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『愚者のエンドロール』が『毒入りチョコレート事件』を乗り越えるために(『愚者のエンドロール』について)

米澤穂信『愚者のエンドロール』の大変重大なネタバレを含みます。

「全部?」は誰に向けられたのか

アニメ視聴時からずっと気になっていた。
次は原作からの引用。映画の完成試写会後、伊原摩耶花は折木にこう問いかけた。

「あの解決は、折木が出したものよね」
 頷く。
 何を考えているのか、伊原は慎重に念を押してきた。
「全部?」
 と言われても、俺は完成版の映像を見ていないからなあ。勢い、返事も曖昧になる。
「多分」
 その答えを聞くと、こいつの目に鋭さが宿った。それまでとは一段違う、強い語調になる。

『愚者のエンドロール』七 打ち上げには行かない

まとめれば「万人の死角」は全て折木のアイディアかという趣旨の質問、けれど伊原はどうして「全部」と付け足してまで確認したのだろう。「万人の死角」は折木のアイディアか、そうだ、では不十分なのか? 伊原の「全部?」という問いかけはどんな力があったのか?

そんなことをしばらく考えていたけれど、伊原にしてもせいぜい「万人の死角は折木のアイディアを土台に誰かが完成させた解決か否か」という、ザイルの不在を問うための前提を整えただけだろう。物語全体に影響する要のような一言ではなかった。

けれど、この「全部?」という問いは『愚者のエンドロール』という作品のすごさを見るうえでとても重要に思う。一つ言ってしまうと、この「全部?」は伊原から折木に向けられた台詞であると同時に、作者から読者へと向けられた台詞でもあると思う。今回はそれをつらつらと書いていきたい。

推理の寄木細工『万人の死角』

密室に対する解決、「万人の死角」は一見すると全て折木の独創的な推理のように見える。けれど、実は、そうじゃない。「万人の死角」には古典部で審理してきた三人の解答者の答えがふんだんに引用されているのだ。

折木案の内容を見てみよう。折木はカメラマンもまた登場人物のひとりであり、彼が犯人だとした。ロビーでカメラを止め、再び撮影が始められる間の空白時間で犯行を行えば密室の謎は解ける、と。

 故に犯行は簡単です。七人目は全員が劇場内に散るのを待ち、手に持ったカメラを止めると速やかに事務所のマスターキーを入手。海藤を殺害した後、それを使って部屋を閉じます。そしてロビーで他のメンバーが戻ってくるのを待ったんです。(折木奉太郎)

『愚者のエンドロール』六 『万人の死角』

折木は沢木口の七人目案を(本郷が七人目を探していたという新情報を考慮したとしても)採用したし、中城や沢木口のように力押しで物語を進めようとせず、あくまで羽場が望んだ本格推理を目指しているように見える。本郷の作った密室(難解な謎)を叙述トリックで解き明かす推理を披露した。

内容的には中城の意見などどこにも活かされていないように思われるだろう。けれど、作品の性質としては反対に、中城と沢木口の意見が取り入れられている。

入須は審理の際に折木案の不備を指摘したが、折木はそのうち第二の密室の未解決に対してこう答えた。「沢木口の言葉を借りましょう。……別にいいでしょう、謎くらい」

 ビデオ映画の目的は、第一にスタッフの自己満足とすれば、第二は観客を楽しませることでしょう。登場人物を悩ませることじゃない。中城の言い草じゃないですが、謎は観客が謎に感じればいいのであって、登場人物には自明のことでも構わない、とも考えられませんか。(折木奉太郎)

『愚者のエンドロール』六 『万人の死角』

二人とも謎と解決なんて眼中にない。中城はドラマ性を、沢木口は明瞭さを物語に求めた。ドラマティックな物語で観客の心を掴もう、クリアな理屈運びで謎を解決しよう、と。では折木案の評価はどうか。

 カメラマンが七人目ってのは面白かったし、登場人物全員が一斉にカメラ目線になるシーンは映像として迫力があったわ。(伊原摩耶花)
 カメラマンを光の下に引き出すなんて実に僕好みだよ。(福部里志)

『愚者のエンドロール』七 打ち上げには行かない

折木自身が語るように犯行手口は簡単だし、伊原や福部が褒めるように七人目の発想は斬新でおもしろく、映像の迫力も相まってきっとこの映画は話題になる。観客に易しくわかりやすくなおかつ楽しい、つまりエンターテインメント性にあふれた映画となった。そしてその娯楽性のために多少の粗(第二の密室の未解決)に目を瞑った。

折木が「万人の死角」に一人で思い至ったことに疑いはない。ただ、そこ至るまでの材料と方向性は二年F組の三人の見解から集めたものに過ぎない。折木案が意図しないながらも内容的、性質的に三人の要素を受け継いでいるのは、そういった点に理由があると思う。

伊原の発した「全部?」という問いかけにこのようなことを問う意図はない。けれど、作者から読者に対してのひとつ挑戦的な問いかけであった可能性はないだろうか。

『毒入りチョコレート事件』を越えて

さて、折木は無自覚に他案の要素を抜き取り(他案から影響を受けて)自らの答えを組み立てたと言える。これは米澤穂信が『愚者のエンドロール』の本歌、アントニー・バークリー『毒入りチョコレート事件』のチタウィックの手法を丸ごと反転させているようなものだ。チタウィックは五人の案を比較分類の上検討し、それぞれから妥当だろう要素を抜き出し、それらを組み合わせて真実を導いた。

本歌に忠実になるならば、折木もチタウィックと同様に真実に辿りつかなければならない。けれど、折木は誤った。手元の材料の組み合わせを間違えたのだ。

この誤りが『毒入りチョコレート事件』から『愚者のエンドロール』への転換点だ。

複数の探偵(役)による多重解決という構造は踏襲している。しかしただ多重解決をなぞらえるだけでは『毒入りチョコレート』の模倣に留まってしまう。歴史的名作の文脈を引きつつ、しかしてそれからどのように逃れるか。

そこでチタウィック役、つまり折木が推理を誤る。その誤りを古典部の三人が指摘し、三者三様の観点の差が興味深く、どうしてか省エネ主義に反して答えを考え直す折木の姿に彼の変化が見られておもしろい。ストレートに折木が真実(本郷案)に辿りついてしまうとこれらの描写はありえない。

折木の誤りを古典部三人が指摘することで多重解決の構造を覆う入須の思惑へと接続する。『毒入りチョコレート事件』を踏襲しながらもそこに留まらず、多重解決法を消化し乗り越え古典部の物語として『愚者のエンドロール』は幕を閉じた。

あとがき

作者はあとがきで「かの傑作を相手にどこまで本歌取りがなったものか」と思案しているけれど、一読者としてはすごくすごくてすごいなあと思うばかりです。

古典部シリーズの中では『愚者のエンドロール』が一番好きです。みなさんのおもしろい読み方があれば教えてほしいです。妄想が大変捗りますゆえ……noteですることではないかもしれませんが。

私に物語の歓びを与えてくれる全ての作品に感謝と尊敬を捧げます。

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