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文字を棄てる社会

最近の若者は本を読まなくなった。
よく長老たちから耳にするフレーズだ。
はっきりいって、何十年とそれこそ一世紀は受け継がれたフレーズだろう。

ドンドンと潰れ、かつて書店であった空きテナントを見るたびにこのフレーズが頭に浮かんでいた。

もちろん、e-bookで読んでいる人もたくさんおられるだろう。物質てきコレクションとして紙媒体が求められなくなったとい言い分もあるはずだ。

だが、それは本を読んでいる人の言い分でしかない。
少なからず仕事で書籍を手にする身からすると、印刷物そのものの記録として紙媒体は残さなければならないのではないか?とも考える。

150年以上昔の文化を研究している身からしたら、いま、電子媒体で出されている本は端末を持つ人がアクセスできるだけで、個人の所有物ではない。となると、今から100年後、研究の対象となった時に不都合は生じないのか?
大衆がどんなことを考えていたかなどは、書き込まれたメモ等に反映されるのではないか?
それが管理されないとなったら、過去から学ぼうとする人は何に頼ればいいのだ?

そういったことを考えたことがあるだろうか?
おそらく多くの人はないかもしれない。

そんな心配をしていたら、それを世の中は最も簡単に上回ってくれた。
それが今日のタイトル。「文字を棄てる」だ。

今、Siriなどの音声操作がドンドン拡大している。
書籍もオーディオブックなるものが幅を利かせている。

利用者からしたらすごく便利に感じるだろう。ちょっと話せば何かしてくれるし、本は誰かが読んで聞かせてくれる。まさに、後退。赤子戻りだ。

本当の赤子であればよいだろうが、年齢を重ねた成人が、しかも体力もあり活動的な成人がこれをしたらどうなるか。

おそらくほとんどの場合が悲劇だろう。
動物の中で、文字を使うのがヒトの最大の特徴だ。気の遠くなるような期間をかけて獲得した文字を楽だからと音声に頼るようになった。

文字を手放したらヒトは、肉食動物の餌か何かに等しい。早く走ることも出来ず、空を飛ぶことも出来ず、怪力があるわけでもない。特徴として何が残るのか?おそらく他の動物たちから最も愚かな動物だと冷笑されるに違いない。

そう、今、刻一刻と、ほとんどの人類は文字を棄てることに向けて突き進んでいる。唯一文字を捨てなかったものだけが、文字を捨てた輩をコントロールできる、そんな時代に向けて突き進んでいる。格差という言葉だけでは表現し尽くせないほどの格差が訪れるのではないか?

誤作動でSiriに「何か用ですか?」と問われたとき、こんなことが頭をよぎり、鳥肌がたった。

超古典的な問題だが、まさに現代と未来に通じる問題。オングの『声の文化と文字の文化』を改めて読む時だろう。これをオーディオブックで「読む」のも面白いかもしれない。

文字を残したモノに明るい未来か?その逆か?はたまたともに漆黒の闇か?まさかなユートピアか?いずれにせよ、真剣に取り組む問題だろう。

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