自分の野球遍歴について ~中学生編~

前回の振り返り

私が野球と出会ってから、草野球を始めるまでを振り返るお話の第2回。
第1回では小学生時代を取り上げました。
守備とバントに目覚め、レギュラー落ち、からのまさかのショートコンバート、同時にユーティリティの道へ。
今回はこちらもいろいろあった、中学生編です。

1年生、とんでもない所に来てしまう

中学校に進学した私は、もちろんそのまま野球部に入りました。
……が、そこで待ち受けていたのは、とんでもなく横暴な監督。
いやまあ、監督がヤバいというのは、少年野球時代の先輩から聞いてはいたのですが、想像以上のヤバさでした。
何がどうヤバいのかは省略しますが。

で、入部して間もなく、1年生の「選り分け」が行われました。
その内容はというと、とりあえず全員レフトで1球ずつノックを受けさせて、合格者は上級生組に混じって練習できる、というもの。
すげー雑。
私ですか? もちろん選り分けられました。ダメなほうに。

1年生約15名のうち、合格したのは2名。
残りの13名前後は何をすることになったかというと、何をするというわけでもなく、ただただグラウンドの隅っこでひたすらキャッチボール。ひたすらトスバッティング。
使えるのはすり減りすぎて山も何もないツルツルのボールと、いつからあるのかわからないような古いバット。
そりゃみんなすぐ飽きて遊び始めます。
で、別に遊んでても何も言われない。
どうでもいい存在なので。
あれなら学校の外周をひたすらランニングしてたほうがまだマシでしたね。
まともに練習させてもらえるのは、土日の上級生組が他校へ試合に行っている間だけ。
部長先生が付いてくれて、グラウンドでバッティング、ノックなんかをできた救いの時間です。
そんな状況でしたが、まもなく数名が部活を辞め、硬式クラブチームに移っていきました。

残った1年生の中で、なんとか居場所を見つけようとした自分。
そんなある日、全体練習前に先輩に頼まれ、ブルペンでボールを受けていたときのことでした。
3年生の正捕手の先輩がやってきて、私を見て一言。
「お前、キャッチング上手いな」

まさか褒められるとは思ってもいませんでした。
捕手経験があるわけでもなく、ミットを使ったのは少年野球時代に打撃捕手を数回やった時だけ。
でも、捕手目線では上手かったみたいです。
捕手が少ないチーム事情もあり、その後ブルペン捕手をちょいちょい頼まれるようになりました。
この経験が後に高校で活きることになるのですが、それはまた別のお話。

もうひとつ。
自校のグラウンドで試合がある時、不合格組の1年生は球拾い・バット引きと、それ以外はベンチの後ろに立たされてひたすら声出し係になるのですが、これまたある日先輩から、
「誰かスコア書けるやついないか?」
と問いかけられました。
どうも、これまでスコアを書いていた先輩が試合に出ることが多くなり、新たにスコアラーを置く必要が出たようで。
ですが案の定、1年生の中にスコアを書ける人はいませんでした。
そこで、持ち前の送りバント精神を発揮してしまったわたくし。
「自分やります」
なんでこんなこと言ったんでしょうね。
スコアなんて書いたことありません。おまけに翌日試合です。
ええ、やりましたとも。
一晩でだいたいの書き方を覚えて、レアケースはスコアブックの書き方ページを見ながらなんとか対応。
そのおかげか、無事? スコアラーのポジションをいただきました。
スコアラーのどこがいいかって、試合中に無意味な大声を出し続ける必要が無いし、何より机つきの椅子に座っていられるんですよ。
って書くと、セコい奴め……って思われるかもしれませんけど、実際この時覚えたスコアの書き方については、今現在の草野球でも非常に役に立っています。
草野球やってる方はわかると思いますが、スコア書ける人ってかなり少ないんですよね。

そんなわけで、スコアラー兼ブルペン捕手として最初の3ヶ月強を過ごし、中体連大会を最後に3年生が引退。
ようやっと不合格組の1年生も、全体練習に混じることが許されました。
とはいえ、しばらくまともに練習できていなかったので、色々と大変でしたけども。
ノックはショートで受けていましたが、まだ体が小さかったこともあり、中学レベルの打球や距離感についていくのもやっとな状態で。
そんなある日、なかなかの大きな出来事が起きました。
当初中学では別の部活に入っていた1年生が、夏休み前に野球部に移ってきたのです。
ポジションはショート。
その新入部員と同じ小学校出身の1年生は、口をそろえて「あいつ超うまい」と言うのです。
実際うまかった。
あれ? 自分もしかしていらない……?
いやいや! こんなところで負けてたまりますか!
これが中学野球引退まで2年間続く、内野ポジション争いの始まりでした。

その後は特に大きな出来事もなく、1年生が終わろうとしていました。
そんな進級も近づいた3月、これまた大事件が。
なんと! あのとんでもない監督が!

