自分の野球遍歴について ~高校生編~

前回の振り返り

私が野球と出会ってから、草野球を始めるまでを振り返るお話の第3回。
前回、第2回は中学生編でした。
さて、今回はいよいよ高校生編です。
書いてて吐きそうになりましたがなんとか書きました。

1年生、硬球と温度差と人間関係と

中学野球部を引退してから約9ヶ月後。
私は自宅近くの公立高校の門をくぐりました。
高校受験では、当初もうちょい上のレベルの公立高校を目標にしていたものの、出願直前の状態がいまひとつで、ランクを落として受験。
そしたら本番では自己ベストの点数を取って、仮に第一志望校を受けていても合格していたくらいだったんですが……まあ、たぶんギリギリの戦いのプレッシャーから解放されたせいでしょう。昔から緊張感とかそういうのに弱かったので。

そんでもって、事前の考え通り、高校でも野球部に入りました。
初めての硬球です。
ここの野球部は、中学の時とは違い、新1年生も大会前以外はノックやバッティングの練習をさせてもらえる環境でした。
でも、キャッチボールくらいはなんとかなりましたが、ティーバッティングの段階で既に手が痛い。
フリーバッティングとか地獄。芯を外すとやばい。まだ寒い時季だったので尚更。
最初はショートで希望ポジションを出しましたが、ノックでイレギュラーが体に当たると超いたい。かたい。こわい。
そして上級生の送球がえらく強い。なんじゃこりゃ。
ちょっとでも気を抜くとグラブごともってかれそうになる。
とはいえ、軟式と硬式の違い自体には、そのうち自然と慣れていきました。

問題だったのは人間関係です。
まず、この春就任したばかりの監督が嫌な奴でした(3年ぶり2回目)。
またかよ、って感じですけども。
今度の監督は、何かあるとすぐ機嫌が悪くなる系の人で、なんかもう思い出したくもないので詳細は省略します。話の本質はそこじゃないので。
結局、3年間で野球に関係ない話を監督とするような機会は一度もありませんでした。

それと、高校くらいの部活になると、上下関係がヤバいみたいな話をよく聞きますが、ここの部は緩やかな先輩後輩関係はしっかりしつつも、そこまで厳しいものではありませんでした。
先輩と全然普通に話せるような環境でしたし。
本当に苦労したのは、同期メンバーとの付き合い。
この高校、自分で言うのもアレなんですが、地域では中の上くらいの成績があれば入れるレベルでした(当時)。
なので、「野球はそこそこ上手いし、勉強もそれなりにできる」みたいなのがそれなりにいるわけですね。
それって、高校生って集団のヒエラルキーの上位にいるタイプじゃないですか。
そういう人たちとの付き合いは、もうほんとに3年間悩まされ続けることになります。
なんていうかこう、いるんじゃないですか。
自分より下と見做した対象をひたすら攻撃したり、嫌がらせを続けたりするタイプ。
高校生なんで、まだまだそういう部分が上手にできない人も多かったんだとは思うんですが、困った人たちが結構いたなぁ……と、今でもよく思い返します。
で、野球部の同期生の中に、ひとりだけ野球未経験者がいたんです。
もう説明いらないですよね。
彼がターゲットになってしまったんです。

それはもう、なかなかにキツい仕打ちがありましたよ。
練習で無視されたり、まだ下手なことを馬鹿にされたり、私物を勝手にいじられたり。
まともな顧問に見つかっていたら、それこそやった方は反省文じゃ済まないくらいのことも……。
一方で私はというと、こういう争い事が嫌いなタイプ(悪く言えば勝負事に向いてないタイプ)なので、未経験者の彼がなんとか練習に付いていき上達できるよう、色々とサポートしてあげていたんですね。
例えば、中学まで野球経験がある人なら当然わかっている、野球部の暗黙の了解みたいなものとか、下級生がやるべきこととか、色々教えてあげたり、練習パートナーを買って出たりとか。
でも、私は彼を救えなかったんですよ。
それどころか、見て見ぬふりをすることもありました。
それはつまり、私が彼を守ろうとして矢面に立つと、次はこっちがターゲットになることが目に見えていたからですね。
私は保身に走ったんです。
遠征のバスの中で、隣の彼が嫌がらせを受けていても、こちらからは何もしませんでした。何もできなかった、というほうが正しいかもしれませんが。
そして夏大会の支部予選を前に、彼は退部しました。

