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ナレーションを極める48 私の原動力について考える

ナレーターの熊崎友香です。テレビ東京WBSや、NHKアジアインサイト などでナレーションをしながら、4歳と6歳の子供を育てています。

先日、「講演をやらないか?」とお声がけいただき、「伝わる力」というテーマで90分お話しました。

そこで出た質問がこちら。

「そこまであなたを仕事に駆り立てる原動力は何ですか」

40年以上生きて、音声表現の仕事を22年続けてきた。その間、結婚して子供も授かった。あまりに自分が変わりすぎて、一言で語れそうにない。

音声表現についてを仕事と捉えるか、テレビラジオ制作全般に対してかによっても答えが違う気もする。

今日は私の原動力についてのメモ。

1、魂が喜ぶ感覚を大切にしたい

高校生の時。野球部のマネージャーをしていて、場内アナウンスの業務があった。自分の声が、広い球場に響くのは、何とも快感であった。放送室に入って、学校給食のメニューをお伝えするのも、ピアノの発表会で頼まれた司会の仕事も、キャンプファイヤーで任されたMCも、恥ずかしくて小さくなりながら、でもやっぱり快感だった。単純に音声表現が、放送が好き。なのだ。

大学卒業後、一般企業の内定をお断りした。

理由なく好きでワクワクする。魂が喜ぶ感覚を大事にしたかったからだ。それを仕事にしたかった。一生、ワクワクできそうなものと向き合いたかった。生放送前の緊張の時。マイクのスイッチを入れる時。はじめましての現場に行く時。ドキドキもするけれど、ワクワクが大きい。

WBSのオーディションの時もそうだ。こんな素敵な番組に関われたらと、文章と映像を交互に見ながら、鳥肌が立ち、「魂が喜んでいる!」と心から思った。

自分がまだ学生の頃、会社員は本当に楽しいのか、疑問に思っていた。毎日楽しくて楽しくて仕方がない!キラキラしていたい。そんな仕事をしたいと願っていた。学生時代にアルバイトを30種類ほど行い、浄水器を売ったりビールを売ったり。チキンを売ったり、郵便物を配達したり、さまざま経験して、時間でお金を稼ぐような方法は飽きっぽい自分には向いてない、一生飽きない仕事がしたいと考えていたので、音声表現に魅力を感じた。

2、職人に憧れている

一つのことを生涯かけて磨いていく職人に憧れがある。ナレーションは、おばあちゃんになってもできる、生き様の全てが声に表れ味となる。好きな仕事を続けていき、人生のすいもあまいも経験してその全てが集約されたナレーションを世の中に届けられたら、想像するだけで涙が出る。

中学の頃、西武ライオンズのファンだった。ラジオの実況にかじりついて、試合の行く末に手に汗握る時間だった。あの時の、アナウンサーの実況、言葉だけで球場の興奮や感動を伝える職人技に、心を奪われたのも、大きなきっかけだ。

3、反骨精神 忘れられない新聞記事

高校三年の夏。球児にとって最後の夏の地区大会。私が所属していた野球部は、甲子園まであと三つ。ベスト8のところで、成田高校に負けた。

この時、私たちは、成田高校には勝てそうだ、山場は次の準決勝、市立船橋戦だ。ここを勝てれば、甲子園も夢じゃないと。図々しくも考えていた。

ところが、蓋を開けてみれば、成田に負け、二年連続のベスト8敗退だった。8の壁が越えられない。何故だろうか。バスの運転手さんがそんなことを話していた。

その翌日の新聞記事が、いまだに忘れられない。

「成田 余裕の勝利」

ショックだった。余裕という言葉が目に焼き付いた。

余裕とは、一体誰の判断なのだろうか。当時私はマネージャーをしていて、一つ上の学年の先輩がプロに行ったこともあり、球団のスカウトの方や、スポーツブランドのスタッフの方さまざまな来客があったが、この記事を書いた人は知らなかった。お茶を出した覚えはない。少なくとも、練習や試合に足を運んでくれた人ではない。

