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熊野通信アーカイブス(その拾参) :悠久の時の流れの中に生きる・・・

一体どこへ行き着くんだろう?そこに何があるんだろう?・・・
私達は「道」を通って「未知」と出会いますが、今回はいにしえの熊野古道を歩いた、鎌倉時代の歌人藤原定家(フジワラノテイカ)をご紹介します。

激動の時代に生きて和歌をまとめた大歌人!

藤原定家は武士の政治が始まろうとしていた1162年に生まれ、万葉集や古今和歌集と並ぶ三大和歌集のひとつと称される新古今和歌集を、後鳥羽上皇らと共に4年の歳月をかけて、1205年に編纂しました。また古今の優秀な和歌100首を集め、小倉百人一首を完成させた歌人として有名です。百人一首の中の定家の歌は「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」でご存じの方も多いと思います。

熊野詣に随行した自筆の旅日記「熊野御幸記」

当時の貴族の熊野詣で一行の人数は、およそ200-800人の大スケールで総行程は往復で600km以上、約一ヶ月の旅。全員が白装束でその着替えや衣装だけでも大変な荷物だったようです。中でも1201年に後鳥羽上皇が熊野へ参る際、定家は40才になっての初めての随行で、神前に供える御幣を持ってゆく役目や、道中で開催する歌会の務めもあり、大変な思いをしたようです。

「熊野御幸記」の中では「風邪で苦しいのに海の水を浴びた」とか「宿は狭くて、漁師の小屋のようだ」と、熊野詣での道中のつらさを嘆いています。確かに蟻の熊野詣での庶民の間では、旅の途中で食料が尽きたり、疲れて倒れたりその地で亡くなったりした人もあり、相当厳しい道のりの「生まれ変わりの旅」だったようです。

その熊野古道を歩いて京の都から14日、連綿と重なる熊野三千六百峰の山並みの向こうに、目指す熊野本宮大社が初めて見える・・・その喜びに思わず伏して拝んだ「伏拝王子」と言う場所がありますが、定家はここで「感涙禁じ得ず」とその苦労を乗り越えた感動の言葉を記しています。

超新星爆発か彗星か・・・天体観測も日記に書いていた!

定家は自分の心を景物に映し景物の美を自分の心に移し、日記と言う形で19才から80才までを「明月記」としてつづり世に残しました。中でも皆さんよくご存じの十円玉に描かれている、宇治の平等院鳳凰堂が建立された頃「夜中に彗星が東の空に見え、大きさは木星ほどだった」と定家の日記には、天体の動きも正確に書かれていたのです。

現在で言う「かに星雲(オリオン座付近)」の出来事ですが、超新星爆発の初の実証例として天文学的価値があると後に国宝にも指定されています。

悠久の時の流れに自らを映し人生をとらえよう・・・!

定家が見た夜空を私たちも見上げられる訳ですが、そこには星々の生まれ変わりの壮大なドラマがあります。悠久の時の流れに身を任せて日々を生きる私たち・・晩秋の夜空に「自分は一体どこから?何のために生まれてきたのか?そしてどこへ還るのか?」と自らを離れて自らを見つめ、生々流転する「大いなる生命の流れ」に、想いを巡らせてみたら如何でしょうか?きっと普段見過ごしている「大事な何か」が見えてくると思います。

NPO法人 熊野生流倶楽部 代表 満仲雄二

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