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「失われる郷土史」とは。愛川町審議会「文化財保護委員会議」(2023年5月12日開催)

2023年5月12日 14時
愛川町役場別館会議室
愛川町審議会「文化財保護委員会議」
傍聴:1名(私のみ)

久しぶりの審議会傍聴

いつ以来だろう?こうやって記事を書くのは。

最近noteに昔の別サイトでの愛川町関連記事を転載しまくりました。
まあ、自分なりの整理整頓でして。めでたく無職になりましたし。
その過程で昔書いた「審議会傍聴」の記事を恥ずかしなら読み直してました。
昔は愛川町の審議会に参加しては、この町の断片をちょっと知ることができました。
多少の儀式色を纏う「町議会」を見るよりも、リアルタイムで専門的委員が意見を出し合う「審議会」のほうが何倍も勉強になります。

もう一度この町を一から見ていこう。

愛川町に来てちょうど10年が経ちました。
もうそろそろこの町の為に汗を流してもいいのではないか。
今の僕は「この町の為に何ができるのか?」を改めて考えています。
非力な僕に何かできるわけない。
って、まるで今どきのアイドルの歌の歌詞のようなことをつぶやきながら
「非力」を「有力」にかえるために勉強のしなおしです
4年くらいがんばって勉強します。
4年後に答え合わせしませう。

郷土史を学ぶということ


「歴史」とは人々の生きてきた足跡です。
となると「郷土史」は、地元の諸先輩方が町を作ってきた足跡となります。
人間でいえば「経歴」です。
どのように生まれ、どのような思想をもち、どこへ進むのか。
その町のことを理解するためには「郷土史」を学ぶことが近道です。
いわゆる「民俗」や「風土」は当然ながら「その土地の歴史」=「郷土史」に立脚するものですから、そこで生まれた人たちにも大なり小なりの影響を与えています。
これは特に活動範囲が狭い子供たちに知ってもらいたい。
「郷土史」は「子供でも行ける範囲の歴史」ですから。
自分の土地に誇りや知識を持つためにも、若いうちからの郷土史はおすすめです。
大人になるとどうも「郷土史」という言葉が玄人じみて感じ、大きな歴史しか見ない傾向があります。
いろいろなものが絡み合ってこんがらがった大きな結び目になってしまい、しかも史料や研究家が少ない「郷土史」はちょっと難しいところもありますからね。理解するのに時間もかかるし、派手さもないからなあ。「郷土史」って。

何週間も前から愛川町ホームページの審議会の一覧を見て日程を調整し、
数年ぶり(7年か8年ぶりかな)に「傍聴」する。
偶然にも僕のソフトスケジュールに当てはまったのは
「文化財保護委員会議」でした。

「文化財保護委員会議」
<担当課>
スポーツ・文化振興課
<主な設置目的>文化財保護および愛川町文化財保護条例に基づき、町内所在の有形、無形文化財、史跡名勝などの保存および活用に関し、教育委員の諮問に応じて、調査・審議します

愛川町ホームページより

確か数年前にも傍聴した審議会。郷土史好きの僕にとってはこの上ない「復帰戦」の相手。いやいや、運命を感じるね。

いざ。数年ぶりの傍聴

「傍聴に行く」

といっても、傍聴する側は指定時間に(大体会議開始の10分前までに受付。今回の場合は13時50分までに受付)に行くだけですから楽なもんです。
でも、傍聴される側にとっては、仕事は増えます。
今回も僕が元気よく「傍聴にきました!」と言えば
役場の職員さんたちの「え?ぼうちょう?」という得も言えない空気が流れ、慌てて椅子や机を準備します。
いつもこの時が申し訳ない気がしてますが、でもまあ、傍聴は基本的にできることですから。ちょっとは前もって準備をしてもらえるといいっすね。傍聴席くらいはさあ。来ないこと前提じゃん。まあ、たぶん審議会の傍聴なんて、僕しか来ないだろうけどさあ。