そうなると攻撃対象が繰り上がるわけですね。
はい、私です。
野球部について全くの無知ではなかったのと、それより前に未経験者の彼が受けていた仕打ちを見ていたので、身を守る努力をある程度したためか、そっくりそのまま同じような攻撃を受けたわけではありませんでしたが。
なので、一部の良識のある部員とは、比較的良好な関係を作っていくことに成功します。
一方で、そんな攻撃的な人たちとも私はなんとか関係を良くし、ちゃんとコミュニケーションを取ろうと努力し続けました。
それが逆効果だったのかもしれませんね。
多分、とても鬱陶しい奴という位置づけになっていたんだと思います。
その結果として、「野球では一部を除いて変なことはされなかったが、それ以外で嫌がらせを受ける」ことにはなりましたが。
まあ、ヒエラルキー上位以外の人間が生き残るためには、お笑い担当のお調子者になるか、触れがたい雰囲気を出すか、その他大勢の傍観者的立場に甘んじるか、のどれかが必要だったんですね。
結局、私以外の穏健派部員も、多かれ少なかれ、意にそぐわないいじられをされていましたし。
嫌がらせレベルまで行くと私くらいだったかもしれませんが……。
まあ、この話はこのへんにしておきましょう。話をしたらいくらでも恨み節が出てきそうなので。
ちなみに当時私を攻撃してきた連中については未だに許していません。

さて。
例によって1年生のときは、自分自身については特筆すべきことも無かったんですが、秋にとんでもない出来事がありました。
なんと、チームが支部予選を勝ち抜き、同校2回目だかの秋の全道大会進出。
そして、前監督の忘れ形見とも言える左右のダブルエースを中心に、あれよあれよと強豪校を撃破し、ついには全道大会の決勝戦までたどり着いてしまいます。
相手はあの駒大苫小牧。
しかし快進撃もここまで。9-1の大差で敗れましたが、無名公立高校の大躍進は、当時なかなかの規模でメディアを騒がせました。
私ですか?
スタンドでホイッスル持ってファールボールを拾いに観客の間を走り回ってましたが。

惜しくも秋季全道大会準優勝となったチームですが、翌春のセンバツ甲子園の21世紀枠候補となったことで、再び報道の注目度がアップ。
もう時効であろう今だから言えますが、私としては、出場したところで別に甲子園のフィールドに入れるわけでもないし、テレビに映るのも嫌なので、「別にどっちでもいい……」って気持ちでしたけど。
なお、最終的には落選し、甲子園行きは夢と終わりました。
内心ホッとしました。

ちなみに私ですが、秋季大会終了後、外野手へのコンバートを監督に申し出ています。
理由は簡単。
同学年のショートの奴と、めっちゃくちゃ仲が悪かったから。
きのこたけのことかそういうレベルじゃなく。
古代ギリシャのアテネVSスパルタくらいの感じで。
最初は勝負してやろうと思っていましたが、一緒にノックを受けているだけで嫌な気持ちになり、向こうも向こうでこちらを邪魔者扱いして、一人だけ新しく変わった二塁牽制のサインを教えてもらえないなんてこともあったので、もうさっさと逃げました。

あともうひとつ。
秋季大会のさなか、私の試合用帽子が行方不明になるという出来事がありました。
探せるだけ探しても見つからず。もうめちゃくちゃ焦りました。
こんなこと監督にバレたら最悪退部になるぞ、って感じで。
そんなとき、ふとひとつの考えが頭に浮かびました。

私はすぐさま電話をかけました。
相手は前述の、夏前に退部した彼です。
「お願い! 試合帽貸して!」

彼は快く貸してくれました。
幸い、サイズも同じ。
なんとか事なきを得ることができました。
ですが、これがもし私が連中と一緒になって彼に嫌がらせをしていたらと思うと……。
考えたくもないですね。
結果的に、過去の自分に助けてもらったような形になりました。
ちなみに私の帽子は、約一ヶ月後に他人のバッグの底からくしゃくしゃになって出てきました。ちくしょうめ。

