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自分の意思で選択できる環境はあったのか?という視点。
先日大学を卒業したことを報告し、おめでとうという言葉をたくさん頂いた。
(本当に、ありがとうございます。)
奨学金という名のなかなか多額の借金を抱えたり(これが割と厄介)
以前のように喧嘩にはならないものの、なぜわざわざ遠方の大学に行ったのだと卒業した今でも言われたり(笑)と本当に様々あったが、それでも
希望の大学に進学し
やりたいことができる環境で
大学内外で素敵な方々との出会いがあり
卒業することができた
どれも当たり前なことではないと頭では分かっていても、どこかで忘れてしまっていた自分もいた。
そもそも大学に進学する時点で、いくら行きたくても様々な理由で厳しい方だっていらっしゃるのでは。
それが、その分...と一見「逆境を乗り越えた今は」的な美談になってしまうこともある気がするが(ここでは、人にとって生きていく上で大切な苦労ではなく、その人にはどうすることもできない困難を指す)
その美談は本来起こらないようにしなければ、とつくづく思う。
大学は義務教育ではないとはいえ、本人の想いではなく環境によって自動的に選択肢が決まってしまうのは、やはり悲しい。
それは、決してその人の家庭のせいだと言っている訳ではなく、その環境をつくった社会の仕組みに疑問を抱えているのである。
そもそも、自分や周りの環境から
なぜ生まれた環境が違うだけで、こんなにも差ができてしまうのだろうか?
想いを意識化するまで、心の中でずっと何か変だ、おかしい、と違和感を抱えていたからこそ
人の心と環境側にアプローチする「社会福祉士」を知った高2の時に、これだ...!と直感したのだ、と今では思う。
そして、気づかない間にどこかで誰かを傷つけてしまっていなかったかと不安になるが
「自分で決める」という言葉は時に人を傷つけてしまうと思った。
果たして、その人は本当に「決める」ことができていたのだろうか?
選択する過程で、その人にはどうすることもできない事実が隠されていなかっただろうか?
もしかしたら、その人の意思とは関係なく決まってしまったのかもしれない。
言葉は同じでも背景は一人ひとり違って、その背景にもきちんと目を向けること。
目を向けるだけでなく、隠されていた課題に対してアプローチすること。
それが、誰もが多様な選択肢から自分らしく選択できる社会に繋がるのではないか。
目指す先の1つであり、行動し続けることがこれから私がやりたいことだと改めて思った卒業シーズンでした。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます!わーい^^