと繋がっていたいのだ。

頑張って書いたものが賞で落選してもインターネット上でイイネ0でもわたしが他者と繋がれて満たされる方法はなんだろうと考えた結果、答えは降って湧いてきた。

そうだ、書いたものが他者の役に立つという「設定」をつくろう。ぴんときたのが神社等の奉納だった。そうだ、神様を設定しよう。架空の信仰をつくろう。(そうだ、のループ)
名前は文神様(ふみがみさま)がいい。文神様は物語が大好物で、人間が苦労してこさえた物語を琥珀糖のようにしゃりしゃり食べる。キャラクターのような神様やおそろしく物々しい祟るようなそれではなく、朝の柔らかな日差しや新緑などに混じった、自然現象のような存在である。文神様に物語を献上すると、文神様はそよ風の笑い声を立てて、少しだけ良いことをあなたに授けるであろう。満員電車で座れるとか、ご飯がいつもよりなんとなく美味しいとか。
物語を食べて元気になった文神様は、また、世界中の人々の心をはちみつひと匙ほど暖かくしてくれる。角砂糖ひとつ分ほどの平和をもたらしてくれる。

文神様の神棚は、美術館の近代アートのオブジェみたいに洗練されて軽やかなものがよい。インターネット上で応募できる賞に応募したら、わざわざ紙で印刷して、文神様に捧げる。捧げた後はコーヒーを飲むとよい。捧げた後の原稿用紙は海で焼けたらよいのだけれど、勝手にものを海で焼くのは違法だろうか、要検討。

そんなわけで、わたしは文神様を心に住まわせてみることにした。頭のおかしい妄想のような感覚と同居するのは、なんとなく気持ちが落ち着く。アルコールでほろ酔いになっている夜のような心地よさは不安定な精神のバランサーとなってくれている気がする。

そんなことを考えて、わざわざ文章にしたのは、シチューを煮込む間暇だったからだ。

カボチャのシチューである。




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