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「保育園、寂しいですね」

1月の朝は、空気がキンと冷えている。さむさむ、と肩をすぼめながら、わたしは我が家の玄関に立つ。目の前には、スーツの上にダウンジャケットを着込んだ夫と、くまちゃんの耳がついたモコモコの上着に身を包んだ赤ちゃん。開けられた扉の向こうから、ひゅうと冬の冷気が入ってくる。

「今日もさむいねぇ」
「ほんとにさむい」

寒そうにダウンにあごを埋めながら「行ってきます」とベビーカーを押し始める夫に、わたしは「行ってらっしゃい、気をつけて」と声をかける。視線を下げて、赤ちゃんにも。「行ってらっしゃい、気をつけてね」。ほっぺをつんつん、おでこをなでなで。キョトンとした顔をする我が子に、もう一言。「今日も保育園、楽しんでね」。

***

2022年6月に、第一子を出産した。ついこの前産まれた気がするのに、すくすくぷくぷく大きくなり、あっという間に生後6か月。早いなぁ、びっくりだなぁ。なんてのんきにしているうちに、2023年1月、気づいたら保育園が始まっていた。

気づいたら……と言っても、申し込んだのは自分たち。入園許可の連絡を保育園からもらい、ありがたく受けたのも自分たち。すべてわかって進めたことだけれど、それでも、もう保育園か! いつの間に!? と頭がついていかないのだ。
子どもの成長は早い。理解しているつもりで、実際のところはできていなかった。こんなに早いんだ、わたしたちの手からあっという間に離れてしまうんだな……と、心にグンとわいてくる寂しさ。

通っている整骨院のスタッフさんにも、先生たちにも、実家の銭湯のお客さんにも、何度も言われた。「今月から保育園なんですよ」とわたしが話したそれに、返ってくる「寂しいですね」。

「もう保育園なんですか?」「寂しいですね」「お母さんは寂しいですよね」「早く会いたいんじゃないですか」「早いねぇ」「寂しいね」

うん、そうなの、寂しいよ。産まれてから半年、ずっと一緒だったもの。ふにゃふにゃの新生児だったあの子が、ものを、ひとを、目で追うようになり、笑うようになり、寝返りをして、ずり這いをして、ハイハイをして。わたしに向かってニコニコと笑顔で近づいてくるようになり、そばにいないと泣くようになり、ピッタリくっついて眠るようになり。成長を見てたもの。ずっと、一緒だったもの。そりゃあ、寂しいよ。

「こんなに早いなんて、びっくりだよ。うー、寂しいなぁ。保育園、大丈夫かなぁ」

保育園が始まる数日前。床に敷いたラグにコロコロと寝転がる赤ちゃんを眺めながら、ポソリとつぶやいた。そんなわたしに、家に遊びに来てくれていた姉が、笑いながらこう言った。

「通い始めたら、たくさんの人にかわいがってもらえるよ。いっぱい、いろんなこと覚えてくるから。楽しいよ、きっと」

「寂しいね」と言われなかったのは、はじめてだった。「そっか、そうだよね」。
たくさんの人にかわいがってもらえるのは、いいな。とてもすてきなことだと思った。

***

保育園にお迎えに行き、帰宅した日。赤ちゃんの靴下が茶色に汚れているのに気づいた。まだ歩かないから靴下が汚れることはあまりなかったけど、どうしたのかな。連絡帳を見ると、「今日は砂場に行きました。不思議そうな顔をして、砂をニキニギしていました」と先生からのコメント。

汚れた靴下。わたしがいなくても、ちゃんと、汚れてきた靴下。洗面所で小さな靴下を洗っているときに、たまらなく感動した。
先生、ありがとう。この子をかわいがってくれてありがとう。新しい景色を見せてくれて、経験をさせてくれてありがとう。この子を一緒に育ててくれて、守ってくれて、ありがとう。

そうだね、離れるのは寂しいよ。でも、今まで身内だけで育てていたこの子に、子育ての右も左もわからずに育てていたこの子に、保育のプロである人たちが手を差し伸べてくれる心強さといったら。閉じられた家庭の中に、知識や経験がある第三者が入ってきてくれる頼もしさといったら!

保育園の入園が決まったとき、この子の人生の中でこんなにもぴったりと一緒にいられる時間はこれで終わりなのかもしれないと、寂しさで泣いた。すんすん、寂しいよう。おかあさんと離れて大丈夫かなぁ。心配でも泣いた。それは本当。

けれど、こうも思った。あぁこれで、夫が会社にいる日中、ひとりでこの子を守らなくてもいいのか。仕事もできる。ゆっくりご飯も食べられる。好きなタイミングでトイレに行ける。あぁ、すごいな、なんて励みになるんだろう。
すとんと、肩の力が抜けた。それも、本当。

***

1月の朝は、空気がキンと冷えている。さむさむ、と肩をすぼめながら、わたしは我が家の玄関に立つ。1月に入ってからの、いつもの光景。今朝の赤ちゃんは、フードに怪獣のギザギザがついた上着を着ている。夫はダウンジャケットのチャックを首元まで上げて、冷気の侵入を防いでいる。

「さむいねぇ」
「さむいさむい」

わたしは玄関に立ち、いつも通り声をかける。まずは夫に「行ってらっしゃい、気をつけてね」。その後で、ちんまりとベビーカーにおさまる赤ちゃんに手を伸ばす。ぷくぷくのほっぺを少しだけ撫でて、「行ってらっしゃい、気をつけてね」。赤ちゃんはなんのことやら、よくわかっていない顔でニコォと笑う。わたしもつられて笑う。小さなおててをつんつんして、もう一言。

「今日もたくさん、楽しんでね」

保育園に向かうふたりを見送り、玄関の扉を閉める。リビングに戻ると、そこにはわたしひとりだけ。仕事を始める前になにか飲もうと、お湯を沸かして、あたたかい紅茶を淹れる。トポトポとマグカップに注がれたそれを、静かな部屋で、冷えずにあったかいままで、ゆっくり飲んだ。

行ってらっしゃい。だいすきだよ。
おうちに帰ってきたら、またたくさん遊ぼうね。

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