無事に「傍聴許可」も出て
審議会開始です。

「文化財保護委員会議」は今年度最初の開催。
専門性が強いため公募委員はなし。
教育長と教育次長が臨席します。
まあ、正直言いますと取材やらお世話になっている人が事務局の大半なんで、僕にとってもアウェイ感は全くないです。

委員長あいさつ、教育長あいさつがあって、審議会は議事にはいります。

「郷土史」に「断定」はない。

議事の1番目は「令和4年度事業報告」、
議事の2番目は「令和5年度事業計画(案)」です。
この審議会では「文化財保護」「山十邸」「郷土資料館」の3つの事業を審議します。
「令和4年度事業報告」で気になったのは愛川町郷土資料館の前年度来場者数が6万人を超え、過去五年で最大となったことです。コロナがなんとなく落ち着き、人々が動き出した結果でしょう。あいかわ公園内にある郷土資料館は、公園に来た人が「あら?なにかしら?ここ」的な感じで来館しているパターンもでしょうし。
「令和5年度事業計画(案)」に関しては、「令和4年度事業報告」にない項目で「三増合戦場跡の案内板リニューアル」が気になりました。武田と北条が激突した「三増合戦」は、高峰地区・三増地区にとっては重量の高い「郷土史」であり、愛川町から日本全国へ輸出できる「戦国史」です。
「三増合戦祭り」がない今、この「三増合戦」をどうアピールするか。
「三増合戦」はどんどん広めてほしい。
いつになるかわかりませんが、大河ドラマ「北条五代」が決まってからあわてってアピールするのももったいないしね。

議事の3番目は「文化財案内標柱の文案」、
議事の4番目は「文化財案内板の修繕」、
議事の5番目は「ふるさとの木標柱修繕」。

この3つの議事が今回のメインです

「文化財案内標柱」はこれ。

伊保坂の標柱

「文化財案内板」はこれ。

姫の松の由来の案内板

「文化財案内標柱」と「文化財案内板」は、町内に合わせて約130か所にあります。

「ふるさとの木標柱」はこれ。

残草のケヤキの標柱

「ふるさとの木標柱」は町内18か所に設置されています。

今回これらのいくつかが古くなり、修繕をするにあたって「文面」もアップデートしましょう、ということです。

議事の3番目は「文化財案内標柱の文案」で題材になったのは三増にある「山王坂」の標柱です。

山王坂標柱

場所はここ。

山王坂の標柱の場所。県道沿いにあります。

こちらを今の鉄柱から石柱に変えるに際し、「山王坂」の案内の文面も修正しましょうというわけですが、いくつかの文面案がでました。ちなみに文面につかえる文字は50文字前後。

その中のひとつを見てみましょう。

栗沢沿いにある山王社のほとりかの三叉路から、御炭山関係者の人々が住んだとされる屋敷の集落のほうにのぼる坂。

審議会資料より

この文面が採用されるかどうかは結局のところ継続審議になりましたが、
この51字の文面だけでも「郷土史」が詰まっています。

栗沢沿いにある山王社のほとりかの三叉路から、御炭山関係者の人々が住んだとされる屋敷の集落のほうにのぼる坂。

審議会資料より

委員の方々の話を「傍聴」した内容から察するに

栗沢」とは、坂近くを流れる川で、「滝ノ沢」とも呼ばれています。三増合戦でも登場する川ですね。
坂の下あたりにある「山王社」はこの坂の由来となっています。
現在「御炭山」という名前は残っていませんが、いまの美化プラントのあたりにあった山。かつてはこの辺で炭を作っていたので、その炭の素材となる木のある山か作業場がある山のことでしょうか。
で、この「屋敷」は地名。炭関係の人たちの屋敷があったことからこの地名になったのでしょう。

ですが、この「屋敷」は地名として残っていません。しかし、お年を召したマダムやジェントルマンに「この辺の地名が屋敷ですか?」と聞くと伝わるそうです。
そして、今この辺りは「金屋(きんや)」といわれていて、「屋」は「屋敷」の「屋」でしょうが、「金」の由来は定かでない。しかも、山王坂下の地名は「金谷(きんや)」という。この「金」の由来も定かではない。