転勤!

野球部は歓喜に沸きました。

2年生、ユーティリティ再び

2年生に進級して間もない4月上旬、春休みのある日。
「今日から新監督が来る」という情報だけがある中、練習の準備をしていたところに、精悍な印象の男性が現れました。
「今日から監督やるから。よろしく」
そう一言だけ話し、準備に入った新監督。
この時はまだ知らなかったのですが、新任教員ではなく、以前からこの中学で勤務していた学校事務員さんでした。
野球部の監督という肩書きはおよそ似合わない物静かな佇まいと、細身ではあるもののしっかりとした体つき。
そして、「前の監督よりはさすがにマシな人が来るだろう」と考えていた野球部員たちの期待を、大きく裏切ってくれました。
もちろんいい意味で。

新監督は、部員のこと、部のことをしっかりと考えてくれる人でした。
新1年生が入ってくると、前年のようなぞんざいな扱いはせず、最初から全体練習に混じらせます。
嫌な思いをしなくて済む人が増えるのは大変いいことです。ちょっと1年生がうらやましかったけど。
用具についても、古くなっていたものを計画的に買い替えるなど、ちゃんと見てくれていました。
何より嬉しかったのは、昼休みの時間に事務員室を開放してくれたことです。
前年までは、監督とまともに会話をすることなんて一切ありませんでしたから。
来客がいなければ、部員は自由に事務員室を訪れ、野球用具のカタログを見たり、監督に野球のことを相談したり、たまには他愛もない話をしたり。
そんなふうに激変した環境の中で、部の風通しは確かに良くなりました。
……ですが、私の野球に関しては、そう順調には行かなかったのです。

2年生になり、春大会で初めて背番号「18」をもらいベンチ入り。
出場機会こそありませんでしたが、前年同様スコアラーを務めました。
その後の夏の中体連でも、同じく背番号18、同じくスコアラー。出場機会なし。
あっという間に3年生が引退し、最上級生になってしまいました。
こう考えると、中学高校の部活で入部から最上級生になるまで早ければ1年3ヶ月程度って、意外と短いですよね。
その環境に置かれてた当時は死ぬほど長く感じましたけど……。

2年生の夏休み。
ユニフォームも変わり心機一転、新チームの活動が本格的に始まりました。
練習試合も毎週末組まれ、久々の実戦となるメンバーも多い中、徐々に各ポジションのレギュラーメンバーが固まっていきます。
同学年での競争があったのは5~6ポジションほどで、もちろんその中には私がいるショートも含まれていました。

そうして迎えた秋の新人戦。
私の背中には……。
「6」がありました。
やりました。やってやりました。
あの周りからちやほやされていたライバルを蹴落としたのです。
そして試合当日。

初回に3エラーしました。
1回で交代しました。
さすがに泣きました。

新人戦が終わり、残りの対外試合は練習試合だけになった後のある日。
レギュラー一塁手が怪我をしました。
そのまま控えの選手が入るのかな、と思っていたら、一塁に回ったのは正レフト。
そして私はというと、
「レフトに入ってくれ」

お、おお?
レフトですか。小6以来ですね。
いや、確かに監督と話しているとき、小学生のときはレフトもやっていたことにも触れていましたが。
で、例のライバルはセカンドに回り、セカンドのレギュラーがショートへ。
ユーティリティ生活、再び(2年ぶり2回目)。
2年生のシーズンはそのまま終えることになります。

3年生、またしても天国と地獄

中学に入って2回目の冬を越し、最終学年を迎えました。
雪が溶けて使えるようになったグラウンドの上で、私が立っていたのはショートの位置。
正一塁手の怪我が治り、それに伴いポジションが変わっていた面々も、それぞれ元の場所に戻っていました。

……2名を除いて。
昨秋、同時に行われた二遊間の入れ替えについては、そのまま継続となりました。
つまり、ショートに戻った私を待ち受けていたのは、また別なライバルとのポジション争いだったのです。