うちに来てくれたこともない人が、誰かの前評判や、ネット裏の記者席から試合展開を見て「余裕」と判断したのだろうか。

少なくとも私たちは余裕で負けた、などとは思わなかったし、大げさで逆恨みだけれど、高校3年間、いや、部員達のそれまでの野球人生を、たった二言で片づけられてしまったような気になり、憤りを感じた。どこの誰が、ろくに取材もせず、そう判断したのだろう。わたしたちの何を知っているのだと。若い私は怒り心頭だった。

新聞とはメディアとは、たった2文字で人を傷つけられるのだ、知った出来事だった。

4、教科書が正しいとは限らない 戦争記念館の差

大学四年の時、パックパッカーが流行っていて、私も一ヶ月ほどアジアを回った。タイ、マレーシア、シンガポールと周り、最後にシンガポールのセントーサ島に遊びに行った。島全体がテーマパークになっている場所だ。この島の端に、太平洋戦争記念館がひっそりとある。

記念館に行くまでのルートには、日本と戦った時に使った防空壕や、大砲なども残されていた。

記念館は、中に入ると、予想に反して明るい印象だった。赤、青。白で装飾され、ビクトリー!と書かれた横断幕が誕生日パーティーのように華やかに飾られていた。

「我々は責めてきた日本に勝ったのだー!」

極めて明るい印象の空間だった。

衝撃だった。他の友達は、仕方ない、日本は負けたんだし。と気にもしていなかったが、私は全身に稲妻が落ちたのではというくらい衝撃を受けた。

広島などの原爆記念館や、戦争博物館は、私にとって、どれも暗くグレーやアースカラーのイメージで、会話もなくひっそりと過ごす空間だった。

なんとなく、これまで学校で習ったことや空気感から

「戦争が悪い」と、そんなふうに認識していた。

しかし、シンガポールセントーサ島は違う。悪いのは日本。我々は悪に勝ったのだ!としっかりくっきりはっきり記してあった。

戦争について語りたいわけではない。人の伝え方、立場の違いによって、こんなにも印象が変わること、教科書の内容まで全く違うのならば、メディアも教科書も、真実であって真実でないかもしれない。自分の目で見て話を聞き判断することが大切だと、悟った。

以来、例えばアメリカで起きた世界同時多発テロのとき、アメリカが大変なことになっている、と報じられていたが、本当にそうだろうか?もちろんビルの被害はあってはならないことだけれど、アメリカだけが被害者なのだろうか。コンビニに行き、全紙を買って読み比べた。

本当にそうなのだろうか。一つの出来事も立場や捉え方で全く違うものとなり、伝える言葉や切り口で印象が変わる。そのことを肝に銘じ、放送に向き合いたいと考えている。

5、弱者の味方でいたい

セリーグよりパリーグ派だった。人が注目しない方を応援するのが好きだった。なぜかわからない。捻くれているのだ多分。

ローカル放送の地域密着の話題が好きだし、大物選手を取材するより、まだ注目前の選手を見つけることにワクワクした。

いまは、子供を産み育てる母として、あまりに仕事と育児の両立が大変なため、また育児が想像以上に孤独なため、なんとかならないだろうか、なぜ育児を長年日本は女性に押し付けてきたのだろうかと、その怒りや経験が原動力になっている。自分が仕事をすることが、多少なりとも後輩の力になっていると聞き、これはやめられない戦いだと感じている。

子供はまもなくおかげさまで小学生になる。

小1の壁と聞く、手厚い保育園とサヨナラして本当にやっていけるのか、PTAのシステムにも恐怖しかない。フリーランスでも、産後、当たり前に仕事ができる環境をどうにか作っていきたい。そうでなければ、日本の女性は、どんどん子供を産まなくなり、するとどんどん人口が減り、日本が衰退の一途を辿る。そんな危機感を持っている。それが今の私の原動力なのだと思う。



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