コミュニティ研究ノート #01 「さらけだし」としっぽ取りの記憶

どうやら、コミュニティには「さらけだし」が必要らしい。

コルクラボの活動指針には、「さらけだす」という言葉が記されていて、メンバーのみんなも、ことあるごとに言及しています。

「これは大変そうだ…」が、私の最初の感想でした。

私は、「さらけ出す」ということが、物心ついたときからとっても苦手で、何事もうちに秘めるタイプです。

小学生のときにあった「好きな子いるの?」っていう会話、「将来は何になりたいですか?」っていう授業、可能ならば全てパスしたかった。「好きな子いるの?」に至っては、友人に打ち明けることの嫌さから、好きな人を作らない(自覚しない)ようにするという徹底ぶり。さらに、一番好きなミュージシャンだったり俳優だったり、そういったものですら、うちに秘めるタイプです。恥ずかしくて言えたもんじゃない。自意識過剰ですね。

そもそも、「コミュニティ」という物に対して、何となく「アクティブなファンクラブ」みたいなイメージを持っていた私。コミュニティというのは、同じ物を好きだったり、同じ志を持つ人たちが集まって、なにか面白いことをするところだと思っていたのですが、ここまでコミュニティを「根本」から組み立てていくのか…という衝撃を受けました。

考えてみると以前までの私の思考は、完全に参加する「お客さん目線」。でもここは、その「なにか面白いことをする」ためにどんな設計が必要か、というプロデューサーの視点で進められているんですね。そうだった。おもしろい。ありがたい。

じゃあさらけだすってなんだ?と佐渡島さんの発言をリサーチしてみると、過去のnoteにこんなことが書いてありました。

「さらけだす」とは、自分の恥部、知られたら嫌なことを、外部にオープンにすることではない。
「さらけだす」とは、「自分の欲望が何なのか?」「自分が今、どのような状況なのか」を周りに分かるように伝えることを意味している。
相手に自分の気持ちを察してもらおうとするのをやめよう。相手が自分と同じ考えだろうと勝手に推測するのをやめよう。全く違う考え方をしていると想定して、自分が何を欲し、今どんな状況にいるのかさらけだそう。

コミュニティの影響力が、その外にも伝播して、広がっていくためには、「コミュニティの熱狂」が重要であるとよく言われています。

そして、その熱狂を生み出すのに必要なのが、この「さらけだす」ことのようです。

さらに、コルクラボで大切しているものに「安全・安心」というものもあります。これも、どうやら熱狂に必要らしい。また、人が最大限のパフォーマンスが発揮できるのも、この「安全・安心」が確保されているからこそだといいます。

そこで、「さらけだす」と「熱狂」を考えていた時、一つの記憶がよみがえってきました。

幼稚園のころたまにやっていた、「しっぽ取り」という遊び。私はこれが大嫌いでした。

自意識過剰人間だった私は、しっぽをとられても気づかずに走り回っている友人を見て、そこに滑稽さを感じていました。そして、自分もそうなったらどうしようという、恐怖さえ覚え、つねにライン際でもじもじしていたように思います。

あのときの、しっぽ取りの中にいた私は、安全も安心も感じられませんでした。ただ自意識にがんじがらめにされて、せっかくの遊びの時間を全く楽しめないでいました。

なんで楽しめなかったんだろう。どうしたら、あのときの私に安心を与えられたかな?そう考えることが、なんだかコミュニティを理解することに繋がっていくようにも思えてきました。
(ちょっと書いているうちに、「あれ、関係ないかも…」とも思えてきたのですが)。

余談ですが、自分がどんな人間かと考える時、幼稚園の頃の自分の感情を思い出すようにしています。そこに、本当の自分がいる気がするのです。

「さらけだし」がコミュニティに必要な理屈は何となく分かった。

次は、本当に体感として理解するために、実験だな。

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