春大会が1ヶ月後に迫る中、3試合予定されている練習試合で、それぞれショートのテストをすることになりました。
まず1試合目は私がショートで出場。
この試合は無難にこなしました。
次に2試合目はライバルがショートで、私はベンチ待機。
の、予定だったのですが。
このタイミングで、正三塁手が足の指を怪我してしまいました。
サードには同学年の控え選手がいません。
次の試合、私は出場機会が無い予定です。
となると、取る行動はひとつしかないですよね。
「サードやります! やらせてください!」
サードなんてやったこともなかったんですが。
チームのためになるならってのと、もう試合に出られればなんでもいいやって感じで。
その日の練習から早速サードでノックを受け、2試合目にはサードで出場。
意外と無難にこなせるものですね。
ファールゾーンに生えている木にぶつかって足をすりむきながらファールフライを取った記憶と、花粉症で鼻水が垂れ流しになっていた記憶しかありませんが。
で、3試合目もそのまま私はサードで出場し、危なげなく守り切りました。
そんな感じだったので、春大会はこのままサードかな~? ショートじゃないのはちょっと悔しいけど、試合に出られるし、チーム事情もあるし……。
といった具合で、大会前最後の週の練習に取り組んでいました。
そして、春大会メンバー発表後。
私の手元にあった背番号は。
「11」
でした。

どうしてこうなった。

まあ、話は簡単でして。
練習試合3試合目が終わってすぐ、正三塁手が怪我から戻ってきたのです。
で、そのままぶっつけ本番のレギュラーとして復帰し、5番を貰いました。
その結果、しばらくショートから離れていた私がはじき出されたってことです。
釈然としねえ~~~~~!
釈然としない(大事なことなので2回言いました)ながらも、まあ現実を受け入れるしかなく、公式戦ではベンチ待機。
すると、練習試合では安定していたライバル遊撃手がエラーを連発。
試合途中で私に出番が回ってきました。
なんかどっかで見た事のあるようなシチュエーションですが……。
ただ、その試合では守備機会なし。
打撃も延長タイブレーク回の先頭打者というところで代打を送られ、特に目立った出来事もなく春大会は終わりました。

さて、残るは夏の中体連のみ。
私はショートに戻って、再びポジション争いを始める……はずでしたが。
なんかしらんけど、またレフトになってみたり、センターも守ってみたり、かと思えばいきなりライトで先発出場してみたり、挙句キャッチャーまでやらされそうになったり。
わけがわからないよ。
そんな紆余曲折がありながらも、最終的にはショートに戻ってきたわけですが。
ちなみに、打撃についてはここまで一切触れませんでしたが、まあだいたいご想像の通りです。
7~9番あたりをうろうろしつつ、バントをしたり、たまに打ったり。
……だったのですが。
春大会でチーム打力の弱さが露呈し、監督が打線のてこ入れを図った結果。
その次の練習試合、私の名前は何故か3番にありました。
マジ?
って感じではあったものの、実際後から思い返してみると、この時期が人生で一番打撃好調だったんですよね、多分。

そのまま3番ショートとかいう分不相応なポジションに座り続け、迎えた中体連のメンバー発表。
春大会のことがあったので、もう何があっても驚かん、という状態でしたが、今度こそ順当に「6」をゲット。やりました。

しかし。
本当のビックリドッキリは、試合当日にあったのです。

チーム状況としては、最後の大会前に4番センター(こちらも春大会後のてこ入れで4番になっていた)の選手が右手小指を骨折し、なんとかバットを振れて、送球もとりあえず出来るくらいにはなったものの、万全ではない状態。
そのため、この選手を1番で起用し、出塁したら1回でも即、代走を出す、みたいな戦略が立てられました。
で、じゃあ誰が4番になるんだろう、やっぱり元4番の奴かな、いやいや元3番の奴も前4番打ってたことあるよね、って会話があったのですが。
いざ試合前のオーダー発表となり……。
「3番、レフト……」
おや? 自分は3番ではない?
「4番、ショート、(くま氏の本名)」

!?!?!?!?!?!?!?!?

心臓飛び出るかと思いました。
実際、返事する声は多分震えてました。
中学最後の大会の、負けたら終わりの試合で、人生初の4番って。
すげー事もあるもんですね。
いや、そんなこと考えてる場合じゃない。
4番ですよ4番。打たないと。打つことを求められてますよ。
やってやろうじゃねえかよこの野郎(やけくそ)

見事に3タコでした。
試合もふつーに負けました。
しょーがねーだろ相手は1年生の夏からエース張ってた、うちの地区でトップクラスの投手だったんだから。
こうして私の中学野球は、あっけなく幕切れを迎えたのでした。

そして硬式へ……

控えめに言っても弱小な野球部でプレーし、ろくたま成績を残せなかった中学時代。
ですが、それでも「まだ野球を続けよう」という気持ちはありました。
となると中学の次は当然、高校野球です。
硬式です。
甲子園に道が繋がっている、あのテレビにも映っちゃう高校野球です。
まあ当然のように、自分が如何に身の程知らずだったかを思い知ることになるのですが。
そのお話はまた次回に。

第3回へ続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?