51字。
たった51字にこれだけの郷土史が詰まっています。
「屋敷」がなぜ「金屋」になったのか?
その際の「金」は?
しかも、なぜ同じ読みで字が違う地名が隣接しているのか?
僕はこの謎を考えるだけでこれだけで一日時間をつぶせますね。
ご飯三杯はいけます。できれば、とんかつもつけてくれれば。

つまりこういうこと。

ですが、さすがにこの内容をすべて標柱に載せるわけにいかずに、かなりそぎ落とした一定の情報量しか載せられません。
それに地元・三増以外の人から見れば、<「屋敷」は「建物」>と勘違いするかもしれないし、現存地名でない<御炭山>への意識が囚われる可能性もあります。要は「処理情報の上限突破」は避けなくてはいけない。
その上で一定の情報は維持し、郷土史に興味を持つトリガーになるような文章にならなくてはいけない。
この微調整はなかなか難しく、多くの人を意見を織りなしてできることでしょう。

議事の4番目の「文化財案内板の修繕」における文面の構成もそうです。
今回の審議会では
・田代「勝楽寺の山門」
・三増「旗立て松の由来」
・半原「磨墨沢の伝説」
の案内板の修繕とともに文面の見直しが行われました。


半僧坊でおなじみ勝楽寺。宮大工の技法あふれる山門は立派。

田代「勝楽寺の山門」を例にとれば、その文面の記載は割愛するとして
そもそもの「完成時期」と「完成させた人物」があやふやなのだ。

愛川町のホームページによると

文政12年(1829年)、勝楽寺二十三世大雄亮仙和尚のとき、山門造営を発起し、半原の柏木右兵衛安則が大工棟梁として着工しました。しかし、安則の死去にあい工事は中断。嘉永2年(1849年)、安則の子、矢内右兵衛高光は父の志を継ぎ工事を再開し、2年後に落成しました。

愛川町ホームページ

とありますが、そもそも1851年に完成にも異説が多く、柏木右兵衛安則と矢内右兵衛高光の関係性(「親子」ではなく「祖父と孫」ではないか)についても議論の最中のようです。詳しくは鈴木光雄さんの「半原宮大工矢内家匠歴譜」を読んでもらいたいです。読みごたえあります。


この存在感。うちの本棚にもあります。非常に興味深い本です

「郷土史」の屋根にあたる「歴史」は「過去の出来事」でありながら
最新の研究・調査のより現在で大きく姿を変えることがあります。
最新の情報をどの程度反映させるか。
しかも、「歴史」は、その現場を見たものがいない限り、「断言できる事実」ではなく、すべてが「伝承」や「伝説」「伝聞」にすぎず、特にそれらが色濃く表れる「郷土史」の「事実と思われる事実」をどこまで織り込むのか。
「文化財保護委員会議」は、持ち込まれた様々な史料が並べられ、委員が討議を重ねながら進む。さながらそこは「審議会」ではなく「郷土史研究の場」となる。そこには数字のような答えはない。しかし、これから後世へと形のない郷土史を壊すことなく伝えるために議論は続けられる。
今回の審議会では6つの文面が話し合われたが、3つが継続審議となったのはそういう事情があるからです。
後世へ伝える。
そのために、子供たちに伝え易いように漢字に読み仮名が書いてあるのも修正の大きなポイントです。

