多様性を尊重するとは?
Twitterでのやりとりを読んでいてすごく気になるコメントを見つけました。
つまり多様性を尊重する社会は、多様性を尊重しないという人を尊重しないってことになります。
先日も同じテーマについて書いたのですが、もう一度自分の考えをまとめるために note に記録を残したいと思います。
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多様性、つまり自分とは違う人を尊重するとは、自分とは違っているということを「認める」のではなくて「そのまま受け入れる」ってことです。
多様性を尊重するとは、あの人にも良いところがあるから認めるべきだという考え方と言う人もいますが、わたしはそれと多様性を尊重することとは違うと思います。
ある人の、もしくは人たちの良い点がまったくわからないにしても、そういう考え方や生き方があるのだと知って、受け入れることが多様性を尊重することだと思っています。
ですから尊重しているからと言って、その人の生き方や文化に同意しているわけではありません。ただ受け入れるだけです。
友人とレストランへ行って、友人は唐揚げ定食を食べ、わたしは焼き鯖定食を食べる。それぞれの注文にケチをつけたり、コスパで言い争う必要はありません。お互い食べたいものを食べることができただけのことです。
もしかすると自分は揚げ物を食べることを良くないと思っているかもしれませんが、友人がそれを選んだからと言って眉をひそめたり、文句を言ったり、はては怒りだして席を立ったりする必要はないんです。
わたしはバイクが大好きです。
それで、バイクの走行音を聞くと「いい音だ!四気筒かな?」なんて思います。
でも妻はただ「うるさい」と思うだけです。
でもそれで良いんです。
妻はわたしがバイクに乗ることを好ましく思いませんでしたが、所有し乗ることに反対しませんでした。
また、わたしも自宅前でアクセルをふかしたりせず、極力静かに帰宅するようにしてました。これがお互いを尊重することかなって思います。
妻にバイクの魅力を説明したりするとケンカになるだけです。
それぞれ単に違っているだけで、その人の文化を含めた背景、決定をその通りに受け入れる。
これが多様性の尊重であり、ここにはどちらが優れているとか劣っているという判断は含まれません。
また好きか嫌いかに関係なく、受け入れるということです。
またどちらが正しいか間違っているかということも関係ないです。ですから多様性を受け入れていても、相手のすべての行動や決定を容認しているわけではありません。そういう生き方もあるとただ受け止めるだけです。
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日本語教師には多様性を尊重することが求められます。
なぜなら学習者たちにとって日本語は母語ではないからです。
言語が違うって認知が違うってことです。
つまり見ている風景は同じでも、見えているものが違うってことです。
それで、学習者の感じ方を受け止めたうえで、日本語を理解し使うとどのように見えるのか、またどう見られるのかを教えることが求められます。
そこにはお互いの尊重、つまり「そのまま受け入れる」ことが不可欠です。
公園の鳩をみて平和の象徴と思う人もいれば、美味しい鳩料理を思い浮かべる人もいます。また鳩の糞害に悩まされている人であれば不潔だとおもうでしょう。
そういった違いを受け入れた上で、日本では鳩という言葉に「平和」という概念があることを教えるのが日本語教師の仕事です。また鳩をみて美味しそうと思う国の人を、そうなんですねと受け入れることも大切です。
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完全なコミュニケーションなどあり得ません。
特に文字でコミュニケーションをとると大抵誤解されます。それで今日の note ももしかすると議論になったり、誰かを傷つけたり、自分も傷つくという事態を引き起こすかもしれません。
しかし Murakamiさんの「多様性を尊重する社会はすべての価値観を尊重するわけではない」という意見について、しっかりと考え自分なりの答えを見つけておく。そしてそれを相手に伝わることばで説明できるようにしておくのは大事と思います。
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そして蛇足になりますが、優秀な日本語教師とは「学習者が日本語を使ってコミュニケーションを取れるように助けることができる」人だと信じています。
ですからそれぞれの日本語教師の持っている資格や学歴、経験によって善し悪しは判断せず、結果で判断したいと思います。
またどんな方法であっても学習者を助けているのが、優秀な日本語教師だと思っています。
それでアンテナを張り巡らし、学び続け、自分も学習者さんを助けることができる日本語教師になりたいです。
そのために今日も前に進みます。
ぜひぜひ、サポートをお願いします。現在日本円での収入がなく、いただいたものは日本語教材や資料の購入にあてます。本当にありがとうございます。