そんなこんなで、波乱に満ちた1年生が終了。
留年することなく(?)、2年生に進級します。

2年生、転落の始まり

新しい春を迎え、新1年生が入ってきましたが、私の扱いはまあ相変わらず。
外野手に移ったことで、練習中のストレスは多少は減りましたけど。

さて、チームの方は昨秋に全道決勝まで行ったわけですから、ひとつ上の世代の最後の夏も、当然期待される中で迎えるわけです。
2枚看板も更にレベルアップし、大会に臨みました。

まさかの。支部予選敗退。
こうして3年生達はあっけなく引退していったのです。
私ですか?相変わらずスタンドでファールボールを(もういい)

そして夏休み。
最上級生になりましたが、私の立ち位置は外野の4~5番手といったところ。
おまけに人間関係の悩みが原因で、どんどん野球自体も嫌いになっていき、モチベーションもダダ下がりです。
この頃はもう、レギュラーを取りたいという欲望や、もっと技術を向上させたいという意思はほぼ失われていましたね。
肩だけは強かったので、とにかくひたすら外野から強い球で返球をすることと、遠投の記録を伸ばすことくらいにしか興味がありませんでした。

ところで、守備は外野でしたが、もうひとつのポジションが私にはできていました。
ブルペン捕手です。
当時のチーム事情として、1学年上は捕手不在、同学年と1つ下はそれぞれ捕手本職が1名ずつ。
控え捕手はサードのレギュラーが兼任していました。
で、捕手不足に比べて投手の数は多いので、誰かがブルペン捕手を務める必要がありますが、高校野球ともなると、130km/h前後の球が普通に飛び交います。
でも、それをちゃんと捕れる人って、限られるんですよね。
控えメンバー、ベンチ外メンバーとなると、捕れない人のほうが圧倒的に多かったような記憶があります。
そこでその役目を買って出たのが私でした。
中学時代にブルペン捕手の経験があったのと、なんかよくわからないけど130km/h台の球も普通に捕れたので。
とはいえ試合での捕手経験は無かったので、ブロッキング能力は皆無でしたが……。

そんなわけで、新チームとして初めて迎える秋季大会。
私はなんとかこんとかベンチ入りしました。
控え外野手兼ブルペン捕手として、です。
なお出場機会はなく、チームも支部予選で敗退しました。

その後の練習中、左ふくらはぎの肉離れという、野球を始めてから経験したことのない病院送りになる怪我をしたことも加わり、野球へのモチベーションが重力加速度を超えて落下を続ける中、高校2度目の冬を迎え、特に何事も起きずに過ぎていき。
最終年度に突入します。

3年生、グッバイベースボール

3年生を迎えても、モチベーションは変わらず低く、新入生が入ってきた以外に特に変化もなく。
2年生のときもそうでしたけど、率先して新入生の面倒は見ていましたが。
モチベの低下はプレーにも表れ、今までほとんど失敗したことのない送りバントを失敗したり、外野前ヒットのホーム返球時、イレギュラーに対応できず後逸して失点したり。
こんな状況でも野球を続けたのは、野球好きばかりだった家族や親戚が応援し、期待してくれていたので、それを裏切りたくなかったからでしょうか。
1年の冬になまじチームが甲子園まであと一歩のところまで行ってしまったというのも、何かしらの呪いのようなものになっていたかもしれません。

春大会。
2年生数名が新たにベンチ入りを掴む中、私はかろうじて最後の一枠に滑り込むような形でメンバー入りしました。
仕事はもちろんブルペン捕手。
まあ、それだけでベンチ入りできたわけではなく、単に本当にギリギリ1枠だったんでしょうけど。
その気になればブルペン捕手くらいできる部員は、他にもベンチ入りしていましたから。
なお結果は、支部予選準決勝で敗退。
このときも出場機会はありませんでした。

敗退の翌日。
数名のコンバートが発表されました。
その中には私も含まれており、行き先はなんとサード。
実に1年半ぶりの内野です。
最初はちょっと戸惑いもありましたが、徐々に勘を取り戻していきました。
そして、試合では変わらず外野での起用も続きました。
なので、最初は内野でノックを受け、次にグラブを持ち替えて外野へ。
それが終わると最後にまた内野、というように、ここでもまたユーティリティとしての立場に収まることに。
これはちょっと良い感じの刺激になりました。