今年度初の「文化財保護委員会議」は1時間ほどで終わりました。
僕の知らない「郷土史」がほぼで、大変勉強になった審議会でした。

もう審議会も終了の方向へ進んでました。
僕もそろそろと荷物を片付け、手持ちのノートにかいた審議会のメモを見直していますと

「最後になんだけど」

と審議会委員長。
ここからこの審議会は僕にとって「一番の収穫」となりました。

残せるものはできるだけ残そう


すでに本日の審議会の議案は濃密は時間の中、すべて終わりました。

審議委員長の

「最後になんだけど」

この言葉から始まった時間。

委員長は5月10日に放送されたNHK「クローズアップ現代」の話を始めました。

この日の放送のタイトルは「思い出の建物”消えていいですか?問われるニッポンの建築文化」でした。

内容は

いま、懐かしの建物、思い出の建物が全国各地で取り壊しに…。「中銀カプセルタワービル」や「東京海上日動ビル」など、名建築が次々と姿を消しています。維持管理や耐震対策など、多額の費用が所有者にのしかかる背景も。そうした中、私財を投じて名建築の再生に取り組んだ俳優・鈴木京香さんの取り組みや、宿場町の街並みを住民主体で守った兵庫・丹波篠山の事例も紹介。歴史的建造物の継承はどうあるべきか考えました。

NHK「クローズアップ現代」ホームページより

詳しくはこちらを見てもらうとして

今、日本中で歴史的建造物が消えて行っています。
「維持費」「再開発」「所有者変更」などその理由はさまざまです。
「残したくても残せない歴史遺産」が日に日に生まれています。
人類が進歩し日本が開発される続ける時代が流れていく中で、そういう存在が生まれるのは仕方ないことでしょう。ある程度は納得しなくてはならず、でも、すべてを壊すことは歴史の否定となり、往時をしのぶ術を失うこととなります。当然、学問としての「歴史学」の進捗性も鈍くなります。
「全部ではなく一部だけでも努力して後世に残せないものか」。
そう考えるのは歴史の中で生きる人々として、思い出の保管も相まって
当然の感情だと思います。

「残せるものはできるだけ残そう」

というのが委員長の言葉でした。

ここから先は後日公開される議事録に記載されるのかわからないお話です。
雑談、非常に熱を帯びた雑談ですが、をそばで傍聴したことを僕はこれから書きます。裏付けはまだです。これからやりますが、その前にここからの話を聞いて、なんらかの感情を持ってほしい。とくに愛川町のみなさんは。

「半原水源地」

委員長の「残せるものはできるだけ残そう」の言葉の後に俎上にあがったのは「半原水源地」の事でした。

愛川町半原にある「横須賀水道半原水源地」の歴史価値はもはやこの場で論じる必要もない超「近代歴史文化遺産」です。
今や「開発予定地」の看板が立つだけとなった「半原水源地」ですが、その歴史的価値を残そうとする人々もいます。

以下、2018年の神奈川新聞の記事。長いですが引用します。

日本の近代化を支えた水道施設「横須賀水道・半原水源地」(愛川町半原)の跡地について、同町が横須賀市から約9千万円で買い取ることで大筋合意した。両自治体は議会の承認などを経て2017年度中に売買契約の成立を目指す方針。跡地は敷地面積約3万5200平方メートルを有し、観光資源として存在感を増す宮ケ瀬ダムにも近いため、町は観光と産業が連係した新たな拠点として整備したい考え。

 同水源地は、愛川町を流れる中津川から水を取り込み、53キロ離れた横須賀の逸見(へみ)浄水場まで水を送っていた水道「半原系統」(1921年完成)の上流側の施設。横須賀軍港などで使うため引かれた旧海軍の軍用水道がルーツで、戦後は横須賀市民の上水道の役割を果たした。しかし水需要の減少や施設老朽化などで2007年に取水をやめ、15年2月に廃止となっていた。

 半原系統が日本の近代化に果たした役割の大きさを鑑み、横須賀市でも同水源地の活用法を模索したが、「市から遠隔地にあり、市民による活用を促進するのが難しい」と判断。一方、地元の愛川町は「町の再活性化につなげる新たな拠点づくりに生かしたい」と着想。両者で協議を重ね、今月5日に売買を進める上での基本事項をまとめた協定の締結に至った。

 愛川町は18年度当初予算案に「半原地域における観光・産業連携拠点づくり」の事業費として跡地の取得費用を含め約1億1400万円を計上。今後、市町はそれぞれの議会で予算案の承認、さらに町は財産の取得に関する議決など必要な手続きに入る。

 跡地の利活用を通じた町経済の活性化を目指す愛川町では、17年度中に基本計画を策定する予定。小野澤豊町長は20日の会見で、「町民の子や孫といった次の世代に誇れるような形に活用しながら(新たな拠点として)つくりあげていきたい」と語った。

