誰かの「目新しい」は誰かの「当たり前」なんだ

誰かの「目新しい」は誰かの「当たり前」

私は「当たり前」の人が「目新しい」の人に教えてあげればいいと思うんだけど、
そうはならないことも多々あるよね。

「できない人を馬鹿にする」というのは論外だけど、「自分にとっての当たり前を教える」ってのは時にストレスなんだ。
「当たり前」と思ってる人は他の人にとっても「当たり前」だと思いがち。しかたない。
だから、それをあえて教えるってのは相手を"軽んじてるんじゃないか"と思ってしまう。

こんなこと知ってるよね?でも知らないんだよね?
うーんなんでだ。知ってるはずなのに知らないと言って教えを請うてくるのはなんでだ。

そんな意味不明な葛藤から誤解が生まれる。
それはストレスになり、
自己嫌悪(相手のことナメすぎなんじゃないか)になったり、
相手に八つ当たり(なんでこんなことも分からないんだ)したりしてしまう。

"教える"というのは、自己肯定感と自己否定感のバランスを非常に試される場だと思う。
「お前らに教えてやるよ」という高圧的な態度は不評だとして、「まあ君たちならできるよね。こんな簡単なことをわざわざ教えるなんてごめんね」という謙虚すぎる態度も不評に違いない。

その中間(?)のようなところで教えられるのが一番いい。


こんな風に言葉をこねくり回してではわかってるつもりだけど、これは実行して完成する類のものだから、実践して体得しないと。

体得には意識し続けることが大事だと思う。
そして今回意識する言葉は


誰かの「目新しい」は誰かの
「当たり前」なんだ


                終

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