呼吸にも集中できない時代に生きる若者を救うのは、無責任に知ることではなく、責任のある信ずることをするである。
ってタイトルになったけど、どうだろう。普段はwebメディアの構築からディレクション、ライティングをしているから一日に1万文字を執筆することなんていくらでもある。
文章に全ての熱意を込めて書いてるからと言われたら嘘だ。ビジネスライクな言葉で言えば、ユーザーに寄り添った文章を書いている。
だから、自分の考えやアイデアは記事全体において0,5割もあれば十分な方だろう。既に、500記事近く執筆してきているのだからエッセイのような文章を書くことには幾ばくかの恥じらいもある。
でも、久しぶりに書きたいと思う。2020年2月という今の時空は未来において、テクノロジー、社会、金融、社会問題などあらゆる分野でパラダイムシフトが起きていたと振り返ることができると思う。
それほど、現代人は今日の世の中における変化にスピード感と潜在的な疲れを感じているはずだ。もちろん、私も時代の変化に翻弄されている一人である。
閑話休題。
タイトルにもあるけど、この記事を読んでくれているあなたには、ぜひ呼吸に意識を集中してみて欲しい。
呼吸をしている時
・無意識な状態になれるか?
・漠然とした気がかりや不安ごとが湧き出てこないか?
・呼吸の音だけが胸に鼓動するか?
さて、どんな状態になるだろう。
20歳を過ぎた頃からだろうか。私は父親を亡くしてからお金に困るようになって、いつも金稼ぎのことを考えていた。
いつでもチャンスを掴もうと必死になったものである。当時のビジネスマインドは今にも継承されており、考え出したら止まらないのだ。
また、将来の心配事や不安に頭でいっぱいになることもある。無論、考えたって成るようにしかならないのにね。
呼吸に集中する。呼吸の音が耳に入るだけの状態になる。
座禅や瞑想の世界では有名な取り組みだけど、大袈裟に捉える必要はない。呼吸だけに意識を集中し、外部の情報を完全にシャットアウトできる人は現代人に多くないはずだ。それは、自分本位の考えではなく外部からの情報を過剰に摂取しているからだと思う。
人間は知らないことを知るのに、快感を覚える生き物。だからこそ、かわいい、きれい、かっこいい、そうした類の男女がSNSで写真をアップするとついつい見てしまう。
さらに、リアルタイムで更新されるネット上の情報に一喜一憂してしまうこともある。朝起きたらどこぞの国の大統領が自分の政策を自画自賛している。
賞賛、批判、傍観、、朝から夜まで人間の感情がネット上では泳ぎ続けている。
ネットの奴隷、詳しくはGoogleや主要SNSの奴隷となる人間は後を絶たないのだ。
この文章だって無料のnoteに書いている。情報を取り扱うプラットフォームに私だって加担している。自分への戒めでもある。
「昨今では、お金の価値は相対的に減少して人の信用度がスコア化されるようになっている。」
なんてことを、どこかのインフルエンサーや経済人もどきが発言するようになった。彼らは大衆が欲しがるような、求めるような新しい社会的な価値観を提供するエヴァンジェリスト。とりわけ、彼らが凄い訳ではなくて発言によって得られる人気とバックで発生する報酬のために発信しているだけ。
金から人の時代。そして金に帰結する時代。それが「令和」なのだろうか。
要するに、資本主義社会で回り続けるラット(俗世の人間)を今まで以上に過剰な情報で高速なレースに参加させることに相違ない。
と、考えるのは厚顔無恥な思惑ではないはず。
メディア運営をしている私は、そんな情報を発信する立場で仕事をしている一人。おそらく、同業の方であればタブーに近い真理を言いやがってと思うかもしれない。
私もそう思う。
でも、黙ってはいられないのだ。
情報を発信する側も、受け取る側も責任は取らない。
愛のないセックスは体の相性が良ければ得られる快感も、そこそこ大きい。しかし、人間的な感情が深く交わる理性的な関係は長続きしない(もっとも、始めからお互いの同意であるなら問題はないが)。
例えが大袈裟かもしれないが、相手を思って情報を発信する・受け取ることに対して責任を取らない時代になっている。
中にはセフレの関係だけで満たされる人もいる。が、多くの人は一時的な感情による肉体関係であり、心から愛でる相手を求めるだろう。
情報という知覚のコミュニケーションに現代人は責任を取らなくなった。知ることだけに興味を持ち、背景にあるコンテクストはどうでもいいのだ。
いや、どうでもいいのではなく情報が多すぎるから処理しきれなくなったのが正解と言える。本当に必要な情報を取捨選択できず、伝える側も受け取る側も混乱している。
それでも、人間の知りたい欲望が消えることはない。かえって、情報量が増加し刺激的な言葉、画像、映像が流れることで脳が麻痺を起こしている。
もっと欲しい。もっと欲しい。
そうやって、知らずうちに情報への依存が進んでいるのだ。
・発信する側はもっと見られたい
・受け取る側はもっと見たい
お腹はパンパンだけれども、都合の良い情報のやり取りに加担することを辞められないのだ。
これは、集団的なことであり「誰しもが参加しているから」というイデオロギーを含蓄している。
いいねの数やどれくらいの視聴数があるかが重要になる情報の取り扱い。全てのコンテンツに当てはまる訳ではないことは、重々承知している。
されど、悪化が良貨を駆逐するような事態がまさに目の前で起きてるのだ。金から人。いわゆる信用経済のもたらす病は、人々の思考を悪貨で統一しやすくなることを助長している。
考え方次第では、宗教よりも強力な固定観念の植え付けであり、新型肺炎(中国/武漢発症)よりも拡散力と感染力が強い。
解決策?
そんなものは、個人の力で変えられるものではない。人々が求めていたニーズであり、行き着くところまでいって自滅的内爆発が必要になるからだ。
ところで、2月の零時は暖房なしだと本当に寒い。スリッパを履いて暖かい格好でデスクに座っても、「スースー」と体が冷えるのを感じる。
ということで、寒さと眠気がマックスになる前に締めに入りたい。
今回はwebの仕事に携わって約1年が経過する私が感じていることであり、少なくても私自身は抗いたいテーマについて思うところを乱筆してみた。
情報への責任を持つ。それは、一つの命題に対して自分なりに出した答えを信ずることでもある。
大切なことは、人を想うこと。自分がされたら嫌なことを他人にしない。
デジタル空間を前提に生きる現代人だからこそ、やりたい放題の無秩序な空間に責任を持つ必要がある。
「空気を吸って、吐く」
至って当たり前に行う呼吸に意識を向けられない。そんな虚しさを捨てるためにも、邪念のない責任を自ら取るべきだと考えている。
そうありたい。
2020/2/10 23:32
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