神奈川新聞 2018年2月26日

つまり、現状が維持されることなく、開発されることはほぼ決まりです。
「町の再活性化につなげる新たな拠点づくりに生かしたい」。
この言葉を覚えておいてくださいねー。

で、ここから「雑談」の内容です。

ある日、他の横須賀水道施設を見学に行ったときに、施設の人から「愛川町に残る横須賀水道関連の立て坑やトンネルは埋め立てると横須賀市が決定した」と聞いた。あわてて、役場の水源地開発担当者に確認すると「知らない」。水源地開発担当者が横須賀市に確認をしたら「そういうことになっている。愛川町に了承は得ている」と。役場内の担当部局が違うらしいけど、愛川町の中のことを役場内で共有できないのかな。

雑談

文化財を担当する事務局、教育長もこの話を知らなかったようです。

繰り返しますがこの話は裏付けができていません。
もしこの話が本当であれば。
かなり由々しきお話ではないでしょうか。
あくまでも「本当にあった話」で筆を進めます。

先ほどからいうように「横須賀水道半原水源地」の近代遺産的価値は高く、
それは水源地だけでなく、53キロ離れた横須賀の逸見浄水場まで続く水道「半原系統」も同様の価値があります。

愛川町が横須賀市から譲り受けたのは「半原水源地」だけで、それに付随する愛川町の中にあるトンネル、水道管などの水道設備(遺構)は受け取っていないのかな。
横須賀市としては飛び地のように愛川町の中にある文化財まで、管理するのは難しく、目の届かない場所で事故など起きてはいけない。なので、埋める。この一連の動きはわかります。気持ちもわかります。

しかし、愛川町はその言い分を鵜のように飲み込み、了承したことに問題がありそうです。
半原水系の遺産は愛川町の中にあります。
つまり、横須賀市の持ち物であっても愛川町の文化財でもあります。
その価値を論じることなく、ただ単に行政的手続きで、遺産を破壊する事は
果たしてこの町の歴史を理解する心があるのだろうかと疑いたくなる。
トンネルをすべて残すのでなく、状態のいいものだけでも残せないものだろうか。あの石積みの壁の技量と努力は後世に伝えるものであり、その熱量はトンネルをこのあと100年は維持できるほどの頑丈さを生み出しています。
トンネルの維持費ってかかりますか?
半原水源地を観光資源にしたいならばその不随する歴史遺産ものこすべきでしょう。
十分な議論があり、その上で「残さない」となればいいけど、どうも今日の審議会の事務局の態度を見れば、「文化財保護」として役場全体で論議されているとは到底思われないですね。

そもそもこのことに「GO」サインを出した愛川町の担当の方は「横須賀水道半原水系」を理解していたのでしょうか。
できましたら、この町を運営する人たちは郷土史の常識として「横須賀水道半原水系」を知っててほしいです。

「郷土史」とは先人たちがこの町をつくった足跡です。
「歴史」とは時間の流れであり、遺産や史料、多くの研究者の努力で、その流れが可視化され、二度と戻れない、触れることのできない過去の出来事がはっきりとした形として私たちの目の前に存在することができます。
それを破壊することは、過去をも破壊する事というのは少し飛躍しすぎでしょうか。

「残せるものはできるだけ残そう」

この言葉には
「仕方なく残せなかったものはもう二度と戻ってこない」
という意味があります。

失った遺産をいくら精巧にレプリカやAIで再現してもそれは偽物に過ぎず、
失った本物が雄弁に語る歴史の意味は深い。
人は過去からしか未来を想像できない。
そこから未来に語れるものはあるのだろうか。
だから、残す努力はしなくてはいけません。
未来へ少しでも多くの過去のひとびとの息吹を伝えるために。

この町を運営する人たちは
「この町の足跡」を失うことに
心を痛めて、気づいてほしい。

過去からの「足跡」を失うということは
未来への「道しるべ」を失うことに等しい
ということを


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