また、もうひとつの励みになったことが、キャッチボールのパートナーだった投手の、フォーム改造と新球習得のお手伝い。
当時その投手は特別目立った武器もなく、3番手か4番手に甘んじていました。
そこで、サイドスローへの変更を決意。
合わせて横に大きく曲がるスライダーの習得にも挑戦します。
私はキャッチボールで、ブルペンで、その球をひたすら受けました。
時には捕手目線で腕の振り方、ボールの曲がり方などを助言したこともあり。
果たしてこのフォーム変更は成功し、春大会後の練習試合にて、彼は登板試合の大半をしっかりと抑えたのです。

しかし、そんな中で私は、体育の授業中のアクシデントで右足首を捻挫してしまいます。
これまでか、という考えも頭をよぎりましたが、ここまで来たらあと少し、結果はどうあれ完走してやる、という思いのほうが強くありました。
サポーターで足首を保護し、10日程度で騙し騙しながら練習復帰。
ここで休んでしまうと夏大会のメンバー入りは絶望的であるため、あと少し持てばいい、そんな考えでの選択です。

そして、最後のメンバー発表。
私はなんとかこんとかベンチ入りすることができました。
それよりも嬉しかったのは、一緒に練習した投手が、背番号「1」を勝ち取ったことです。
周りから疎まれがちだった自分を、練習パートナーとして信用し、「いつもありがとう」と声をかけてくれ、見放さないでくれた彼が見事にエースの座に就いたのは、何物にも代えがたい感慨がありました。

いよいよ夏大会の開幕。
チームは順調に2勝を重ねました。
ちなみに私は初戦で、大量リードの場面で代打として公式戦初の打席に立っています。結果はピッチャーゴロでしたが。
そして、支部予選準決勝。
そこに立ちはだかったのは、あの北海高校でした。
1点リードを許す苦しい展開の中、9回表に代打が出塁。
そこで私が代走に送られました。
続く打者が右中間に長打を放ち、私は一塁から一気にホームイン。同点とし、延長に持ち込みます。
10回表に1点を勝ち越し、あと1アウトを守れば北海からの金星という裏の守り。
二死ながらもランナーを背負う厳しい状況で、バッターは4番。
甘く入った球はとんでもない勢いで、レフトに入っていた私の元へ。

落球。
今まで経験したことのない打球速度とラインドライブでした。
ランナーがひとり生還し、同点となります。
そして、続くバッターの打球は。
ショート・レフト・センターのちょうど真ん中に、ポトリと落ちました。

身支度を済ませ、母親の車に乗り込んで帰路について。
それから後のことは、数日分記憶がありません。
たぶん、魂が抜けたような状態で生活していたんだろうとは思いますが。
こうして私の高校野球は、最悪の形で終わりを迎えたのです。

野球というものに対する熱を完全に失ったどころか、まともに野球と接することすらできなくなった私は、ゲームに没頭したり、夜な夜なF1中継を見始めたりと、別なものに興味を向けるようになりました。
野球部を引退した同期生とも、意図的に距離を置き、ほとんど話すこともなくなりました。
そのうち、友人がファイターズ戦のチケットを分けてくれたので、しぶしぶながらも観戦に行くなどしているうちに、プロ野球には抵抗が無くなりました。
同時期にMLB中継も見始めており、これとF1の2つに興味を持ったことで、それまであまり芳しくなかった英語の成績が急上昇するという、良い副作用も得られています。

ですが、こと高校野球に対しては、強い拒否感が依然としてありました。
また、自分でプレーしようという気持ちも、全くもって沸いてきませんでした。
これをもって、私の野球生活に終止符が打たれたのです。

それから

約18年の人生の半分近くを共に過ごしてきた野球を失い、「ただのパッとしない高校生」になってしまった私。
大学受験の時期を迎えても、なんとなくで進路希望を決め、特別身を入れて受験勉強をすることもなく、センター試験利用で地元の私大に合格します。
迎えた卒業式の日、最後に野球部全員で集まる機会があり、気は進まなかったのですが仕方なく出席しました。
そこでひとり一言ずつ挨拶をしたのですが、私はなんかうまい事も思い浮かばなかったので、どうでもいい内容を話したような記憶しかありません。
それが終わり、解散。
高校生活が終わりました。

翌月からは大学に進学し、このまま呆けたままではいかんと、色々と迷走を始めるのですが……。
高校野球で背負った罪は、重く重くのしかかり続けるのでした。
でも、それはまた別のお話。

第4回(最終回)に続く。

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